新紙幣も出回り始めた今日この頃、NHKの番組「英雄たちの選択」で「微生物の狩人 北里柴三郎の挑戦」が取り上げられました。他の英雄たちのリストは[Ref-1]。元祖『微生物の狩人』は[Ref-2]。
何、この人すごい。
1886年(33歳)に世界の細菌学の父であるロベルト・コッホ(Robert Koch)の元へ留学しますが、そこで誰もができなかった破傷風菌の純粋培養を成し遂げます(1889年)。この史実はむろん私も知っていましたが、その詳細は知りませんでした。
純粋培養が困難だった第1の理由は、患者の膿から採取した試料に他の雑菌も多く混じっていて破傷風菌だけを取り出すことができなかったからです。「他の細菌と一緒でないと繁殖できない」という共生が必須という仮説まで出ていたらしい。北里は粘り強い試行錯誤の末に適切な加熱により破傷風菌以外の雑菌が死滅することを発見しました。実は破傷風菌は普段は土の中で芽胞という熱や環境変化に強い状態で生きているのです[Ref-3]。なので熱による消毒にも他の細菌よりも強いという厄介な病原体なのです。
次に北里は気づきます。「こいつらいつも奥の方に隠れている。さては空気が嫌いなのか。」
ということで酸素のない状態での培養を試み、そのために専用の道具まで作ってしまいました。その名も「亀の子シャーレ」。詳細はテルモ社の「医療の挑戦者たち 30」というコンテンツに詳しいです[Ref-4,4a]。すなわち、世界で初めての嫌気性細菌の培養だったのです。
現在に例えれば、熱水鉱床に棲む、他とは異なる生態の微生物の培養に世界で初めて成功したくらいの業績でしょう。さらに難病の病原体ということも重なれば、これ一つでもノーベル賞級ではありませんか。
この気密性ガラス器具に培地と菌を入れて水素を流すという方法で・・。えっ、水素!。番組冒頭に「実験でたびたび爆発を起こしてドンネル(雷)とあだ名がついた」とのエピソードが紹介されていて、ガラス器具をよく割ったのかなあくらいに思ったのですが、水素!。そりゃ爆発するよ。窒素じゃだめだったの?? という謎の解明は後日としまして。
さらに破傷風の原因は菌そのものではなく、それが生産する毒素であることを突き止め、その毒素を使って抗体を作るという血清療法を確立します(1890年)[Ref-4b]。これも、ひとつの病気の治療法確立というだけではなく、血清療法という新しいコンセプトの確立でもありました。
まさしくコッホの元から巣立った多くの一流医学研究者の何傑かくらいに入りますよね。当時の世界の研究所からも引く手あまただったのでしたが[Ref-4c]、北里は1892年に帰国し、以後は日本の医学に大きく貢献します。帰国後に日本最初の私立伝染病研究所を設立しますが、そこで資金を出したのが紙幣仲間の福沢諭吉。さすがですねえ。
この私立の伝染病研究所は1899年に内務省所管の国立伝染病研究所となりますが、1914年に内務省から文部省へと所管が変わることになりました。すると従来より研究の自由度が落ちる危険があったとのことで、齢60にして北里は人生の選択を迫られます。その時英雄たちは~~。
結局北里は、一人研究所を辞して民間で仕事を続けることを選択しましたが、すると。研究所の職員400名以上のほとんどが「おやっさんに付いていきますーー」と後を追って辞職しちゃいました。職員のほとんどですから、直の弟子ともいえる研究職の人達だけではありません。いわゆる研究補助職の人達の方が人数は多かったはずです。少数ながら事務職の人達もいたはずです。当時は民間よりも官職の方が安定性でも給与の面でもかなり勝っていたようですし、だからこそ北里も自分以外の職員を引き抜くことは考えなかったのでしょうし。それがほとんどが付いて行ったということは、リーダーとしての北里の魅力もさりながら、一人一人が仕事に意義と誇りを持っていたということなのでしょう。
実は主だった者たちが、「おやっさん、辞めるかも」と予想して独立の資金の道を確保すべく治療薬生産の許可申請などを進めていたりしたとか。部下たちもリーダーの気質は心得てたんですねえ。
その後は史実の示す通り、北里は日本の医学を引っ張り続け、北里研究所も現在も健在です。歴史の詳細は、北里柴三郎記念博物館のデジタルパンフレットから、年譜リーフレットをご覧ください[Ref-5]。ちなみに北里は神様になって神社に祭られているらしい。北里は当然という気もしますが、1度しか来日していない外国人を神様にしちゃったなんて神社は全国でも珍しいのではないでしょうか? ドイツ人が知ったら日本の風習にびっくりかも。いや全国にはもっと珍しい神社が色々とあるかも知れませんね。
なお伝記が2冊出ていますので紹介しておきます[Ref-6,7]。
続く
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Ref-1) 「英雄たちの選択」リスト
Ref-2) 1-a) Paul de Kruif(ポール・ド・クライフ)の "Microbe Hunters"(1926)。日本語訳は以下。
ポール・ド・クライフ ;秋元寿恵夫(訳)『微生物の狩人 上 (岩波文庫 青 928-1)』岩波書店 (1980/11/16)
ポール・ド・クライフ ;秋元寿恵夫(訳)『微生物の狩人 下 (岩波文庫 青 928-2)』岩波書店 (1980/12/16)
Ref-3) 国立感染症研究所「破傷風とは」
Ref-4) 企業広告「医療の挑戦者たち」
Ref-4a) 破傷風菌の純粋培養。世の中は、けっして行き詰まらぬ。
Ref-4b) 血清療法の確立。救いたい命がある。救える方法は、まだない。
Ref-4c) 「命の杖」
Ref-5) デジタルパンフレット。学校法人北里研究所北里柴三郎記念博物館の公式サイトです。
Ref-6) 上山明博『北里柴三郎: 感染症と闘いつづけた男』青土社 (2021/09/15)
参考:「北里柴三郎の「医道論」に学べ──令和日本の新型コロナ対策に足りないもの」(2021/12/26)
Ref-7) 海堂尊『奏鳴曲 北里と鷗外』文藝春秋(2024/07/09)
参考:本の話「海堂 尊インタビュー」(2024/07/12)
何、この人すごい。
1886年(33歳)に世界の細菌学の父であるロベルト・コッホ(Robert Koch)の元へ留学しますが、そこで誰もができなかった破傷風菌の純粋培養を成し遂げます(1889年)。この史実はむろん私も知っていましたが、その詳細は知りませんでした。
純粋培養が困難だった第1の理由は、患者の膿から採取した試料に他の雑菌も多く混じっていて破傷風菌だけを取り出すことができなかったからです。「他の細菌と一緒でないと繁殖できない」という共生が必須という仮説まで出ていたらしい。北里は粘り強い試行錯誤の末に適切な加熱により破傷風菌以外の雑菌が死滅することを発見しました。実は破傷風菌は普段は土の中で芽胞という熱や環境変化に強い状態で生きているのです[Ref-3]。なので熱による消毒にも他の細菌よりも強いという厄介な病原体なのです。
次に北里は気づきます。「こいつらいつも奥の方に隠れている。さては空気が嫌いなのか。」
ということで酸素のない状態での培養を試み、そのために専用の道具まで作ってしまいました。その名も「亀の子シャーレ」。詳細はテルモ社の「医療の挑戦者たち 30」というコンテンツに詳しいです[Ref-4,4a]。すなわち、世界で初めての嫌気性細菌の培養だったのです。
現在に例えれば、熱水鉱床に棲む、他とは異なる生態の微生物の培養に世界で初めて成功したくらいの業績でしょう。さらに難病の病原体ということも重なれば、これ一つでもノーベル賞級ではありませんか。
この気密性ガラス器具に培地と菌を入れて水素を流すという方法で・・。えっ、水素!。番組冒頭に「実験でたびたび爆発を起こしてドンネル(雷)とあだ名がついた」とのエピソードが紹介されていて、ガラス器具をよく割ったのかなあくらいに思ったのですが、水素!。そりゃ爆発するよ。窒素じゃだめだったの?? という謎の解明は後日としまして。
さらに破傷風の原因は菌そのものではなく、それが生産する毒素であることを突き止め、その毒素を使って抗体を作るという血清療法を確立します(1890年)[Ref-4b]。これも、ひとつの病気の治療法確立というだけではなく、血清療法という新しいコンセプトの確立でもありました。
まさしくコッホの元から巣立った多くの一流医学研究者の何傑かくらいに入りますよね。当時の世界の研究所からも引く手あまただったのでしたが[Ref-4c]、北里は1892年に帰国し、以後は日本の医学に大きく貢献します。帰国後に日本最初の私立伝染病研究所を設立しますが、そこで資金を出したのが紙幣仲間の福沢諭吉。さすがですねえ。
この私立の伝染病研究所は1899年に内務省所管の国立伝染病研究所となりますが、1914年に内務省から文部省へと所管が変わることになりました。すると従来より研究の自由度が落ちる危険があったとのことで、齢60にして北里は人生の選択を迫られます。その時英雄たちは~~。
結局北里は、一人研究所を辞して民間で仕事を続けることを選択しましたが、すると。研究所の職員400名以上のほとんどが「おやっさんに付いていきますーー」と後を追って辞職しちゃいました。職員のほとんどですから、直の弟子ともいえる研究職の人達だけではありません。いわゆる研究補助職の人達の方が人数は多かったはずです。少数ながら事務職の人達もいたはずです。当時は民間よりも官職の方が安定性でも給与の面でもかなり勝っていたようですし、だからこそ北里も自分以外の職員を引き抜くことは考えなかったのでしょうし。それがほとんどが付いて行ったということは、リーダーとしての北里の魅力もさりながら、一人一人が仕事に意義と誇りを持っていたということなのでしょう。
実は主だった者たちが、「おやっさん、辞めるかも」と予想して独立の資金の道を確保すべく治療薬生産の許可申請などを進めていたりしたとか。部下たちもリーダーの気質は心得てたんですねえ。
その後は史実の示す通り、北里は日本の医学を引っ張り続け、北里研究所も現在も健在です。歴史の詳細は、北里柴三郎記念博物館のデジタルパンフレットから、年譜リーフレットをご覧ください[Ref-5]。ちなみに北里は神様になって神社に祭られているらしい。北里は当然という気もしますが、1度しか来日していない外国人を神様にしちゃったなんて神社は全国でも珍しいのではないでしょうか? ドイツ人が知ったら日本の風習にびっくりかも。いや全国にはもっと珍しい神社が色々とあるかも知れませんね。
なお伝記が2冊出ていますので紹介しておきます[Ref-6,7]。
続く
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Ref-1) 「英雄たちの選択」リスト
Ref-2) 1-a) Paul de Kruif(ポール・ド・クライフ)の "Microbe Hunters"(1926)。日本語訳は以下。
ポール・ド・クライフ ;秋元寿恵夫(訳)『微生物の狩人 上 (岩波文庫 青 928-1)』岩波書店 (1980/11/16)
ポール・ド・クライフ ;秋元寿恵夫(訳)『微生物の狩人 下 (岩波文庫 青 928-2)』岩波書店 (1980/12/16)
Ref-3) 国立感染症研究所「破傷風とは」
Ref-4) 企業広告「医療の挑戦者たち」
Ref-4a) 破傷風菌の純粋培養。世の中は、けっして行き詰まらぬ。
Ref-4b) 血清療法の確立。救いたい命がある。救える方法は、まだない。
Ref-4c) 「命の杖」
Ref-5) デジタルパンフレット。学校法人北里研究所北里柴三郎記念博物館の公式サイトです。
Ref-6) 上山明博『北里柴三郎: 感染症と闘いつづけた男』青土社 (2021/09/15)
参考:「北里柴三郎の「医道論」に学べ──令和日本の新型コロナ対策に足りないもの」(2021/12/26)
Ref-7) 海堂尊『奏鳴曲 北里と鷗外』文藝春秋(2024/07/09)
参考:本の話「海堂 尊インタビュー」(2024/07/12)
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