絵手紙に書く言葉というのは、
簡単なようで難しい。
ましてや、ただ単に感想的な言葉ではなくて、
絵が語る言葉を前向きに描けたらなあ
と思っています。
これはまあdoiron的には
「絵つぶやき」という言葉で
呼んではいるのですが、
なかなかそんな絵や言葉は
思いつかないもんです。
まず、作るにあたっては、
色々とルールを決めているのですよ。
まあ心の底に常にある言葉を
表現できれば、それはそれで
自分的にはとても満足なんですが、
なかなかねえ、
人間には心をしっかり覗く
というのもとてもむつかしいものです。
あーじゃない、こーじゃないと
考え続ければ、意外なところに
答えを見つけたりする
なあんてこともあるから、
人の心は自分自身のことだけ考えても
むつかしいなあと思います。
作成にあたって基本的にまず、
プラスの内容ばかりで
マイナスは書かないということを
課しています。
明るく、簡単に、明確に、が基本だ。
そこに思わぬ気づきがあればいいし、
なおかつうまくダジャレが入ればいい。
う~ん、なかなかそうはうまくはいかない。
詩を書いたりする人も
こんな感じで制作しているんでしょうか。
最近読んだ絵手紙の言葉で
面白いのを一つみつけました。
紹介しましょう。
パプリカの下の方をアップで三つ描いて
「赤いおしり青いおしりだいだいのおしり。
みんなおしりあい」という作品です。
いいですねえ。
面白くてシャレも心地よく入っている。
そしてまた、人々にはいろんな人がいるけど、
それぞれ許しあって、
受け入れて楽しく過ごそう
という心の片隅を見るような作品で
doiron的にはとても大好きな絵つぶやきです。
なかなかねえ、こういう素敵な作品は、
そんなに生まれることはありませんね。
今までdoironが描いた絵手紙の中で、
気に入っているのを何点か紹介しましょう。
一つはトマトの絵です。
トマトの上に書いた言葉は
「上から読んでも下から読んでも、
『できるやるきで』」という作品。
みごとに回文を混ぜ込んでいます。
それから、おちょこに酒を注ぎながら
「楽しいお酒、笑えるお酒、出会えるお酒
そんなのがいいな」という作品です。
心の中で思っていることを
素直に出した作品で、
自分でも大好きな作品です。
これいいなあと思っていたら、
産経新聞が採用して掲載してくれました。
うれしかったなあ。
それから描き始めた最初のころの作品で
面白かったのはブドウの作品です。
粒がいっぱい集まって力強く
ということを表現できたら
と思っていたのですが、
なかなか言葉が生まれません。
あかんなあと思っていたら、
ふとブドウの粒の集まりの中から、
ポツンとこぼれ落ちた実が
「時には一人になりたい時もある」と表現したら、
とてもしっくり来ていい作品になった
というのもありますね。
そういう言葉の奥底には、
いろんな側面があって、
時には逆転の発想でとても
面白くなったりもするもんです。
最近は、そんな作品の作成に
とても夢中になっています。
はてさてこれからどんな作品が出来上がるのか、
自分のことながらわくわくしたりしているのです。
今年の正月はミセスと息子と三人で迎えました。
なんか人生の中でも静かで
ふくよかな正月でした。
孫二人は、体調が悪く
帰宅しにくかったので来なかったのですよ。
その代りテレビ電話で、
上の孫とはあけましておめでとうを
交わしましたよ。
でもそれでは物足りないだろうと、
前の土曜日に息子が
孫二人を連れて帰ってきました。
「逢いたかったやろ」という
息子のセリフが申し訳ないほど
優しくて感動しました。
自分の子ながら、
いい人間になっていますね。
でも孫とは関係が希薄です。
下の孫とは生まれた直後と、
インフルエンザにかかっているときに
チラッとあったくらいなので
向うの脳裏にじいちゃん、
ばあちゃんの顔はインプット
されていませんでしたね。
今回やってきたときに、
顔を見るなり「ウェーン」と
泣かれてしまいました。
もうこれ以上優しくはなれないぞ
という笑顔で向かっていったのですが、
泣き止みません。
うわーどうしようと思うと同時に、
これで普通やねと自分を納得させます。
こうして初対面ぽい人と会うのに、
泣くのは順調に育っている
証拠やねと安心しました。
上の孫は5歳と6か月、
下の孫は1歳と6か月です。
上の孫である「爽ちゃん」はじいちゃん、
ばあちゃんととても元気に話します。
それに振り回されるように遊んでいると、
徐々にそれを見ていた下の孫「洸ちゃん」も
慣れてきましたね。
まるで氷河の氷が、熱帯の大洪水に
なるように気持ちがあふれてきます。
それにしても、歳をくってくるとねえ、
孫が突入してくるのも怖くなりますねえ。
まるで恐竜に襲われるネズミの様ですが、
そんな圧力に耐えて必死に
おじいちゃんをこなすdoironなのです。
なにはともあれ、
写真を見るとしっかりおじいちゃんに
なっていましたね。
みんな健康で、のびのび育ってほしいです。
昆陽池の周りは、
昆陽池公園として整備されています。
所々にいろんな施設が置かれており、
その一つの広場で阪神淡路大震災の
追悼集会が開催されました。
でもまあ早朝の集会なので、
人の世が動き始めるころには
もう終わりかけです。
車が乗りこんで撤収が始まっています。
公園の周りのベンチには、
もう少し余韻を味わう人も
いるかもしれませんが
にぎやかに作業が行われています。
そうかあ、もうここでお祈りするところは
ないのかとちょっとがっかり。
そしたらまあこの公園を歩いて
次に神戸に行くかあと歩こうとすると、
公園の片隅に火がともっています。
献灯台のようだ。
「阪神・淡路大震災・・」と書かれてあって、
貴方の思いを灯してください
と書かれています。
火がついているろうそくの周りは、
溶けた蝋だらけ。
朝から多くの人が、
ここに火をともしたんでしょう。
doironもお祈りしていきましょう。
気がついたら慰霊碑が何本もたっています。
この追悼の場からもこの地域が受けた
阪神淡路大震災の影響は
とても大きかったことがわかります。
では昆陽池の周りをまわってゆきましょう。
遠くには昆陽池の昆虫館の
屋根なんかが見えています。
みちの周りの木には、
種類を示す木札がついている。
これなんか「かくれみの」という名前です。
パッと見たらサルスベリみたいに
つるつるした木ですが、
葉っぱが大きくて隠れ蓑につかえるような
木ですからこんな名前です。
そしてここは見事な竹林。
そんな自然の多いところを抜けていきますと、
目の前に昆虫館が現れます。
二回ほど入っていますが、
大きな蝶が温室の中を
飛び回っていたりします。
印象に強く残っているのは、
ガラス窓の向こう側に
ミツバチが巣をつくっていて、
見事なジオラマを作っていました。
外から見た感じではそんな蜂の巣は
今はないようですね。
昆陽池1周をそんな風に
キョロキョロしながら歩きました。
時間はほぼ1時間。
5千歩くらいの散歩でした。
さあ、次はここから神戸に向かいましょう。
西宮方面に向かってゆきます。
途中でお腹がすいたので、
うどん屋さんに入りました。
いただいたのは、
お蕎麦とおでんとおにぎり。
ビールがあれば最高なんですが、
車なのでこれで大満足です。
西宮から神戸の方へ。
先日写真の展示会を見に行った近くを通り、
震災復興の公園を目指します。
でもねえくるまで神戸の街を
走っているだけで、
1月17日の雰囲気がそれとなく
伝わってきます。
まちが何となくまあ静かなんです。
いろんな人の思いが、
町の底に沈殿しているんでしょうねえ。
歩く人々は、何かそういう慈しみに
あふれているように見えます。
東公園に行き、置かれているろうそくには
みんな字が書かれています。
「絆」や「生」や「希望」など。
僕だったら何を描くかなあ、
きっと今なら「命」だろうな。
あの震災から29年。
その間にdoironも失っていたかもしれない
命をもって、今は人生をとても楽しんでいる。
しっかり生きていくことの大切さを、
追悼の旅から学ぶというのも
変な話ですが、まあそういうモノですよね。
そんなことを感じながら
追悼の散歩を終えた一日でした。
1月17日は特別な日だ。
29年前のあの日の朝は忘れられない。
ドーンという大きな衝撃に目覚めた。
前日にテレビで見ていた
ゴジラがやってきたような衝撃だった。
息子もミセスも目覚め、
大きな揺れが納まるのを待った。
阪神淡路大震災を引き起こした
兵庫県南部地震だ。
住んでいる地域では震度4だったけど、
当時、40年近くも生きている中で
最も激しい地震体験だった。
震災後、友達がいる神戸に
食器をたくさん持って行ったなあ。
それが起こったのが1月17日なのだ。
で、この日の散歩はというと、
もうここ以外には考えられませんね。
神戸に向かっていくことにしましょう。
追悼散歩である。
まあ散歩マニアとしては当然の選択でしょう。
その日の朝は、五時半に起きました。
あの地震のあったのは午前5時46分。
朝の早い時間から追悼の集まりを
しているのを、テレビで見ていた。
するとねえ、ろうそくを能登半島の
形に並べて、ともに祈っている姿が
うつっていた。
伊丹市の昆陽池で行われていた
追悼の集会だ。
ああ、あそこも被害があったんやなあ
と思ったら、能登を追悼もしてはるし、
神戸に行く前に寄ってみるか
と考えたのだ。
早速車で出かけていくことにしましょう。
昆陽池には阪神高速で向かって
いくのがいいでしょう。
伊丹空港近くから下道を走り、到着します。
駐車場はありますよ。
そこにとめて歩いてゆきます。
昆陽池は昔の人の名前から
「児屋」と名付けられていたことから
ついた名前。
行基が作ったため池と言われています。
あ、ちなみに伊丹の語源はというと、
「糸を績む土地」の意味で
「糸績(いとうむ)」が転じて
「いたみ」になった説や、
機織りのために養蚕が盛んだったことから、
クワ科の植物「イタビカズラ」の
古名「イタビ(木蓮子)」が
転じた説があったりしますが、
いずれも織物関係の業務に
関連しているようです。
さて、話は元に戻って昆陽池なんですが、
大きさは一周は約3キロ。
歩いて一周するには最高な感じですね。
駐車場から左回りで
あるいていくことにしましょう。
この池の大きな特徴は、
僕の知る限りでは多くの水鳥がいて、
周りにゴキヅルなどの
珍しい植物があったりします。
そして昆陽池公園になっている
岸辺には昆虫館があって、
蝶が温室内を飛び回っていた
という記憶があります。
でもまあ今日は追悼です。
それに関した周りの施設を
尋ねていくことにしましょう。
ここには散歩者やランニングしている人たちも
多くいますし子供を連れた
お母さんも歩いていたりして
回りに親しまれている公園
という感じもしますね。
林の中の散歩道を歩いて進んでいきます。
途中にはこんな歌の碑や、
ふるさとの森なんて
コーナーもあります。
また道横の池の干潟には
アオサギがいたり、
ウがいたりもします。
池全体の景色も広々して
なかなかいいものです。
やがて右に芝生の広場が見えてきます。
その広場の片隅で追悼集会が
開催されていた様です。
でも早朝からの集まりだったので、
もうすでに大勢の作業員で
片づけが始まっていました。
残念、能登半島の形をした
ろうそくはきれいに片付けられていました。
続く
友だちで、振り返るふるさとってないねんと
語る人がいました。
そうやねえ、doironも今住んでいるところで
生まれたうえに、そこで自治会長してるから
そういう意味で、今の住所がふるさとなのです。
あえて、もっと他のところで
ふるさとはないのって聞かれたら
「石川県金沢市」を挙げるでしょう。
若い学生時代に4年間を過ごし
若さの力の多くをここで
爆発させてきました。
大切な地域、ふるさとです。
大雪が降った一年もありましたね。
下宿の外に出られなくて
二階の友達部屋から
出入りしたときもありました。
そんな石川県が最近ニュースで
いっぱい登場します。
今年の元日、能登半島であった
地震災害です。
能登といえばよく行ったところで、
地震のニュースを見ていると、
聞いたことのある地名が
いくつも出てきます。
家族で出かけた旅行。
友達とみんなで旅した千枚田や
能登の切子祭りの展示館。
それからワイワイ歩いた朝市なんか
もうどこがどこだか
わからないようになっています。
また珠洲の方もトライアスロンで
行ったりしたところです。
ここには2回出たなあ。
だから地名もめちゃめちゃ
知っているから気になって仕方がありません。
あそこの宿は大丈夫かなあ
とかあの自転車で登った山道は
崩れてないんだろうか。
あの静かな海は暴れたんやろなあ。
とまあそんなよく知っている旅先なんです。
でもそれよりも何よりも、
学生時代には、珠洲、輪島、七尾なんかに
住んでいる当時の友達がいっぱいいました。
もう今となっては連絡など
してはいませんが、
あの地震でどうなったやらと考えたら、
当時の同級生の顔なんかが
いっぱい出てくるのです。
眼鏡屋の友達もいてたなあ
一人旅が好きな先輩もいた。
きっと歯医者になったであろう
アイドル歌手のファンもいた。
そんな友達のことを振り返って
思いだしたら懐かしくて仕方ないよ。
あの自然たっぷりの北陸の景色も
忘れがたいが、いつもいつも
能登の友達にも恵まれていたなあって思う。
それはそれはとてもありがたいことだった。
doironの青春時代を楽しく
一緒に過ごしたそんな友達たちも
今回の地震ではいろんな形で
災害を受けたんやろなあと思います。
そう考えたら、気持ちが暗くなるよ。
彼ら、彼女らが無事であることを
せめて、祈るばかりです。