「実在とは何か?」などというと形而上学的な話に思えますが、実は科学的に結構切実な話です。つまりは「直接見えないような現代科学上の概念である"分子"や"原子"や"素粒子"などは本当にあるのだろうか? それとも人間が考え出しただけの都合のよいモデルに過ぎないのか?」という問いなのです。
確かに現代科学における"分子"や"原子"が考え出された当初は、これらはマクロな現象を説明するための仮説的存在でした。それゆえエルンスト・マッハなどは「原子の実在は認めない」と言ったのです。しかしその後様々な知見が積み重なり、今では電子顕微鏡や走査プローブ顕微鏡(SPM; Scanning Probe Microscope)で"分子"や"原子"の姿も見えるようになりましたから[*1]、「ほら"分子"も"原子"もちゃんと実在してるよ」という人がほとんどでしょう。
しかし"分子"を作っている"原子"間の化学結合となるとどうでしょうか? 分子模型では球体である原子が棒でつながっているように表されていますが、あの棒のようなものは実在しているのでしょうか? もちろん実在はしていません。共有結合を成す原子同士は別に固体状の棒でつながっているわけではありません。むしろ伸び縮みするばねです。あっ、ごめんなさい、ばねというのも単なるモデルです。量子力学によれば共有結合の実体は結合する両原子の周囲に広がる電子の波動関数(の2乗)、いわゆる電子雲です。このあたりの事情や歴史は落合洋文氏の雑誌『化学』連載中の記事[Ref-8]の4-7回に書かれています。
しかし棒球モデルならば炭素の正4面体の頂点に水素が結合してメタンになるという風にすんなりイメージできますが、もやーっと広がった電子雲からはこのように直観的に構造が出てきません。そこで、なのかどうかはともかく、化学の標準的テキストでは「sp3混成軌道で共有結合が作られるのだ」ということが教えられます。これは大学レベルの化学の基礎の話なので詳しくは別途また書きますが、「ではsp3混成軌道なるものは実在するのか?」となると、それもまた怪しいのです。しかし実在するかどうかにかかわらず、棒球モデルもsp3混成軌道モデルも化学現象を説明したり予測したりするのには極めて有用なモデルであることは間違いありません。
つまりは化学者が通常イメージしている分子の姿というのは実在の姿ではなくモデルばっかり?! それがどうした、というのがわかっている化学者の本音でもあると思うのですが、そういう化学者とかさらには生物学者などの実感に一致しないようでは科学哲学の方も努力不足ではないだろうか? というのが落合洋文氏の連載の全体的な見解ではないかという気がしています。
今度は逆の方向からの話ですが、「基本レベルでは電子と陽子と中性子が実在するものだ」とみなした場合、それらの組み合わせに過ぎない"原子"は実在すると言えるのでしょうか? さらに"原子"の組み合わせに過ぎない"分子"は実在すると言えるのでしょうか? いや組み合わせた実体はちゃんとあるでしょ、と普通は答えますよね。
では生物個体の集まりに過ぎない"生物種"というのは実在すると言えるのでしょうか? 個人の集まりに過ぎない"国家"や"起業"などの"組織"や、また"社会"というものは実在すると言えるのでしょうか? 特にこれらの概念については、"組織の意志"などというものが社会現象を説明する便利な道具として使われたりしますが、人ならざる"組織"に意志などが実在すると言えるのでしょうか?
また水面の渦や台風などは、その中の物質である水や空気はどんどん入れ替わっています。それでも渦や台風などは実在すると言えるのでしょうか? 生物の細胞も構成物質がどんどん入れ替わっていることは渦や台風などと同様ですが、細胞は実在すると言えるのでしょうか?
プラトンなどは現実に観測される事象は真の実在であるイデアの影である、と述べたのであり、これはちょうどクォークとレプトンだけが実在であり、観測される物質はそれらの合成物であるという主張に似ています。しかしフランシス・ベーコンはそのような出所不明のものを実在と認めるのではなく観察と実験により認知できる事象のみを実在と考えるべきだという経験論を主張し、これが近代科学発展の原動力となったのでした。しかし近代科学発展には、現象の奥には何か確固たる秩序が実在しているはずだという信念があったことも事実です。また20世紀の相対性理論や量子力学の発展は、我々が目で見ている姿がそのまま自然の真の実在ではないのだということも明らかにしたのでした。
さらに原子や分子のように如何にも手に取って確認できそうな対象ではなく、力・運動量・エネルギーなどという本質的に目に見えない、如何にも人工的な対象になるとどうでしょうか。このブログでもたびたび引用しているEMANの物理学の中にも実在の哲学で、そのようなことが書かれています。
確かにこのテーマは科学的に結構切実な話であり、扱い方を間違えると不毛な論争になりかねないという意味でも切実な話と言えるでしょう。
続く
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*1) 例えば以下の記事。
*1a 特集:収差補正による原子分解能電子顕微鏡の最前線「表面科学」vol.34, No.5(2013/05)
*1b 産総研「リチウムなどの軽元素を原子レベルで可視化」(2015/07/31)
*1c 金沢大学・安藤敏夫「原子間力顕微鏡の基礎とナノバイオへの展開」(2006/08/24)
*1d Nature Japan naturejapanjobs 特集記事「原子の可視化や識別、操作はどこまで進んでいるか ~走査型プローブ顕微鏡(SPM)が開く、新しい世界」(2008/09/26)
*1e 「世界で最も小さいものが見える顕微鏡 – 「水のチェーン」の構造が明らかに」academist Journal(2017/03/08)
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Ref-1) 戸田山和久『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス) 』(2005/01)
Ref-2) 内井惣七『科学哲学入門―科学の方法・科学の目的』世界思想社 (1995/04)
Ref-3) 内井惣七『シャーロック・ホームズの推理学 (講談社現代新書)』(1988/11)
Ref-4) 伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』名古屋大学出版会(2003/01)
Ref-5) ロビン・ダンバー『科学が嫌われる理由』青土社(1997)
Ref-6) ロジャー・G・ニュートン『科学が正しい理由』青土社(1999/11)
Ref-7) Jevons,W.S. "The Principles of Science" Macmillan(1874)
英語版wikiにも引用あり
Ref-8) 落合洋文「化学者のための哲学」雑誌『化学』2018年1月号~
確かに現代科学における"分子"や"原子"が考え出された当初は、これらはマクロな現象を説明するための仮説的存在でした。それゆえエルンスト・マッハなどは「原子の実在は認めない」と言ったのです。しかしその後様々な知見が積み重なり、今では電子顕微鏡や走査プローブ顕微鏡(SPM; Scanning Probe Microscope)で"分子"や"原子"の姿も見えるようになりましたから[*1]、「ほら"分子"も"原子"もちゃんと実在してるよ」という人がほとんどでしょう。
しかし"分子"を作っている"原子"間の化学結合となるとどうでしょうか? 分子模型では球体である原子が棒でつながっているように表されていますが、あの棒のようなものは実在しているのでしょうか? もちろん実在はしていません。共有結合を成す原子同士は別に固体状の棒でつながっているわけではありません。むしろ伸び縮みするばねです。あっ、ごめんなさい、ばねというのも単なるモデルです。量子力学によれば共有結合の実体は結合する両原子の周囲に広がる電子の波動関数(の2乗)、いわゆる電子雲です。このあたりの事情や歴史は落合洋文氏の雑誌『化学』連載中の記事[Ref-8]の4-7回に書かれています。
しかし棒球モデルならば炭素の正4面体の頂点に水素が結合してメタンになるという風にすんなりイメージできますが、もやーっと広がった電子雲からはこのように直観的に構造が出てきません。そこで、なのかどうかはともかく、化学の標準的テキストでは「sp3混成軌道で共有結合が作られるのだ」ということが教えられます。これは大学レベルの化学の基礎の話なので詳しくは別途また書きますが、「ではsp3混成軌道なるものは実在するのか?」となると、それもまた怪しいのです。しかし実在するかどうかにかかわらず、棒球モデルもsp3混成軌道モデルも化学現象を説明したり予測したりするのには極めて有用なモデルであることは間違いありません。
つまりは化学者が通常イメージしている分子の姿というのは実在の姿ではなくモデルばっかり?! それがどうした、というのがわかっている化学者の本音でもあると思うのですが、そういう化学者とかさらには生物学者などの実感に一致しないようでは科学哲学の方も努力不足ではないだろうか? というのが落合洋文氏の連載の全体的な見解ではないかという気がしています。
今度は逆の方向からの話ですが、「基本レベルでは電子と陽子と中性子が実在するものだ」とみなした場合、それらの組み合わせに過ぎない"原子"は実在すると言えるのでしょうか? さらに"原子"の組み合わせに過ぎない"分子"は実在すると言えるのでしょうか? いや組み合わせた実体はちゃんとあるでしょ、と普通は答えますよね。
では生物個体の集まりに過ぎない"生物種"というのは実在すると言えるのでしょうか? 個人の集まりに過ぎない"国家"や"起業"などの"組織"や、また"社会"というものは実在すると言えるのでしょうか? 特にこれらの概念については、"組織の意志"などというものが社会現象を説明する便利な道具として使われたりしますが、人ならざる"組織"に意志などが実在すると言えるのでしょうか?
また水面の渦や台風などは、その中の物質である水や空気はどんどん入れ替わっています。それでも渦や台風などは実在すると言えるのでしょうか? 生物の細胞も構成物質がどんどん入れ替わっていることは渦や台風などと同様ですが、細胞は実在すると言えるのでしょうか?
プラトンなどは現実に観測される事象は真の実在であるイデアの影である、と述べたのであり、これはちょうどクォークとレプトンだけが実在であり、観測される物質はそれらの合成物であるという主張に似ています。しかしフランシス・ベーコンはそのような出所不明のものを実在と認めるのではなく観察と実験により認知できる事象のみを実在と考えるべきだという経験論を主張し、これが近代科学発展の原動力となったのでした。しかし近代科学発展には、現象の奥には何か確固たる秩序が実在しているはずだという信念があったことも事実です。また20世紀の相対性理論や量子力学の発展は、我々が目で見ている姿がそのまま自然の真の実在ではないのだということも明らかにしたのでした。
さらに原子や分子のように如何にも手に取って確認できそうな対象ではなく、力・運動量・エネルギーなどという本質的に目に見えない、如何にも人工的な対象になるとどうでしょうか。このブログでもたびたび引用しているEMANの物理学の中にも実在の哲学で、そのようなことが書かれています。
確かにこのテーマは科学的に結構切実な話であり、扱い方を間違えると不毛な論争になりかねないという意味でも切実な話と言えるでしょう。
続く
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*1) 例えば以下の記事。
*1a 特集:収差補正による原子分解能電子顕微鏡の最前線「表面科学」vol.34, No.5(2013/05)
*1b 産総研「リチウムなどの軽元素を原子レベルで可視化」(2015/07/31)
*1c 金沢大学・安藤敏夫「原子間力顕微鏡の基礎とナノバイオへの展開」(2006/08/24)
*1d Nature Japan naturejapanjobs 特集記事「原子の可視化や識別、操作はどこまで進んでいるか ~走査型プローブ顕微鏡(SPM)が開く、新しい世界」(2008/09/26)
*1e 「世界で最も小さいものが見える顕微鏡 – 「水のチェーン」の構造が明らかに」academist Journal(2017/03/08)
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Ref-1) 戸田山和久『科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス) 』(2005/01)
Ref-2) 内井惣七『科学哲学入門―科学の方法・科学の目的』世界思想社 (1995/04)
Ref-3) 内井惣七『シャーロック・ホームズの推理学 (講談社現代新書)』(1988/11)
Ref-4) 伊勢田哲治『疑似科学と科学の哲学』名古屋大学出版会(2003/01)
Ref-5) ロビン・ダンバー『科学が嫌われる理由』青土社(1997)
Ref-6) ロジャー・G・ニュートン『科学が正しい理由』青土社(1999/11)
Ref-7) Jevons,W.S. "The Principles of Science" Macmillan(1874)
英語版wikiにも引用あり
Ref-8) 落合洋文「化学者のための哲学」雑誌『化学』2018年1月号~
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