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「暴かれた闇の支配者の正体」②小泉・竹中 ハゲタカ 長銀・新生銀行 りそな銀行

2025年01月04日 08時34分54秒 | 社会

「暴かれた闇の支配者の正体」②小泉・竹中 ハゲタカ 長銀・新生銀行 りそな銀行

 

暴かれた[闇の支配者]の正体  ベンジャミン・フルフォード 2007年4月刊

 

既に日本の財産はハゲタカに奪われまくっている

日本長期信用銀行(現・新生銀行)は、リップルウッドをはじめとするハゲタカ・ファンドに安く買い叩かれただけではない。公的資金として投入された日本人の血税数兆円が、そのまま外資の手に渡ってしまった。

 

10億円の買い物が1兆円に

長銀は1998年に破綻し、日本政府が一時的に国有化したが、2000年3月にアメリカのリップルウッドを中心とした外国の投資組合に買収され、同年8月新生銀行に生まれ変わった。長銀は外資にわずか10億円で売られた。

長銀は「イ・アイ・イ」に3800億円も貸して踏み倒された。

リップルウッドは長銀買収時に瑕疵担保条項を付け、不良債権を外資から公的資金で買い戻させた。2004年に東証へ再上場し、上場益は1兆円に達した。公的資金・税金5兆円をふんだくって経営再建し、1兆円の利益を上げた。

しかも外国の投資組合はオランダ籍。課税権はオランダで、海外の投資益に課税されないため、リップルウッドはどこの国にも税金を納めていない。

新生銀行立ち上げ当時の取締役とシニアアドバイザーのリストには、社外取締役デヴィッド・ロックフェラー。「ビルダーバーグ会議」「日米欧三極会議」の実質的主催者。アメリカの闇の権力である外交問題評議会(CFR)の元議長。

シニアアドバイザー。ポール・ボルカー。FRB元議長。

長銀の破綻処理を監視する金融再生委員会のアドバイザーにゴールドマン・サックス証券

規制緩和の名目で外資が日本で暴れられる下準備をしたのは小泉政権。

 

現代日本最大のタブー=りそな国有化

りそな国有化は、小泉・竹中が日本をアメリカに売り渡した売国的インサイダー取引である。

りそな問題に関わる人は不審死を遂げ、微罪逮捕されている。りそな問題はジャーナリストが扱う危険なトピックのベスト3に入る。

 

朝日監査法人の会計士・平田聡さん。2003年4月、自宅マンションから飛び降り自殺。りそな銀行の監査を担当する朝日監査法人(現・あずさ監査法人)に所属。りそな銀行の経営危機を演出したい政府筋の激しい圧力を受けたといわれる。その後、朝日監査法人はりそなの監査を降りた。

 

経済評論家・植草一秀さん。覗きと痴漢の容疑で2004年と2006年に2度逮捕。逮捕されたのは、りそな問題を追及する本を出版する直前のこと。

 

国税調査官・太田光紀さん。2006年9月、手鏡で女子高生のスカートの中を覗いた容疑で神奈川県警に逮捕。りそなの脱税問題を調査していた。

 

朝日新聞記者・鈴木啓一さん。2006年12月18日、「りそな銀、自民党への融資残高10倍」というスクープ記事が朝日新聞に掲載された。記事によれば、自民党に対する大手銀行の融資残高は2005年末で80億円に達するが、りそな銀行が54億円と大半を占めている。りそなは突出しており、旧大和銀行時代から永田町に対して国政選挙の資金を提供しており、事実上の政治献金であった。このスクープ前日、鈴木啓一論説委員が海に飛び込んで自殺した。

 

りそな国有化はアメリカの闇の権力が仕組み、小泉純一郎と竹中平蔵が演じた壮大なインチキ芝居であった。

 

植草氏が掴んだりそな売国インサイダー取引疑惑

2003年5月、政府は経営危機にあったりそな銀行への公的資金注入を決定、事実上国有化した。税金2兆3千億円を注入。その経営危機は演出されたものだった。そのことを指摘したのが植草一秀氏であった。

小泉首相が所信表明演説で弱肉強食の市場原理主義、大企業優先の緊縮財政を発表した2001年5月から2年弱で株価が半値に暴落し、7607円まで下がった事実を植草氏は指摘。

小泉政権の「潰すものは潰す」政策を受けて株は投げ売りされたが、2003年5月に突然方針転換してりそな銀行を救済することにしたため、株価は急上昇し、2003年8月に1万円を回復した。

安いときにりそな銀行の株を何者かに大量に購入させたとみる。小泉政権は2003年前半にアメリカ政府と頻繁に連絡を取っていた。ぼろ儲けしたのはハゲタカ・ファンドであった。

りそな銀行だけが、なぜ狙われたかというと、りそな銀行の頭取だけが小泉政権の経済政策を批判していたからだという。公的資金注入後も特定勢力からの脅しが絶えず、新たに会長に就任した細谷英二氏も何者からか命を狙われ、ガードマンが常に警護していた。

監査法人も2003年3月末に突然自己資本の不足を告げ、経営危機を演出したという。

(以下、植草一秀とベンジャミン・フルフォードとの対談を含め、冤罪、国策捜査を主張)

 


暴かれた[闇の支配者]の正体①アメリカの日本支配計画 狙いは巨額のジャパンマネー ベンジャミン・フルフォード2007年

2025年01月03日 09時25分21秒 | 社会

暴かれた[闇の支配者]の正体①アメリカの日本支配計画 狙いは巨額のジャパンマネー ベンジャミン・フルフォード2007

 

アメリカの日本支配計画不良債権問題をはじめ、ヤクザやエセ右翼が銀行と企業の間に入り利権をむさぼっている。日本の政財界の要人が関与。CIAとその背後のアメリカの特定勢力(闇の権力)から指示され、カネを貰って活動していた。最近は自民党の親米派経由。彼らは北朝鮮・ロシア・中国を叩くがアメリカは叩かない。愛国心を叫びながら、日本の国益のために働く政治家やジャーナリストを抹殺する。

闇の権力はアメリカの政府・石油産業・軍事産業・金融・マスメディアを支配する秘密結社であり事実上の支配者である。頂点にはデヴィッド・ロックフェラーが君臨している。

闇の権力の狙いは日本人が持つ世界一の個人資産1500兆円を奪い取ることだ。ここ数年に起きた経済事件や構造改革なるものは闇の権力が日本人の財産を奪うために仕掛けたものだ。

 

  • 「闇の権力」の狙いは巨額のジャパンマネー

日本人は戦後こつこつと1500兆円を貯めた。この金融資産を闇の権力が奪い取るための仕掛けが、郵政民営化、日本長期信用銀行の破綻、りそな銀行への公的資金注入などであった。郵政民営化では地方ボスの特定郵便局長らの守旧派が打撃を受け、長銀の破綻では新生銀行ができ、日本国民にはハッピーエンドの解決と思われた。しかし、このストーリーは闇の権力とそのエージェントがマスメディアを巧みに利用して行ったプロパガンダだったのだ。

エージェントは政治家、官僚、財界人、ジャーナリスト、暴力団・右翼団体幹部などの著名人だが、この問題を扱うときは「命の危険」に注意しなければならない。調査する者はおろかエージェントでさえ社会的に抹殺され、実際に殺されることがある。

 

郵政民営化=郵政米営化のデタラメ

2007年10月の郵政民営化はアメリカ闇権力の邪悪な企みの最たる例。個人資産1500兆円の4分の1近くを占める350兆円の郵便貯金・簡易保険を闇権力に売り渡す売国行為。小泉首相や竹中平蔵大臣はアメリカの利益を実現するために巧みに世論を操作し、反対する議員に抵抗勢力のレッテルを貼って落選させ、インチキ選挙で法案を通した。

 

郵政民営化は世界の潮流?

(アメリカは、アメリカ合衆国郵便公社(郵便庁)を維持。

イギリスは、2015年に政府がロイヤルメールの株式を手放し、完全民営化

ドイツは完全民営化。ドイツ復興金融公庫が21%所有。

ニュージーランド。政府の認可法人。民営化の失敗。キウイバンク。)2020現在。

 

誰が郵政民営化を望んでいるのか?

アメリカ政府。年次改革要望書1993年宮沢・クリントン会談以後。属国日本への命令書。

小泉=竹中は完全にアメリカの言いなり!

要望書は郵政会社の、民間と同じ条件、市場原理による運営を勧告。2004年に2007年の民営化が勝手に決められていた。法案成立は2005年。2004年以降アメリカの保険業界と日本政府の会合。03年に郵貯・簡保資金の運用先公募、04年にゴールドマン・サックスなどが決定。

 

総務省担当政治記者の不審な死

2007年4月5日、読売新聞政治部の石井誠記者(36歳)が自宅玄関で不審な死を遂げた。彼は郵政民営化に関し批判的な記事を書き、メディア規制の取材をしていた。石井誠氏は後ろ手に両手に手錠をかけられ、尻の穴にはバイブレーターを突っ込まれ、口の中に靴下を詰め込まれ粘着テープで塞がれた状態で死亡していた。死因は窒息死。部屋からSMグッズが見つかったことから警察は早々と「事件性は薄い」と判断している。

しかし、口に靴下を入れ、後ろ手に手錠をかけるような行為が一人でできるのか。母親と一緒に住んでいたのに、服を着たまま、なぜ玄関でそのような行為をしていたというのか。鍵を手に持っていたというのも、不可解で、誰かが握らせたのはないか。部屋のSMグッズはいつだれが買ったものなのか捜査はされていない。

彼の周辺の人によると、彼は最近「大変な事実をつかんだ」「自分は殺されるかも」と漏らしていたらしい。

私(フルフォード)にも、ある国家権力者からメールが届いた。「君がどんなに情報を持っていても必ず動くときは動く。東京湾に浮かんだ連中は誰一人として自分が殺されるなんて信じてなかったよ(笑)」


読書メモ「古代氏族の研究⑨ 吉備氏 桃太郎伝承をもつ地方大族」宝賀寿男 2016年

2025年01月02日 09時52分09秒 | 歴史

読書メモ「古代氏族の研究⑨ 吉備氏 桃太郎伝承をもつ地方大族」宝賀寿男 2016年

 

吉備氏の祖系は、一族の神社・祭祀、吉備の地名や氏人の行動などからみて、大物主神の祭祀が強く、吉備氏(本宗の上道氏・下道氏)の実際の祖系は皇別ではなく、海神族系の磯城県主・三輪氏と同族である。

崇神期の王権拡張過程で、大和王権のもとに吉備地方ついで出雲に侵攻した吉備津彦兄弟吉備氏と吉備の歴史が始まる。

吉備氏の本宗は、当初は兄の吉備津彦(五十狭芹彦命)の流れである備前地域の上道氏系統であったが、応神即位ごろに本宗格は稚武吉備津彦(彦狭島命)の流れである備中地域の下道氏系統に替わった。

雄略期になって下道氏系統、ついで上道氏系統が大和王権に対して叛意を見せたということで、王権から討伐の対象になり、とくに上道氏系統への打撃が大きかった。

吉備氏一族の勢力は5世紀後半以後、大きく衰えていき、欽明期には白猪屯倉が児島を含む吉備全域の各地に設置されて、中央王権の直轄支配を受け、その重要な屯倉となった。こうした事情のもとで、吉備氏一族から男女が朝廷に出仕したが、天武朝になって八色の姓で朝臣賜姓をうけたのは、下道・笠の両氏にすぎない。

 

古代の吉備地方中央部にいた吉備の主要豪族については、一系ではなかったが、吉備を氏族連合国家と考えるべきではない。吉備本系では「上道・賀陽」および「下道」の2系統があり、これらと並んで異系の三野臣・笠臣の流れがあり、天孫族・少彦名神後裔・鴨族系の三野前国造の同族とみられる。これら諸系には相互に頻繁な通婚があって、吉備氏統合に向けた動きともなったが、異系のほうではその祖先神崇拝も残った。

吉備侵攻時に吉備津彦兄弟に随従した「犬・猿・雉」(これをトーテムとした部族諸氏)の後裔の諸氏も永く存続して、吉備津宮など関係諸社の祭祀に関与した。桃太郎伝承を無視しては吉備・出雲の上古史解明はできない。「猿・雉」は上古の美濃西部(三野前国造)、「犬」は伊予と関連する。

吉備原住の温羅に関連するとみられるマサキ神社・御崎神社や当初の備前一宮と伝える安仁神社については不明な点が多い。

 

吉備一族は大化前代にはかなり弱体化していたが、奈良朝後期には右大臣吉備真備・参議泉親子などの上級官人を出した。平安中期ごろまでは下級武官として播磨の宇自可臣一族も見える。笠臣のほか吉備同族で笠朝臣姓を賜った例(印南野臣、宇自可臣、三尾臣)がある。吉備の地元では、平安朝以降は、吉備津彦神社などの神官として賀陽氏などが細々と続いたにすぎない。

 

吉備一族で国造として残ったものには、上道国造(備前上道郡)下道国造(備中下道郡)、加夜国造(備中賀夜郡)、三野国造(備前御野郡)、笠国造(備中小田郡)のほか、蘆原国造(駿河蘆原郡)、角鹿国造(越前敦賀郡)、伊弥頭国造(越中射水郡)である。

吉備地方の国造は本来、吉備国造一つであったが、数次の反乱などの影響を受けて分割された。蘆原・角鹿・伊弥頭の国造などの一族は、日本武尊の東国遠征に随従した吉備武彦の子弟が遠征路上に置かれたのが起源である。

 

吉備氏の起源と動向。

大和王権の拡大、4世紀前半の崇神期、吉備津彦兄弟が大和から吉備へ侵攻

吉備には部族はあっても王国はなかった。造山・作山などの古墳は河内と共通の要素をもつ。勢力的に大和の十分の一程度。吉備津彦兄弟は、まず播磨西部まで押さえた。加古川下流左岸。日岡神社。祭神は兄弟の父か。稚武吉備津彦の娘は景行天皇の皇后で陵墓は日岡山古墳群の日岡陵古墳。

備中倉敷北部の楯築墳丘墓と周辺の弥生墳丘墓は在地勢力が数世代続いたことを示す。

足守川流域に温羅(うら)という渡来伝承をもつ鍛冶部族がおり、吉備津彦が吉備各地で戦い、桃太郎伝承として残る。

美作一宮の中山神社(津山市)。社家に美土路(みどろ)、中山、中島。裏山に猿神社。二宮の高野神社(津山市)。犬狼祭祀。鍛冶部族は伽耶・新羅あたりから渡来し先住者になったか。伽耶の安羅あたりから神武前代に渡来した鍛冶集団「天日矛集団」が吉備を通過したことはありうる。吉備の製鉄遺跡は全国的に最古である。総社市には姫社神社があり、天日矛の后神を祀る。南西に正木山(麻佐岐山)があり、山頂に霊石がある神体山である。式内社に麻佐岐神社がある。ハタの地名は日矛族がもたらしたものか。5世紀前半に渡来した山城の秦氏より渡来は古い。吉備の鉄生産は弥生時代後期まで遡るとみられている。岡山市北区・津寺遺跡。鉄滓が出土。

 

吉備氏祖系三輪氏・彦坐命同族。海神族。宮山古墳。総社市三輪。式内社神(みわ)神社。笠臣・三野臣は鴨県主同族の美濃も三野前国造一族。吉備平定に随行。

吉備津彦命兄弟の母はハヘイロドで、その同母姉ハヘイロネが崇神天皇・百襲姫を生んだ

上道氏系統浦間茶臼山古墳(吉備津彦命)、湊茶臼山古墳(日子刺肩別命)、金蔵山古墳(吉備武彦)、神宮寺山古墳、玉井丸山古墳。下道氏系統中山茶臼山古墳(稚武吉備津彦命)、佐古田堂山古墳、造山古墳、作山古墳、小造山古墳、宿寺山古墳。

下道氏から応神天皇の妃として吉備の兄媛を出して、応神を支え、妃の兄・御友別の子孫が吉備氏族のなかで優位に立った。造山・作山古墳時代。

足守は賀陽臣氏の本拠。岡山各地に竜王山。大和の竜王山。大和(おおやまと)神社は倭国造家が奉斎。竜蛇信仰。海神族の阿曇連・尾張連と同族。

 

大和王権の出雲侵攻と吉備氏

崇神期後期。吉備津彦と阿倍氏の武淳河別。西の出雲郡に振根、東の意宇郡に飯入根の勢力が対立。330年ごろ、振根による飯入根殺害事件を契機に大和王権が出雲郡を討伐の対象にして出雲全域を平定し、意宇郡勢力を出雲国造に任じた。意宇川が平野部にかかる大庭の地に国造が居住し。上流山間地に熊野大社を奉斎した。

吉備勢力の浸透出雲西部の出雲・神門郡に吉備部姓(出雲国造一族)が多く分布する。吉備部君が管掌。崇神末期の纏向遺跡に鼓形器台など山陰系土器が急速に増加。

出雲制圧時の吉備氏配下部族。「犬」(山祇族)は久米部族。「雉」(天孫族)は天若日子(倭文連・鳥取連の祖)後裔の伯耆国造族。「猿」(天孫族、鉱山師・鍛冶氏族)は少彦名神後裔氏族・物部氏族・鏡作氏族。

久米部族は吉備と出雲の中間の美作(中央に久米郷)で繁衍した。伯耆西部・日野郡の楽々福(ささふく)社の伝承。祭神は孝霊天皇・吉備津彦命兄弟。製鉄遺跡。金持(かもち)の地名と中世豪族金持氏。伯耆守護。出雲の漆部(ぬりべ)氏族は久米氏族。石見国那賀郡の郡領家は久米氏。石見郷、石見国造の本拠。出雲の監視役。

出雲平定時に、在地の意宇郡勢力から鵜濡渟(うかづくぬ)命を出雲国造に登用。鵜という鳥トーテムは天孫族のもの。

崇神期に波久岐県造、成務期に伯岐国造、伯耆国造に。倭文連一族は三野前国造・山城鴨県主と同族で、三野前国造の始祖神骨(かむほね)命の近親から出た。長幡部も同族。

 

吉備津神社社家。犬、雉、猿後裔。犬飼建命。犬養木堂。美濃池田郡春日郷に犬甘部。美濃・伊勢から吉備へ。若犬養氏。伊勢の安濃県造一族の県犬養連。中田名命は鳥飼部。雉の子孫は鳥越氏、鳥飼氏。天孫族少彦名神後裔には賀陽郡の弓削連も。有力社家の藤井氏。猿の子孫。百田大兄命は久米氏族か。河本氏は吉備・弓削連の後裔か。

物部氏族。備前赤坂郡の式内社・石上布都之魂神社(赤磐市)。

前期古墳では、伯耆が出雲・美作をしのぐ湯梨浜町東郷池周辺が伯耆国造の中心域。橋津(馬ノ山)古墳群。美作では勝田郡勝央町の植月寺山古墳、苫田郡(津山市)の胴塚古墳。前者は吉備弓削連、後者は漆部(法然を出した漆間氏)の墳墓。

 

美濃。三野後国造は岐阜・稲葉山を本拠とし、因幡の伊福部臣氏と同系。彦坐王の子の八瓜(やつり)命が三野前国造に。彦坐王の後裔に東濃賀茂郡の鴨県主一族。神大根命は神別鴨族の出。伯耆国造、三野前国造、倭文連は山城の鴨県主氏と同族。先祖は神武期の功臣八咫烏(ヤタガラス)、天羽槌雄命。山城の鴨本系から神骨(神大根)命の世代で美濃に分かれ、その近親に吉備・出雲で活動した留玉臣命が桃太郎のにあたる。吉備の三野臣、笠臣の祖。

 

吉備武彦の倭建東征随行と吉備氏一族の分布。

毛野地方。4世紀中頃までの東海・畿内勢力により開発された。崇神期、建沼河別命が会津(大塚山古墳)へ達す。4世紀後半には東北地方南部(仙台・遠見塚古墳)におよぶ。

吉備臣らの祖の御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ・吉備武彦)が倭建命(日本武尊)の従者として東征に遣わされたと古事記に見える。倭建命の母・針間伊那毘(いなび)大郎女は稚吉備津彦の娘。吉備武彦は吉備津彦の孫。父は日子刺肩別命。吉備武彦の妹・吉備建比売(穴戸武媛)は倭建命妃。兄弟近親も従軍して、駿河蘆原国造の祖(意加部彦命)、越前角鹿国造の祖(建功狭日命)となる。

倭建東征に三角縁神獣鏡を持参し配布。先の景行征西にも。

尾張氏。三角縁神獣鏡出土の墳墓。建稲種命は東之宮古墳。邇波県君祖・大荒田の娘・玉姫の婿。奥津神社古墳。愛西市。宗像三女神を祀る。尾張国造一族の女性か。兜山古墳。東海市。宮簀媛。

吉備に尾張氏の痕跡が残る。備前邑久郡尾張郷。

角鹿国造同族。砺波臣志留志。779年伊賀守。越中石黒系図所載。飛騨、三尾臣氏。

越中の遊部君氏。後裔、赤祖父氏。鉱山。

 

吉備武彦の系譜。吉備津彦の孫。父は利波臣、角鹿海直の祖・日子刺肩別命。上道系統。

備前車塚古墳。三角縁神獣鏡。近隣に大神神社。吉備氏は磯城県主・大神氏の一族。金蔵山古墳が吉備武彦の墳墓。倭建命の津堂城山古墳と類似。

 

御友別と吉備氏一族の分封伝承。

大和王権は4世紀後半、播磨・摂津辺りにあった大王家姻戚のホムチワケ(応神天皇)により簒奪された。即位390年頃。上道氏から本宗の地位についた下道氏も支持基盤となる。下道系統から応神妃の兄媛が出る。兄が御友別。

吉備海部直の黒日売。仁徳天皇の妃。海神族・倭国造の一族。牛窓古墳群。

岡山市造山古墳は御友別、作山古墳は子の稲速別の墳墓。小盛山古墳は応神妃の兄媛の墳墓。両宮山古墳は上道田狭。

笠臣氏。先祖の鴨別が応神朝に波区芸県に任じられた。現在の笠岡市。三野臣氏。

備前の三野臣氏。本拠は岡山市北区三野本町。御野、天孫族の故地・高天原(筑後の山本郡・御井郡)を意味する。都月坂1号墳。三野臣氏初祖・楽々森彦命の墳墓か。大森氏、大守氏。吉備津彦神社神主・大藤内家。

播磨に残る吉備氏同族。飾磨郡の下道系・宇自可(牛鹿)臣氏。印南郡の上道系・印南野臣氏。

東国の毛野氏。三輪氏族に類似。毛野の祖が和泉のチヌ(珍努)に関係。磯城県主支流。彦坐王の同族出身。祖先に下道氏の祖彦狭島命。稚武吉備津彦命の別名。上野国東部の上毛野氏本宗と西部の物部君の2系統並立。従兄弟・再従兄弟関係であった毛野氏荒田別・鹿我別のうち鹿我別は物部君の祖・夏花命の子孫。その後裔は浮田国造(南相馬市)や東北の吉弥侯部氏。栃木市に大神神社。

太田天神山古墳は5世紀前半の造山古墳と同時期で相似形。

 

吉備氏一族の反乱。雄略天皇の時代。下道臣前津屋、上道臣田狭・弟君の反乱を鎮圧。星川皇子の乱を鎮圧。5世紀後半の両宮山古墳が大古墳の最後。

韓地での活動。白村江の戦では、一族の蘆原君氏が水軍として参加

一族の祭祀。吉備津彦神社、吉備津神社。摂社・岩山宮の祭神は三輪氏の祖・櫛御方命。

祖系。磯城県主家からの中継ぎの大王・孝安天皇(懿徳の皇后の弟)の後裔。血沼別(ちぬのわけ)は和泉の茅渟に起こって、吉備氏・毛野氏を分出した。彦坐王の後裔は但馬国造、丹波国造、日下部君、日下部連。ほかに、但馬の竹野君。これら一族から四道将軍や皇族将軍を出した。

 

敏達・推古あたりから朝廷へ出仕。舒明の采女の蚊屋采女は賀陽皇子を生む。笠一族。大化期。笠臣垂(したる)。笠朝臣御室。大伴旅人の副将。平安中期まで中下級官人。万葉歌人。笠麻呂。

笠金村。笠郎女。

吉備真備下道氏。母の楊貴氏(やぎし)墓誌の出土。奈良県五條市。天平11(739)年。

同時代に上道臣斐太都(ひたつ)、のち正道。宮内大輔。平安時代初期の貴族・文人に賀陽朝臣豊年。

中世の吉備氏系の武家。妹尾氏と陶山氏。備中小田郡の小田氏は笠臣と同族。陶山氏も同族。真鍋氏も同じ。臨済宗開祖栄西禅師は賀陽氏。雪舟は小田氏

 

吉備真備の子・吉備泉(743~814年)。正四位上・参議。桓武朝に入ると、天応2年(782年)に伊予守として地方官に転じる。しかし、下僚と協調できずにしばしば告訴されたため、延暦3年(784年)朝廷から詔使が派遣され訊問を受ける。泉は詔使に対して不敬な対応をした上で、承伏しなかったことから、官司が法に則って処罰を求める騒ぎとなった。遂には桓武天皇の詔により、功臣(吉備真備)の子であることをもって罪は許されたものの、伊予守の官職は解任される。その後さらに譴責を受けて、延暦4年(785年)には佐渡権守に左遷された。延暦14年(795年)には父祖の出身地である備中国に移されるが、桓武朝末の延暦24年(805年)に赦免されて帰京するまで、桓武朝では不遇を託った。延暦25年(806年)桓武天皇崩御の際に山作司を務める。

幼い頃より学才があると評判が高かったが、生来の偏屈で短気な性格で、非協調的なことが多かった。短所は老いても変わらず、六国史の卒伝でも述べられるから、それが後々まで子孫にたたったのかもしれない。


山形県の離島 飛島②日本の渚百選・荒崎海岸 賽の河原 鶴岡市 大寶館

2025年01月01日 09時36分13秒 | 山形県

日本の渚百選・荒崎海岸。

2024年9月12日(木)。

荒崎海岸は日本の渚百選にも選ばれている飛島西海岸の美しい海岸で、ここからは御積島や烏帽子群島が見え、島の西側で一番のビュースポットである。ここから見る夕日は絶景という。

飛島は日本海が広がってきたころに海底火山から噴き出した噴出物が海底に積み重なり、それが隆起してできた島であるが、荒崎海岸はその噴火の時の軽石や流紋岩の破片を含んだ火山礫凝灰岩でできている。

荒崎周辺ではトビシマカンゾウやスカシユリをはじめとした海浜植物、海岸岩壁植物、草原植物が混生するという珍しい植生が広がっており、「飛島荒崎頸部の植物群落」として酒田市の天然記念物に指定されている。

柏木山展望台から見下ろす舘岩(左側)と小松浜海水浴場。

巨大な岩(舘岩)。

立入禁止になっていた。飛島は海底火山の活動でできた島で、島の南端にそびえる舘岩は火山岩の一種である流紋岩でできた一枚岩で、硬い岩石のため浸食されにくく巨大な姿を今に残している。崖上からはかつて北前船の停泊でにぎわった勝浦港が一望できる。

本州から約30km離れた孤島・飛島は、吹きざらしで風の影響を受けやすいという弱点がありながらも西廻り航路の出発点となり繁栄した酒田港を支えた島である。

巨大な岩(舘岩)と島の本体に囲まれ入り江になっている勝浦港は、波や風を遮ることができるため酒田港の風待ち潮待ち港としての役目を担った。酒田港に年間3,000隻も立ち寄った北前船は、多い年にはそのうちの500隻を超える船が飛島に停泊したという。

賽の河原への遊歩道。

小松浜海水浴場から海岸遊歩道の火山岩(流紋岩)が創りだす荒々しい景観のなかをいやになるほど遠く歩くと、こぶしほどの大きさの丸石が大量に打ち上がった「賽の河原」が現れる。

賽の河原。

海辺の霊場である「賽の河原」には、こぶしほどの大きさの丸石が大量に打ち上がっている。島民は滅多に近寄らない場所で、周辺の海で死んだ人は、ここに打ち上げられ、古くから死者の魂が集まる処と信じられてきた。御積島、明神社、そして亡き人の魂が集まるという賽の河原という島の西方は、聖地、霊地として意識されてきた。

この賽の河原に積まれた石は、崩してもいつの間にか元に戻るといわれ、その理由についても、波の作用か、人の作用かと、様々な考察がされているが、真相は謎とされている。

幾つかの石の山は、人が積んだものではなく、自然の風、海の流れで積み立てられたものである。工事中の人が、ここで変な音を聞き、恐くて逃げ出したという話がある。また、石を持ち帰った人には、不幸な事が起こったり、船のエンジントラブルが起こったりするという言い伝えがある。子供が親の為に積み、鬼が来てそれを壊すという霊場の石には、手を触れないという言い伝えがある。

賽の河原にある玉石には特徴がある。崩れ落ちた材木岩の六角の玄武岩が、海の中で他の石や波に揉まれ角が取れ、きれいな玉石になっている。

 

遠ざかる飛島。

賽の河原の往復には30分ほど要した。必死に海岸遊歩道を戻り、自転車で港へ戻ると、13時30分を過ぎていた。自転車を返して、船に乗ると13時45分に出航した。

15時に酒田港に着いたが、時間が限られているので、水曜日が定休日の鶴ケ岡城跡(鶴岡公園)にある大寶館へ向かった。

大寶館(たいほうかん)。鶴岡市馬場町。鶴岡公園内。鶴岡市指定有形文化財。

大正天皇の即位を記念して大正4年(1915)に建てられた赤いドームと白壁が特徴の洋風建築物。大正初期の洋風建築としてバロック様式を模して造られたもので、ルネッサンス風のドームをのせた赤い尖塔屋根と白亜の殿堂は全国でも稀なデザインである。

開館当初は物産陳列場、戦後は市立図書館として利用され、現在は、明治の文豪・高山樗牛、「文学の神様」と称された横光利一、日本のダ・ヴィンチといわれた松森胤保など、鶴岡が生んだ先人たちの偉業を讃える資料を展示している。

鶴ヶ岡城の前身となる大宝寺城が最初に築かれたのは、鎌倉時代初期に出羽国大泉荘の地頭として封じられた大泉氏であると伝えられる。大泉氏はこの地に土着し、後に武藤大宝寺氏を名乗った。

戦国時代に入ると武藤氏は庄内地方の有力な勢力となったが、天文元年(1532年)に大宝寺城は焼亡し、当時の武藤大宝寺氏当主の晴時は本拠を大宝寺城の西にある尾浦城に移し、て大宝寺城はその支城の一つとなった。その後、武藤氏は庄内地方の統一を果たし、武藤義氏の時代に最高潮に達した。しかし、義氏は天正11年(1583年)、最上義光と結んだ家臣の謀反により自害に追い込まれた。その後、庄内地方は上杉氏と最上氏の争奪の地となり機に乗じた上杉景勝によって、天正16年(1588年)併呑された。

江戸時代になると、庄内地方には信濃国松代城より譜代大名の酒井忠勝が入った。忠勝は鶴ヶ岡城を本城と定め、亀ヶ崎城を支城とした。忠勝は入封すると、簡素な造りであった鶴ヶ岡城を近世城郭へと大改修に着手した。二の丸、三の丸を拡充し、城下町の整備を行った。庄内藩の本城としての偉容が完成したのは、3代忠義の時であり54年の歳月が費やされた。本丸は一部に石垣が使用されたが大半が土塁であり、幅約20mの水堀に囲まれている。

 

道の駅「みかわ」に戻り、翌朝は黒川能の村から見学を始めた。