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フェリックス・マーティン『21世紀の貨幣論』

2016-08-01 06:11:56 | 経済学
Ref-1) フェリックス・マーティン(Felix Martin);遠藤 真美(訳)『21世紀の貨幣論』東洋経済新報社(2014/09/26)
Ref-2)トマ・ピケティ;山形浩生(訳);守岡桜(訳);森本正史(訳)『21世紀の資本』みすず書房 (2014/12/09)
Ref-3) 岩井克人『二十一世紀の資本主義論』筑摩書房 (2006/07)
Ref-4) カビール・セガール(Kabir Sehgal);小坂恵理(訳)『貨幣の「新」世界史―ハンムラビ法典からビットコインまで-』早川書房(2016/04/22)

 フェリックス・マーティン『21世紀の貨幣論』[Ref-1]という本が出ています。読まないうちに話題にするのもおかしいのですが、「標準的経済学の欠陥をつく異端のマネー史[*1]」との怪しいうたい文句に興味を感じて事前調査をしてみました。

 トマ・ピケティ『21世紀の資本』[Ref-2]のパクリだとか便乗だとかいう評価もありましたが、これは邦題で著者にはたぶん責任はありません[*2]。そもそもピケティ本のパクリではなく、岩井克人『二十一世紀の資本主義論』[Ref-3]のパクリでしょ(^_^)。いやたぶんもっと古い本の表題にも「二十一世紀」なんて言葉はありふれていることでしょう。会社や製品の名前なら商標登録されたものが正義なので、19n0年直前には先取り登録が殺到したとかいう話も聞き覚えがありますが、本の表題でパクリは言い過ぎだと思います。まあ最近はパクリという言葉が必ずしも権利侵害を含まない軽い意味に使われてるようでもあるけれど。

 さて子供の頃、「世界のおもしろい○○の色々」などという記事が本や雑誌の特集などでよくありました。その中の「世界の貨幣」の記事の中に、持ち運び困難な石の貨幣などというものもでてきました。マンガの中でも、石器時代人が交換する商品よりも大きいような石貨をかついで買い物をするシーンが結構でてきたように思います[*3]。このアイテムをギャグとして読めるのは、「こんな不便な貨幣を使うなんて愚かだよね」という一種の蔑視が心の中にあったからでしょう。無知とは恐ろしいものです持ち運べないほど大きな石貨(Rai stones)とはヤップ島で1931年まで造られていたもので、真実はマーティンが語る通り、そして木村剛久の書評(2014/11/20)に詳しく紹介されている通りです。

 で、ここから説き起こして「物々交換経済から貨幣経済へ」という趣旨の通説を否定し、「貨幣はそれ自体に価値がある商品のひとつとしてではなく、最初から信用により支えられたマネーとして生まれた」という趣旨の異説を述べているようです。いわば定説は「モノ中心の貨幣観」でマーティン説は「信用と流動性の貨幣観」ということになり、このあたりはシェイブテイル日記の記事(2014-10-30)に簡潔にまとめてありました。このまとめが妥当だとすれば、別にマーティンだけが異説(Unauthorised)を唱えているということでもなさそうです。異説を強調するのは自己顕示の匂いがしますが、それだけに怪しさは少なそうです。

 「物々交換経済から貨幣経済へ」説への疑問としては「物々交換だけで成り立っている経済を目にした者は一人もいなかったのだ。」ということのようで、これは確かに重大ですね。ではいかにして貨幣が誕生したかとなるとマーティンも明確なストーリーは描けていないようです。

 しかし起源がどうであれ、貨幣経済が成立した後の貨幣と言うものは信用と流動性により貨幣と成り得ているということは常識的な話かと私は思っていました。とはいえ、振り返ると「皆が貨幣だと信用するから貨幣なのだ」という説は岩井克人の本からの知識です。言われてみればあまりにも当然の原理なので経済学での常識だと思っていたのですが、どうなんでしょう。岩井克人の述べる上記の説や、「価格の差異を媒介して利潤を生み出す方法」という見方が、彼の独自説か学会の常識を一般人向けに解説したものか、も私には区別がついていません。もし独自説としても啓蒙書の前に専門誌等に発表されているはずだし、特に異論が出るような見方[*4]にも思えません。

 しかし現在でも「モノ中心の貨幣観」が経済政策等も誤らせているというのがマーティンの主張らしいのですが、ここの詳細はやはり本書を読むしかなさそうですね。

 なお前述のシェイブテイル日記には他の関連記事もあります。
[2014-11-12 大昔、物々交換などなかった]
  前述の木村剛久の書評よりも詳しく引用している。
[2016-06-03 やはり、大昔物々交換などなかった]
  カビール・セガール著『貨幣の新世界史』[Ref-4]からの引用。「最終的にグレーバーは、債務が貨幣よりも先行していたか、少なくとも同時に発達したという結論に達している。」。「物々交換経済から貨幣経済へ」説への疑問は、少なくとも経済学分野では1922年が初出らしい。
[2016-05-29 貨幣と財政からみた経済学派分類]
  少なくともデフレ脱却の理論では定説などないということはわかった。シェイブテイルさん自身も「経済学が専門ではない」と言ってはいるのだが。また、貨幣の起源、ひいては貨幣の本質への見方と、マクロ経済理論との関係は、この記事ではわかりません。

 それはそうとフェイ(またはフェ)という名称が英語版ウィキペディアでは見当たらない?


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*1) 東洋経済新報社の紹介欄
*2) 原題は"Money: The Unauthorised Biography"。「マネー:その誕生史異説」くらいかな。原著の表紙は何を意味しているのでしょうか?
*3) ウェブでは次のようなものが見つかった。
https://www.photolibrary.jp/img383/279586_3620541.html
http://www.artbank.co.jp/stockillust/image_html/noguchiyasuji/1-A-NSI990.html
http://ks.c.yimg.jp/res/chie-ans-278/278/174/220/i320
https://pixta.jp/tags/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3?search_type=2
http://www.t.hosei.ac.jp/~matoriy/paper/nyumon.html
*4) 新たな理論というよりも見方という方が正しい気がする。だから価値が低いということにはならないが。ドーキンスの利己的な遺伝子という概念もひとつの見方ではあるが、それが世界の認識を大きく変えることにもなる。
 なお岩井克人の「差異による価値生産と生産(労働)による価値生産の2種類がある」という趣旨の話は2009年(H21年)のセンター試験の現代国語で出題されたので広く知られている・・はず・・かも知れない。中身のちょっと詳しいことは Z会ブログ(2010.01.16)でどうぞ。

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