高野街道を歩いている途中で
紀の川も越えていきます。
昔は渡し船があって、
それで越えていったのですが、
いまはもう橋がかかっています。
この橋本あたりの開発に
忘れてはならないのが
応其(おうご)上人です。
彼はこの紀の川の古佐田村の荒れ地を開き、
紀の川に橋を架けた人。
橋本市という市の地名は
この橋に由来するそうです。
その名残の橋の方へと
向かって行きましょう。
まずは橋本川をさかのぼり、
新御殿橋を渡ります。
あ、橋にヘラブナ竿の絵がありましたよ。
橋本の駅にも竿の展示場がありましたから、
この変で盛んに作られているんでしょう。
なんかそんな竹藪とかあるのかなあ。
そこまではよくわかりません。
そんな橋を渡り、まず資料では
道標がきれいに残っている
というので見に行ってみましょう。
「橋本1」の交差点のすぐそばの
祠の前に並んでいる石のひとつがそうだ。
側面には「右いせよしの」と書かれています。
そして前には「右わか山おおさか 左かうや」
と書かれていますね。
道標の右、左というのは
ややこしいですね。
4里石に向かうときに、
こんな道標も見ています。
「北 右わ可山 こか者 左い勢
なら 者せ よし能」と書かれています。
こか者は「粉河」で、者せは「長谷」
のことだそうです。
そして「西 右かうや 左京大坂道」
とも刻まれています。
先ほどの橋本1の道標と合わせて、
高野街道、伊勢街道の交差する
このあたりには立派な
道標があったようです。
橋本1の交差点近くには、
こんな石もありましたよ。
旧橋本町の道路元標です。
橋本1の交差点近くにあったものが、
国道24号線の拡張時に撤去され、
交差点近くに放置されてあったのを
ここに設置したそうです。
法に基づいて、設置された元標なんですが、
後に法改正で多くが撤去されました。
ですがまあ、いくつか各地に
残っているようです。
doironがうろうろしている中でも
もう14、5個確認していますからね。
一度集計してみないといけませんね。
あともう一つ、電柱の陰に
大和街道の道標も見つけましたよ。
和歌山からずっと、この道標を見ながら
歩きましたねえ。
一応大和街道歩きはその終点である
五条まで、あと一息のところまで来ています。
また頑張って歩きましょう。
さあこれで、高野街道周辺の
石の碑は確認しましたね。
一緒に歩いている人も
感心されているようでした。
それでは高野街道歩きに
戻ってゆきましょう。
コースは紀の川を超える橋本橋へと
向かってゆきます。
これがその橋です。
上流側、下流側のどちらを渡ろうか
悩みましたが、ちょっと上流の方を
見たかったので上流側を渡りました。
川の中は大掛かりな工事をしていますねえ。
ただ単に河川の改修というような
感じではないですねえ。
何かができるんでしょうか。
そしてその上流のずっと向こうには
高野線が走っています。
橋本まで来た高野線は、
ぐるっと上流側に回り込んで、
遠回りをしていくようです。
前方につながる高野への山々。
紀の川の下流の方にみえる
町石道を歩いた時に休憩した鉄塔。
川の水の中にゆっくり泳ぐ鯉たちの姿。
また高野街道で越えてきた
岩脇系の山々の景色。
そんな景色とかを眺めながら、
初冬の風の吹く橋梁256mの橋を
ゆったりと渡ったdoiron達でした。
橋を渡り終えると、
すぐのところにスーパーがあります。
「おから煮きました」
「え!!うまい牛すじ」
「おやじのからあげ」
なんていう手書きの看板が
並んでいます。
都会じゃ見られないお店ですねえ。
続く