いわき市立草野心平記念館。福島県いわき市小川町高萩字下夕道。
2024年5月24日(金)。
塩屋埼灯台を見学後、15時30分ごろに駐車場へ戻り、いわき市北西郊外にある草野心平記念館へ向かった。予定では、翌朝にしようとしていたが、入館期限の16時30分までに余裕で着けそうだった。
意外と遠く、遅い車に先行されると時間がかかる。記念館の建つ丘への進入路を見逃し、集落の中を回りこんで戻ったり、記念館が見える裏口の進入路を登って戻ったりして、記念館前の広い駐車場に着いたが、案内看板がなく迷った。16時15分ごろに入館。展示室内は撮影禁止。
企画展では草野心平が訪れた中国など国内外が紹介されていた。感覚に訴える展示が多く、詩的世界を表象する試みが見られた。彼が開いた居酒屋「火の車」の復元展示は面白かった。
事前にグーグルマップの口コミを見ていたら、記念館の屋上の土と草の造りとそこからの景観に感動したという意見が多かったので、館を出て左右の屋上に登ってみた。たしかに、ここに来る意味の半分ほどの価値があった。
草野心平の詩は読んだことがない。カエルの詩人といわれていたことは知っていた。1988年に亡くなったときに新聞記事は読んだ。草野心平は私が関係していた財団法人の評議員だったので、毎年欠席を知らせる葉書を見ていた。その印影が他の人よりも面白かったので、1枚を自宅へ持ち帰って保管している。
草野心平記念館は、文化勲章受章者・日本藝術院会員で、いわき市の名誉市民でもある詩人草野心平(1903~1988年)の生涯と作品の魅力を、自筆原稿、詩集、自作朗読音源、そして彼が開いた居酒屋「火の車」の復元展示などで紹介するほか、文学をはじめとした企画展、講演会、演奏会など、多彩な催しを開催している。館内ロビーからは、心平のふるさとである小川町と阿武隈山系の山脈を一望でき、詩人を育んだ雄大な自然を体感できる。開館は、1998年8月19日。設計は、いわき市の(株)邑建築事務所。第18回 福島県建築文化賞優秀賞(2000年)。
草野心平(しんぺい、1903年(明治36年)~1988年(昭和63年))。福島県立磐城中学校、慶應義塾普通部中退、中国広東の私立嶺南大学(現・中山大学の一部前身)芸術科に学んだ。1935年(昭和10年)5月、詩誌『歴程』を創刊する。創刊時の同人は、心平、岡崎清一郎、尾形亀之助、高橋新吉、中原中也、土方定一、菱山修三、逸見猶吉、宮沢賢治(物故同人)の9名で、その後、山之口貘、伊藤信吉、小野十三郎らが加わった。1950年(昭和25年)1月、一連の「蛙の詩」により第1回読売文学賞(詩歌部門)を受賞。1952年(昭和27年)3月、文京区小石川田町に居酒屋「火の車」を開店するが、1956年(昭和31年)12月、居酒屋を閉店。
「蛙の詩人」と俗に言われるほどに、生涯にわたって蛙をテーマとした詩を書き続けた。
アトリウム正面奥の窓から一望できる阿武隈山系は、心平が16歳まで暮らした故郷の情景である。
アトリウムからロビー入口方向。
坪庭。
左側の屋上。
入口正面。
右側屋上。坪庭の上部。
右側屋上から左側屋上方向。
円形劇場風の石段ベンチ広場から記念館入口方向。
記念館から出るときに、「いわき民報」の配達員から新聞を渡された。16時50分ごろに駐車場を出ていわき市街地に向かう。
磐城平城跡は見学が困難らしいのであきらめた。付近の台地も道が狭い。
飯野八幡宮。幣殿拝殿。いわき市平字八幡小路。
駐車場は分かりずらいが、境内地の横にあった。
社伝によれば、源頼義が前九年合戦後の康平6年(1063年)に京都石清水八幡宮を勧請したという。文治2年(1186年)に関東御領好嶋荘の総社として、源頼朝の命により、本社石清水より御正躰を奉じて、岩城郡飯野郷の赤目埼見物岡(磐城平城敷地。現在のJR常磐線いわき駅北側の高台)へ奉祀した。
浜通り南部でも最大級の神社であり、岩城氏や磐城平藩主など当地を本拠地にした権力者たちから崇敬を受けてきた。
関ヶ原合戦後に岩城氏は追放され、代わって徳川譜代の鳥居忠政が入ると、慶長7年(1602年)に現在地である八幡小路に飯野八幡宮は移設され、移設後の飯野八幡宮跡地に磐城平城が建設された。
大国魂神社。拝殿。いわき市平菅波宮前。
17時40分ごろ、細い橋を渡ると駐車場があった。神社は丘上にあるので、急階段を登らねばならない。現在の社殿は江戸時代の延宝8年(1679)の建立で市の有形文化財。
主祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)こと大己貴神(おおなむちのかみ)。延喜式内社。
社伝によれば、桓武天皇の延暦年間、征夷大将軍坂上田村麻呂が勅を奉じて東夷を征伐したとき、当地を通過し一古祠の甚だ荒蕪してあるを見、これをこの地の人に問い、はじめて大国魂神社なるを知り、勝戦を祈り、幾ばくももなくして賊平らいだために大社を築造して奉賽されたという。
付近には奈良時代の廃寺跡や甲塚古墳といった古代遺跡が点在しており、『先代旧事本紀』巻十『国造本紀』に「石城国造」の名も見られることから、当地は石城国造の根拠地であったと推定され、当社は氏神、甲塚古墳は墳墓と考えられている。また、養老2年(718年)から数年の間石城国が設置されており、その国府所在地とも考えられている。
その後延喜式神名帳では小社となり、当地方の代々の領主たちの崇敬も厚く、江戸時代には磐城平藩主であった内藤氏や安藤氏により神輿の寄進、文書の確定および社殿の造営などが次々になされた。
同社に伝わる国魂文書は中世磐城の様子を知ることができる一級史料である。
年3回奉納される「大和舞」は出雲流神楽の流れをくみ、記紀に伝わる神話をはやし方の音に合わせて踊る。
社家と思われる女性に出会ったので、甲塚古墳見学用の駐車場を尋ねると、道路反対側にある大國魂神社のもう一つの駐車場を案内してくれた。
国史跡・甲塚(かぶとづか)古墳。大國魂神社の駐車場から。いわき市平荒田目。
少し遠かったので、道路を進んで正面の位置に進んだ。
国史跡・甲塚古墳。
夏井川河口近くの平地に造られた円墳で、直径37m、高さ8.2mを測る。円墳としては形が整っており、保存状態も良い。未調査のため内部構造や築造年代は明らかで無いが、周辺の古墳との比較から、6世紀後半から7世紀後半にかけて造られたと推定される。
付近には奈良時代の廃寺跡や延喜式内社大國魂神社があり、古代磐城地方の政治・文化の中心地であったことを想定させるものがある。
このあと、道の駅「いわき よつくら(四倉)」へ向かった。いわき市の見学予定地を全てクリアしたので、翌朝は、富岡町の東京電力廃炉資料館の見学から開始した。