ハブ ア ナイス doi!その2

たまあに振り返ったことや、ちょっと考えたことを綴ってゆきます。

2021年大晦日

2021-12-31 20:47:10 | 日常

さあて、今年も間もなく終わる。

今年もいっぱいいろんなことをしたし
遊ぶのもよく頑張ったなあ。
旅行もあちこちに行った。



香川県なんか二回も行った。

また歩きの方も、ずっと止まっていた
熊野古道の難所にも行けたのは
とてもうれしかったなあ。



でも一番行きたかった息子・孫には
会いに行けなかったのは残念だ。

お正月にはビデオレターを送ろう。

今年の大きな仕事は
自治会長を任されたことだった。
自分の住んでいる町を
しっかり運営してもらおうと
役割をみんなに任されたことは
なんかとても大きい。

いま持っているすべての力を
場面場面でつないできた。
毎週といっていいほど
市から文書も回ってくる。
それには締め切りもあるから
うかつにしていられないし
すぐにやらないと仕事が
たまってきてなんか心に
重圧を無言で与えてくるのだ。

それにねえ、村のいろんなもめごとの
仲裁的な役割も転がり込んでくる。
単に事務的な仕事を進めるだけじゃなく
人間的な力を非常に要する
役割が回ってきたりするのが
これもなんか重圧を感じるのだ。

でもねえ、これらは
いまの自分でできることを
やるほかはないから
開き直っている部分も大きい。

加えてほかの役割も重なってきているから
なんか気分的に心の振れ幅は大きい。
これが自分を大きくしてくれるのかなあ。

そんな風に無言で重圧が
襲ってくる日々があるのだが
そんなことにも負けずに
めげずに頑張って遊べただろうか。
じっとしていて
これでいいのかと自分を
攻めたこともないから
まあ頑張ってきたんでしょう。

それで良しとしようかね。

そうそう、年末に行った
防災訓練も最初は15人くらいでと
考えていたのだが
40人も集まってくれたのは
なんかとてもうれしかったなあ。

そんな具合だからうれしいことに
たぶん来年ももっとなんか忙しく
なるかもしれないませんが
とりあえずしっかり向かっていこうと
考えたりする大晦日なのでありました。

友達やブログ読者の皆さんには
とてもお世話になりました。
時おりくれるコメントや
メール連絡にはとても励まされましたよ。
ハゲが増したんじゃないですよ。

そうしていつも自分の心を支えてくれる
とても大切な皆さんであります。
また来年も頑張りますので
よろしくお願いいたします。

それではみなさんよいお歳を
お迎えください。

 

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高野街道 学文路に着いた

2021-12-30 20:47:10 | ウォーキング

高野街道も今回の目的地である
学文路に近づいてきました。

学文路とは「禿」的な意味があったり、
梅の香りが満ちていた「香室」などの
意味があったりと、説がいろいろです。

今は、学問の神様みたいな感じで使われています。

コンビニが見つかるまで
歩いてゆきましょう。



ここは「くにぎの郷」と名付けられて、
いろんなイベントもしているようだ。
南側にある「国城山」の里
ということでしょうか。

また「萱野邸」と書いてあるのは、
過去の大庄屋のおうちなんでしょうか。
外に張られた紙なんかを見ると、
歩く会というのを熱心に
されているようですが、
カラオケや絵手紙教室、
家庭用麻雀なんかも開かれているようです。
doironもここの地元の人間だったら、
講師をしていたりしそうです。



その先でコンビニがあったので、
昼食を買いましょう。

こんな地蔵堂のある河川敷の公園に
ベンチとかがありましたので、
座ってランチです。



コンビニ弁当ですが、
もう超豪華定食ですねえ。
河川敷に座っていると、
バッタやクモ、トカゲなどの
小動物が自分のまわりで
徘徊しているのが見えます。

河川敷ってすごい生き物の宝庫ですねえ。

昼食が終わったら、
さああともう一息です。
街道を進んでいきましょう。

みかん畑なんかの間を
どんどん進んでいくと、
横から合流する道に
大きな鳥居が立っています。



これが山手にある
「学文路天満宮」の鳥居です。
遠くの山の方に大きな天満宮が見えています。

まあもうdoironには合格祈願
といってもまだ3歳の孫ですから
今はそんなに心配いりませんねえ。

街道をゆきます。



その先にあったのが、
「高野街道 六地蔵 第二」です。
ここも紀伊続風土記に書かれています。
旅の安全の祈って、
多くの人がお参りしたんでしょうねえ。
立派なお堂が建っており、
これから先、第3~第6の地蔵も楽しみです。

この辺りは国道370号沿いの
道ですが、歩道が大きいので
安心して歩けます。
かなり車の量も増えてきましたね。
民家の数も多くなってきました。

そうもう学文路の村が目の前です。

国道から一本右の道に入ってゆきましょう。



狭い住宅街の道を通り、
たどり着いたのが「かむろ地蔵」です。



少し高台にありますが、
まあお参りしていきましょう。
え~っと、「頭がよくなりますように・・・」
ではなく、
「ボケませんように」っと。

弘法大師が腰かけたという
腰かけ石も残っています。



doironが漕いでいたという
ジムの腰掛自転車なあんてのも
残りませんかね。

この寺の前に道路には、
こんな標識も埋め込まれています。



この辺りは、物狂同志が
学問をひろげていたので、
頭のいい人が多かったといいます。



そんな血を受けてか、
ここで生まれた土木技術者の
大畑才蔵氏が紀の川の
用水路を作ったんだそうです。

いやあ、恐れ多い土地ですねえ。



この後、学文路の村の後を歩き、
学文路の駅へと到着しましたので、
今回の歩きはここまでです。



この学文路に三里石が
あるはずなんですが、
ちょっと見落としてしまいましたね。
次の歩きの時にもう一度探しましょう。

さあて、いよいよここからは、
高野へ登っていく道が始まります。
町石道を歩いた時も最初、
途中、最後に強烈な登りがありましたねえ。



こんかい学文路から歩く道は
どんな感じなんでしょう。
残っているのは3里ですから
約12キロ。

高野参詣道京大坂道を楽しみながら
登ってゆきますかね。

高野にはあと二回くらいで到着かなあ。

学文路駅から高野線に揺られ



橋本駅まで戻り、有名なお店で
パンを購入し、駐車場の
おばあちゃんにあいさつしつつ
帰宅したdoironだったのでした。

 

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高野街道 紀の川沿いをゆく

2021-12-29 21:43:40 | ウォーキング

高野街道を歩きつつ、
橋本で紀の川を渡りました。

これが「橋本市」の名前の
もとになった橋本橋です。



マンホールも紀ノ川と、
高野の樹々が彫られていますね。



橋を渡ったところから、
コースは右向いて進んでいきます。

目の前には旧村と広々とした
紀の川の景色が広がってゆきます。



このあたりは紀の川も河口から
50キロの地点なんですねえ。
そんな紀の川の河川敷の道に
ここから入ります。



この道は紀の川自転車道線と
名付けられています。



自転車でツアーができるように、
整備されているんですね。
この日も親子連れが自転車で走ってました。
調べてみたらこの自転車道、
けっこう長い距離を整備されているようです。
いいですねえ、来年はそんな
自転車ツアーでもできたらいいなあ。

新しい遊びの試みとして、
最近よくそんなことを考えてました。
琵琶湖、淡路島、紀の川、その辺に
一度チャレンジしてみようかなあ
なんて思っています。
自転車好きの方、
一度一緒にどうですか。



そんなことを考えながら
川沿いの道を歩いていくと、
左の村中に入っていく道が
つながってきています。



そちらを眺めると大きな燈籠が
見えていたりするので、
どうやら街道はそちらへと
つながっているようです。

では河川の堤防道を下りて、
そこから町中に入っていくことにします。
古い雰囲気のある清水の町並みを、
ずっと歩いていくと
大きな燈籠が見えてきます。
これが



「三軒茶屋大常夜燈籠」

といわれています。
紀の川の向こう側にあった渡しの終点ですね。
当時は応其上人が築いた橋も
三年で大水で流されてしまい、
この位置に無銭の渡しが
通っていたそうでその名残です。

りっぱな燈籠ですねえ。

でもここでdoironの気持ちを
猛烈に引いたのが、この地図です。



地元の子どもが作ったもので、
見事な案内になっています。
これはすごいですねえ。
doironも思わず地元町の
こんな地図が作りたいなあ
と思ってしまいましたよ。
真ん中に神社を描いて、
村のはずれに地蔵さん。
こことここはミシン作業をしていて、
ここは植物園みたいなねえ。
好きな絵を駆使して作ったら
面白いやろなあ。
とてもいい力作を見せていただきました。



ここの土地の端っこには
こんな地蔵さんも設置されていました。
この辺りは村の人には
大切な空間なんでしょうね。

では引き続き街道を歩いてゆきましょう。



古いおうちも多いですね。



溝にはこんな鶏頭も生えていますよ。
そしてここの業者さんも面白いですね。



看板に「チキン・タマゴ・ペイント・塗装工事・・・」
と書かれてありますよ。
マルチですねえ。



そしてその先にあったのが、
高野街道 六地蔵第一です。

紀伊続風土記にも書かれています。
江戸時代に高野参拝の旅人の安全を祈って、
街道沿いに6か所の地蔵が置かれていて、
これはその第一番目ということらしいです。

そしてこのあたりには、
昔西行が休止していたことが多く、
いまも建物中には西行の像があるというので、
「西行庵」と呼ばれているところです。



なんか高野街道らしい建物や
遺物が出てきますねえ。

その先にも小さな地蔵堂があったのですが、
中を見ると役行者が座っています。



下駄をはいてしっかりした像に、
かわいい前掛けや帽子が印象的でしたねえ。

さあかなり川沿いを進んできましたよ。
時刻ももうお昼を回っています。
近くに高野線の「紀伊清水駅」があるので、
コンビニもあるでしょう。
すこし遠くを眺めながら歩いていたら、
きっとお店が見つかるでしょうから
そこで弁当を買いましょう。

続く

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高野街道 紀の川を越えて

2021-12-28 20:56:58 | ウォーキング

高野街道を歩いている途中で
紀の川も越えていきます。

昔は渡し船があって、
それで越えていったのですが、
いまはもう橋がかかっています。

この橋本あたりの開発に
忘れてはならないのが
応其(おうご)上人です。

彼はこの紀の川の古佐田村の荒れ地を開き、
紀の川に橋を架けた人。
橋本市という市の地名は
この橋に由来するそうです。

その名残の橋の方へと
向かって行きましょう。

まずは橋本川をさかのぼり、
新御殿橋を渡ります。



あ、橋にヘラブナ竿の絵がありましたよ。



橋本の駅にも竿の展示場がありましたから、



この変で盛んに作られているんでしょう。
なんかそんな竹藪とかあるのかなあ。

そこまではよくわかりません。

そんな橋を渡り、まず資料では
道標がきれいに残っている
というので見に行ってみましょう。

「橋本1」の交差点のすぐそばの
祠の前に並んでいる石のひとつがそうだ。



側面には「右いせよしの」と書かれています。



そして前には「右わか山おおさか 左かうや」
と書かれていますね。

道標の右、左というのは
ややこしいですね。

4里石に向かうときに、
こんな道標も見ています。



「北 右わ可山 こか者 左い勢
なら 者せ よし能」と書かれています。
こか者は「粉河」で、者せは「長谷」
のことだそうです。



そして「西 右かうや 左京大坂道」
とも刻まれています。
先ほどの橋本1の道標と合わせて、
高野街道、伊勢街道の交差する
このあたりには立派な
道標があったようです。



橋本1の交差点近くには、
こんな石もありましたよ。



旧橋本町の道路元標です。



橋本1の交差点近くにあったものが、
国道24号線の拡張時に撤去され、
交差点近くに放置されてあったのを
ここに設置したそうです。
法に基づいて、設置された元標なんですが、
後に法改正で多くが撤去されました。
ですがまあ、いくつか各地に
残っているようです。

doironがうろうろしている中でも
もう14、5個確認していますからね。
一度集計してみないといけませんね。

あともう一つ、電柱の陰に
大和街道の道標も見つけましたよ。



和歌山からずっと、この道標を見ながら
歩きましたねえ。
一応大和街道歩きはその終点である
五条まで、あと一息のところまで来ています。
また頑張って歩きましょう。

さあこれで、高野街道周辺の
石の碑は確認しましたね。
一緒に歩いている人も
感心されているようでした。
それでは高野街道歩きに
戻ってゆきましょう。

コースは紀の川を超える橋本橋へと
向かってゆきます。
これがその橋です。



上流側、下流側のどちらを渡ろうか
悩みましたが、ちょっと上流の方を
見たかったので上流側を渡りました。



川の中は大掛かりな工事をしていますねえ。

ただ単に河川の改修というような
感じではないですねえ。
何かができるんでしょうか。

そしてその上流のずっと向こうには
高野線が走っています。
橋本まで来た高野線は、
ぐるっと上流側に回り込んで、
遠回りをしていくようです。



前方につながる高野への山々。

紀の川の下流の方にみえる
町石道を歩いた時に休憩した鉄塔。
川の水の中にゆっくり泳ぐ鯉たちの姿。
また高野街道で越えてきた
岩脇系の山々の景色。
そんな景色とかを眺めながら、
初冬の風の吹く橋梁256mの橋を
ゆったりと渡ったdoiron達でした。

橋を渡り終えると、
すぐのところにスーパーがあります。

「おから煮きました」



「え!!うまい牛すじ」



「おやじのからあげ」



なんていう手書きの看板が
並んでいます。
都会じゃ見られないお店ですねえ。

続く

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高野街道 橋本散策

2021-12-27 21:44:57 | ウォーキング

高野街道も和歌山県の橋本まで来ています。



あとは紀の川を越えて、
学文路まで行き、京・大坂道を
登るコースですね。

高野さん周りの道路としては

「高野七口」

というのが有名です。

通常は町石道、黒河道、京・大坂道、
小辺路、大峰道、有田・龍神道、
相ノ浦道の七つの道を指します。

それぞれに特徴があるのですが、
町石道、小辺路が世界文化遺産に
登録されていました。

でもその後平成28年に黒河道と
京・大坂道も登録されることとなりました。
こんかい西高野街道を通り、
女人堂へといたる道を歩いているので、
これから先は京・大坂道を
行くことになります。

そんなコースを目指して、
では今回は橋本駅前に車を止めて、
そこから歩くことにしましょう。

車をビューンと走らせてゆき
駐車場を探します。
適度な感じの駐車場は満車です。
車を利用して通勤とかする人も
多いのでしょうね。

いろいろと探して、駅の東側に
駐車場がありました。
一日設定の駐車料金もあるようです。

ではここに車を止めて、
といっても機械があったりするわけでは
ありませんので料金はどうするの?
と疑問になりますよねえ。

う~む、とうなってますと
駐車場の片隅の納屋の中から
「こっちやで」と声がかかります。
よく見ると、かすんだ窓ガラスの中に
光る二つの眼。

ああ、おばあちゃんが集金していましたね。

「高野山に行くんか」と聞くので、
高野街道を歩いて学文路までと返答。
よしよしと応答がありました。
もう大日如来の化身じゃないですか。
「ありがたや。南無阿弥陀仏」
と言いたくなります。

さあ、では歩き始めましょうか。
今回もまた高野街道歩きに
興味のある友達も同行しています。
まずは、紀の川の川べりにある
4里石を目指しましょう。



駅から、少し村中に入ってゆくと
昔の街中ですね。
くねくねと道が続き、
こんな燈籠を眺めながら、
ぽんと出たところに



古い建物がありました。



「火伏医院」と書かれています。



これは橋本に古くからある病院で、
その建物は国の登録有形文化財であります。
年季が入ってますねえ。



そしてこの医院の周りにも
文化財の古い建物があり、
一緒に回った友達は
「恐るべし、橋本」と
つぶやいてはりましたねえ。

その火伏医院から橋本川の方へ
下ってゆくと、河原の横が
公園風になっており、
そこに太神社と一里塚があります。



一里塚は、伊勢街道(大和街道)の
和歌山から11里の位置にある
といわれています。



今はその松の木も枯れて
1本の黒松が植えられています。

でもねえ、一里の標識を示すのに、
どうしていつもあんなに
目立たない松の木なのかなあ。
樫の木とか楠とかあるやろうにね。



ここにはおみこしや昔の拝殿の
瓦なんかも並べられていました。



さあ、ではここから橋本川を
登ってゆきましょう。



どんどん歩いて紀の川との
接点のところに大きな燈籠が立っています。



この燈籠には多くの施主の名が
刻まれていますねえ。



これが紀の川の渡し場の常夜灯で、
高さは4.8mもある立派な燈籠で
「東家渡場大常夜灯」と呼ばれています。

もともとこのあたりには二基の
燈籠があったのですが、
紀ノ川の洪水で流され、
いまはこの一基のみが
残っているんだそうです。



そしてその横にあるのが
四里の里程石です。



女人堂迄あと4里。

16キロのところまで来ましたね。

最後に高野の登りが待っているから
大変なんですけど、
よくここまでたどり着きました。



その里程石の横にあるのが、
歯痛地蔵尊と書かれた石です。
渡しもあって人が多く集まるところには
いろんなものがあって、



その遺物も残っていますねえ。

続く

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