重要文化的景観「オプシヌプリ」。平取町二風谷。国道237号線オプシヌプリ視点場から。
2022年6月9日(木)。
二風谷コタン見学後、車で2分ほど上流方向へ進み、「オプシヌプリ」視点場へ着いた。
道路沿いに案内板があるので場所は分かりやすい。
平取町には「アイヌの伝統と開拓による沙流川流域の文化的景観」として国の重要文化的景観に選定された地域が各所にある。対岸に見える「オプシヌプリ」もその一つである。
オプシヌプリは穴空き山という意味のアイヌ語である。アイヌに生活文化を伝承したオキクルミという神がヨモギの矢を射って山に穴を空けたという伝説がこの地域には残っている。
明治31年までは本当の穴だったが、災害(地震説・大雨説あり)により現在は上部が崩落しており、半円のようになっている。夏至の頃には日没時に太陽が穴にすっぽりと収まることから、地元の人などがその様子を鑑賞する名所となっている。
平取町重要文化的景観 「オプシヌプリ」「平取町文化的景観解説シート」から。
オプシヌプリ Opus-nupuri。
にぶたに湖対岸(沙流川右岸)の国有林内にあります。オキクルミカムイが弓に矢をつがえ、射抜いたとされる伝承がある山です。明治31年の大水害の時まで、くぼみの上の部分が繋がっていて、穴の状態だったといわれています。夏至には、窪みに太陽が沈んでいく様子を見にたくさんの人が訪れます。
山の尾根が丸く欠けた特徴的な形態から、沙流川の神秘的なイメージを象徴するアイヌ伝承地として知られています。
オプシヌプリの伝承
記録に残っている伝承(資料1)の共通項に、オキクルミが貫いた山という表現があります。その伝承の形成時期を探る情報は、今のところ見出すことができません。
最も古い情報は明治29(1896)年の「プイヌプリ」(図1・資料2)です。その後、明治31(1898)年の大雨(地震説もあり)によって丸かった穴が崩落したと伝えられています(資料3)。
後の記録に表れる「オプシヌプリ」もプイヌプリと同様に山の状態を表す名称です。その語源だけをみてもアイヌ伝承との結びつきは判然としません。
吉田巌による「オキクルミのチョッチャした跡という穴」という明治44(1911)年の記録は、今のところオプシヌプリとオキクルミを結びつけた最古の文献情報です(資料2)。
それが矢なのか槍なのかは不明ですが、明治後半代には資料1にあるような伝承がみられることになります。
オキクルミは新井白石による『蝦夷志』(享保五年:1720)を始めとした近世の地誌において、義経伝説を助長する形でたびたび登場します。特徴的な山や岩塊に対して、いろいろな観方や言われ方をする中で、オキクルミの伝承が徐々に語られるようになっていったと考えられます。
記録されている2つの伝承(資料1)は、それぞれ特徴的な内容をもっています。1は額平川流域を含めた広域でのストーリー展開であり、2は沙流川の伝承で度々みられる十勝方面からのトパットゥミ(群盗・夜襲)を題材にしています。このことは流域住民がオプシヌプリに対して、いろいろな観方や想いをもっていたことを示しています。
沙流川流域は、北海道の中でもアイヌ伝承記録がとりわけ多い土地柄といわれています。今後、資料を掘り起こしていく中で新たなオプシヌプリ伝承が見出されることがあるかもしれません。
資料1 オプシヌプリの伝承
1.文化神オキクルミが沙流川の支流貫気別川の奥のエマニチヌプリ(焼串山)の上を居城にしていたとき、そこから額平川の支流トゥレプンナイ(うばゆりある沢)の山を目標にして、投槍の練習をしていると、槍がトゥレプンナイの山にあたらずにそれて、沙流川の川向いのオプシヌプリ(そこを破った山)という山を突き抜いて大穴をあけてしまった。その穴は地震のために上が崩れ落ちて、今はへこみにしか見えていない。 [二風谷 二谷一太郎伝] (更科 1971)
2.昔、十勝の方のアイヌが沙流川に攻めてきた。その時オキクルミカムイ(アイヌに生活文化を教えた神)が、互いに血を流すことを避けるために、技比べをしようということになった。最初にオキクルミがヨモギの矢をつがえて川のむこうのあの山を射た。一本の矢で見事に岩山に穴が開いた。十勝アイヌはそれを見て度肝を抜かれて逃げ帰った。それだから、あの山の向こう側、山の後ろへ行ってみると、よもぎがいっぱい生えているのだよ、と。この穴あき山のことをオプシヌプリというのです。(萱野 1975)
資料2 オプシヌプリの語源及び別称
オプシヌプリ opus nupuri 穴があく・山 (更科 1971、萱野 1975)
プイヌプリ puy nupuri 穴・山 (明治二十九年製版北海道仮製五万分一図)
オキクルミのチョッチャした跡という穴
cotca 刺す、射る、(弾丸・矢を)当てる (吉田 1957)
資料3 オプシヌプリの崩落
明治31年の大水害までは、今のくぼみの部分の上がつながっていて、本当に穴であったそうです。それが、大水害をもたらした大雨のときに、上のつながりが落ちてしまったと子どもの頃に聞きました。
昭和20年代に写した写真と、現在の姿を比べてみると、今の穴は、当時よりかなり上の方が広がっているように思います。あの付近の岩石は砂岩なので、ひょっとするとその昔は本当に上がつながっていたのかも知れないし、また、そのくぼみはこれからも広がり続けることでしょう。 (萱野 1984)
オプシヌプリ観賞会
夏至の日を中心に数日間、オプシヌプリのくぼみ部分に夕日が沈む様子をみることができます(写真2)。平取町二風谷アイヌ語教室では、毎年この時期にオプシヌプリ鑑賞会を行っています。この夕日を一目見ようと、国道237号沿いのカンカン待避所(二風谷)には、町内外からたくさんの人が集まります。
オプシヌプリは地域のアイヌ伝承地というだけでなく、幻想的な姿を見せてくれる自然の造形という側面をもっています。
このあと、国道を2分ほど戻って二風谷コタンの道路反対側にある萱野茂二風谷アイヌ資料館を見学した。