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科学的方法とは何か? 実在-2

2019-10-13 06:22:43 | 科学論
 前回の記事(2019/10/03)の続きです。

 実在するものは何かというテーマに対するたたき台として個人的見解を述べておきましょう。

 基本的には実在するものには複数の種類があり、複数の見方からの実在というものがあるという考えです。まず、次の種類の実在物があります。

 モノ(物);物体、粒子、液体、気体、物質、など
 コト(事);現象、動き、変化、など
 ゾクセイ(属性);形、体積、質量、色、そして位置、など
 チツジョ(秩序);秩序、仕組、法則、など
 ホボモノ(ほぼ物);波、場、量子、力、など

 以上の分類は実例などからなんとなくわかると思います。しかし20世紀以降の科学の進歩でモノホボモノとはほとんど区別できないことがわかってきました。そして実は、古典的科学の範疇で考えてもモノゾクセイコトの区別は流動的であることはわかるのです。

 モノ属性とについて言えば、我々が観測し認識するものは属性であってモノそれ自体ではありません。我々は観測できる様々な属性を総合して、それらの属性を持っているモノを認識しているのです。けれどもひとつひとつの属性は、それだけではモノ自体とは言えません。とはいえ、物理学上は物質と質量はほとんど区別できないとも言えます。またヒトは視覚によりモノを認識しますので、位置と形と大きさ(体積と同じでもない)を合わせたものが、一般的にはモノそのものとみなされるでしょう。

 コトとはモノの変化から認識できるものです。つまり我々が観測し認識するものはモノであり、その状態が変化する様を(むろん変化しない状態も含めて)、一番使う言葉としては現象と呼ぶのです。そしてモノばかりではなくコト属性を持ちます。例えば速度、力、などはモノの変化であるコトの属性と言えるでしょう。もちろん速度はモノの属性でもあります。そして質量と関連のある力は、人が視覚以外で感知できる属性であるのはおもしろい点です。

 波や場がモノになってきた経緯は近代科学発展の経緯と重なることで、長くなるので後述とします。いずれにせよ私は、モノコトゾクセイホボモノもすべて実在すると考えます。どれかひとつだけが実在する特別なもので他は幻だという立場は取りません。何かを基礎にとって他の存在を組み立てたり説明したりということはできますが、どれかを基礎にとった見方が特別ということはないと考えます。すべての慣性系が等価で-あるのと同じように。

 チツジョとして分類した、秩序仕組法則などは他の4つの分類とは一線を画していると思われます。人と法律の違い、将棋の駒と将棋のルールの違い、くらいの違いはありそうです。自然界の秩序、仕組、法則などは知性体による認識が関与していることも確かですが、知性体が勝手に決められるものでもありません。ゆえに、認識の仕方とか範囲を固定すれば、十分に客観的な実在だと考えます。

 認識の仕方による法則の違いの例としては、前回の記事(2019/10/03)でも述べた運動法則の基本概念を速度に取るか運動量に取るかというものがあります。実は物理学では、位置座標における速度を使う一般にも見慣れた表現の他に、運動量座標におけるエネルギーを使うやり方もよく使われます。どちらかの見方が正しいとか正統だとかいうものでもはないと思います。空間内の位置を示すのに座標軸をどの向きにとっても平等に正しいのだし、極座標がデカルト座標より正しくないわけでもありません。数学で言えば論理体系の解剖-1.3- ゲンツェン流とヒルベルト流(2016/03/31)で書いたように、基本的な命題の中からひとつの公理系として公理を選ぶ方法は必ずしもひとつではありません。そして複数ある場合はどれもが平等に正しいのです。ただし座標系の例でもわかるように、解決したい問題に便利なものとそうでもないものとはあり得ます。どの見方でも正しさは平等ということはチツジョの例が一番わかりやすそうです

 自然界にはいわゆる階層構造、素粒子から原子のレベル(ミクロ物理学レベル)、分子から物質のレベル(化学レベル)、生物集団のレベル(生物レベル)、などがが認められ各階層では他の階層とは異なる法則が認められます。私はこれらの法則もすべて実在すると考えます。もちろん化学レベルの法則がミクロ物理学レベルの法則から誘導されることはありますが、それは誘導された法則が実在しないことではないと考えます素粒子の集合体である分子も実在するし、分子の集合体、しかも分子はどんどん入れ替わっているはずの生物体だって実在すると考えます。同様にして生物個体はどんどん入れ替わっている生物集団というものも実在すると考えます。

 実在とはもっと確固とした不変のものだ、ですって? 万物は流転する(Panta rhei)なんてことは、大昔にヘラクレイトス(Heraclitus)が喝破しているではありませんか。不変の実在なんて世の中が停滞していた中世時代の思考です(^_^)。

 なお階層構造というもの自体は知性体の認識の仕方による産物という面があると思います。認識力という性能があまり良くない知性体は、いわゆるモジュール化をしないと複雑すぎる世界を認識することができないのです。そして本来は連続的なものを無理矢理モジュール化すると境界部分が抜け落ちることが多々あるわけです。しかし生身の知性体ではモジュール化をしないと認識できないことでも、AIの深層学習による認識ではモジュール化なしにまとめて認識している可能性は大いにあるのではないかと思います。その当たりはブラックボックス化しているAIによる認識の部分を明らかにすれば、実在問題にも光が当たるのかも知れません。

 
 以上、まとめるつもりが何だか長くなりました。

 次は如何にも人工的要素はなさそうに見える、モノとゾクセイとコトとホボモノとの話に移りましょう。これらの概念についての考え方は、19-20世紀に大きく揺さぶられたのです。


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