・縄文土器Jomon pottery じょうもんどき
日本における縄文時代は、世界はようやく旧石器時代から、定住型の新石器時代へと移行する段階です。石器時代と縄文時代の違いは、土器の出現や竪穴住居の普及、貝塚の形成などが挙げられ特に、土器の使用が、縄文時代の始まりといわれます。土器は狩猟採集時代にアジアから欧州に伝わったとみられています。
中国湖南省で発掘された約1万8千年前の土器が最古といい、1988年の発掘で青森県大平山元(おおだいらやまもと)遺跡の縄文土器(放射性炭素年代測定より約1万6千年前)は、最古の土器の部類といわれます。
日本の食物の歴史は、一万数千年前より存在していたといわれていますが、紀元前2000年ぐらいの縄文時代からにさかのぼっているのが一般的です。
縄文時代(草創期)の土器から魚などを煮炊きの加熱調理したとみられる古い調理の痕跡があります。
狩猟(しゅりょう)民族では、生理的に殆んど食塩をほとんど要求しません。植物性食品を摂取するようになることによって生理的に食塩を欲(ほっ)するのです。でんぷん食、野菜食パターンでは、植物に含まれるカリウムを取ることによって、そのカリウムが対外に排出されるさいには、ナトリウムを伴うのです。
澱粉食パターンの農耕民族では、肉食を主とする狩猟民族に比べるとナトリウム補給する必要があり、食塩を多く生理的にも要求することになるのです。
縄文時代末期の製塩文化の発達があります。その発達は、縄文農耕文化を招き入れるインディケーターIndicatorの役割をしたことになります。
縄文時代後半に海水を土器で煮詰めて、さらに加熱することによって融点の低いマグネシウム塩は逃げていきます。つまり土器製塩の発見は純度の高い食塩製造技術の確立を意味しているのです。このことから味覚の文化も進化していったと考えられます。
そこから、魚醤、乳酸菌発酵技術が生まれたとも考えられています。食塩文化を仲立ちとして、日本列島は弥生時代の稲作の米、植物摂取の増大へと進んでいくことになったともいえるのではないでしょうか。
現代の日本海側に残る魚食文化のニシン、ハタハタ、ブリ、鯖などの数々のその根源は縄文時代の鮭文化に端を発しているといえるでしょう。
紀元前2000年~紀元前500年頃に掛けての東日本一帯には、亀ヶ岡文化が、西日本一帯凸帯文文化が栄えていたようです。考古学ではこの時代を縄文晩期と呼んでいます。
仙台湾を中心として縄文時代の後期頃から製塩土器が現れています。塩蔵の発見は塩辛、しょっつるの類の自己消化技術の発展へと進化していきます。
西方文化圏(カツオ)の漁労文化は、塩蔵には適していなかったようです。
この時代は、漁業との関連が深く、その漁労文化は、東高西低と考えられ日本列島の西方文化圏(カツオ)の漁労文化は、東方文化圏(鮭)の低さより大陸からの弥生文化の上陸を許したのではと推測できるのです。
また縄文時代の原日本人は楡(にれ)の皮などに含まれる糖質を乳酸発酵源に生かすことを発見していたであろうことを推測しています。
長い縄文時代を通じて北方の漁労文化は、日本列島を南方へと徐々に伝播していったといえるでしょう。
縄文土器の役割は、食塩、発酵、油への進展のつながりがあるように考えられています。
縄文土器は世界最古の土器のひとつであり、その文様(縄文)などを見れば、日本人の「ものづくり」の伝統にもつながっているのではないでしょうか。そして、縄文土器に付着した食べ物の炭素を分析し、世界で最初に料理をした器ではないかと推測しています。
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