今から30年位前、私等一家は、文字通り一文無しで、この地へ来た。
一文無しでも歯は痛む。ので、当時開業したばかりの歯医者に駆け込んだ。
先生も奥様も共に30歳、大学の同級生だそうで、先生が施術をし、奥様が受付をされる。
そうやって朝から晩まで、共働きだった。何時行っても、奥様の元気な笑顔で迎えてくれて、
むやみと抜歯しないし、成るべく保険で治しましょうと言ってくれた。
先生は「アインシュタインの稲葉君」みたいな雰囲気で、奥様は広瀬アリスみたいだった。
「何がようて結婚しはったんやろね」「顔やのうて、ココロ?」とひそひそ話したもんだ。
家族全員でお世話になっていた。
それから10年、子供も大きくなり、私も歯医者通いをしなくなったある日、奥歯が痛みだし、
何年ぶりかに、そこへ行った。
受付には若いお嬢さんが座ってらした。
「あれ?奥様は?」と聞いたら、受付の椅子に座ったまま亡くなられたそうだ。お子さんも無く、
ひたすら夫に協力しようと無理をされたのだろうか、享年40歳。
先生は心なしか弱気になったように見える。昔の元気は何処へやらという風情だった。
そうなると、段々足が遠のき、結局行かなくなった。
その先生が、今から7~8年前だったか、夜に突然電話をかけて来られて、是非お会いして重要な話
がしたいとおっしゃる。
物凄くお久しぶりだけど、よくもまあ電話番号を覚えておられた事よ。
で、用件は?めっちゃ重要って?お母さんプロポーズされるんちゃうの?
まさか~、なんぼ未亡人でも選ぶ権利はある!なんて言いながら先生を待つ。
午後10時頃来られた先生は、相変わらず三白眼でアインシュタインの稲葉君だった。
取りあえずのお茶をだし、季節の挨拶なぞを交わし、息子娘と三人で、先生の言葉を待つ。
プロポーズ?まじぃ?どうやって傷付けずに断ろうかなんて思っていたら、
「いや、mioさんにいい知らせを持ってきたのですが、今西宮のある場所へお釈迦様の別荘を
作ってましてね、それがようよう完成するんですわ。それでですね、mioさんに是非行って
頂きたい、ついては、私がご案内したいんですが、いつ頃が良いですか?」ですと。
家族全員ポカーン、口あんぐりとはこのことだ。
息子が「あの、お言葉は嬉しいのですが、ボク車あるし、運転しますんで、住所を教えて下されば、
母と一緒に行きますが」
「いや、これは、そんじょそこらの方に、べらべら教える訳には行かないんですよ」(息子は家族やっちゅーに!)
「西宮のどこらへんですか?」
「それは、ご案内したら、分かります」
「住所は教えてもらわれへんのですか?」
「はい、特別に選ばれた人しか行けない所なんで」
「で、母が選ばれたんですか?」
「そういう事です。宜しければワタシとご一緒できないかなと思って電話したんですわ」
先生おでこの「ぽよぽよ毛」を掻きあげながら、私と二人で無いと行けないと力説される。
息子が「失礼ですが、ボクには、そのお釈迦様が西宮に別荘を持たはるっちゅうのが理解できないですけどね」
「まあ、普通はそうでしょうけど、ほんまなんです。行けば分かります」
と延々2時間位居座って、息子がお引き取り願う圧をかけて(息子体重0.1トン)よろよろと立ち上がり、お帰りになった。
夜中に玄関でボーゼンとする私等。
「先生大丈夫やろか?頭おかしなってへんやろか?」
「何やろねえ、お釈迦様がどーたらとか?ほんまやろか?」
それから数日後医院の前を通ったら、「閉院」していた。
あれは一体何だったんだろう?
こんなファンタジーな歯医者は嫌だ。