TIME誌の巻末に掲載されているいわゆるタイムエッセイクラスの英文になると、英検1級、TOEIC900点レベルの英語学習者からも「難しい」という声が寄せられることが少なくありません。ただ、あるコツを覚えると論説記事の読解がかなり楽になります。それは主観を極力排して筆者の思考に身をまかせる素直な読み方をすることです。
論説記事の多くは読者にとっての「異見」で、それを自分に都合のいいように読み替えるようでは正確な読解はできません。もちろん正確に読むことと筆者の見解に迎合することは全く別問題です。たとえば、ディベートに強い人はまず例外なく論敵の主張を高い精度で理解してからおもむろに反論にとりかかります。ディベートに弱い人は論敵の主張を御都合主義的に解釈してトンチンカンな反論に及んでコテンパンにやっつけられることが多いです。
読解においても似たようなことが言えます。
かつての共産圏には、
「共産主義者とは?
マルクスとレーニンの著作を読んだもの。
反共主義者とは?
マルクスとレーニンの著作を理解したもの。」
という秀逸な政治ジョークがありました。幸いにして日本が共産化されて全体主義社会になることはなかったとはいえ、同質化を求めてやまない島国根性は根強く残っています。つい最近まで、外国人に対して「日本人以上に日本人らしい」という珍妙な讃辞が寄せられることさえありました。「異見」との接触を楽しむくらいの姿勢がないと、英語力はあるのになかなか論説記事は読めないということにもなってしまいます。読書は時として筆者との対話であり時として筆者との格闘でもあります。対話も格闘も正確な理解なしには成立し得ません。
[追記]
マスコミはあってもジャーナリズムと言えるようなメディアの乏しい日本では、本格的な論説記事に触れる機会はそう多くありません。ただ、海外の論説記事を日常的に読むような読者やマスコミ関係者が増えれば日本にもジャーナリズムが育ちうると思います。
論説記事の多くは読者にとっての「異見」で、それを自分に都合のいいように読み替えるようでは正確な読解はできません。もちろん正確に読むことと筆者の見解に迎合することは全く別問題です。たとえば、ディベートに強い人はまず例外なく論敵の主張を高い精度で理解してからおもむろに反論にとりかかります。ディベートに弱い人は論敵の主張を御都合主義的に解釈してトンチンカンな反論に及んでコテンパンにやっつけられることが多いです。
読解においても似たようなことが言えます。
かつての共産圏には、
「共産主義者とは?
マルクスとレーニンの著作を読んだもの。
反共主義者とは?
マルクスとレーニンの著作を理解したもの。」
という秀逸な政治ジョークがありました。幸いにして日本が共産化されて全体主義社会になることはなかったとはいえ、同質化を求めてやまない島国根性は根強く残っています。つい最近まで、外国人に対して「日本人以上に日本人らしい」という珍妙な讃辞が寄せられることさえありました。「異見」との接触を楽しむくらいの姿勢がないと、英語力はあるのになかなか論説記事は読めないということにもなってしまいます。読書は時として筆者との対話であり時として筆者との格闘でもあります。対話も格闘も正確な理解なしには成立し得ません。
[追記]
マスコミはあってもジャーナリズムと言えるようなメディアの乏しい日本では、本格的な論説記事に触れる機会はそう多くありません。ただ、海外の論説記事を日常的に読むような読者やマスコミ関係者が増えれば日本にもジャーナリズムが育ちうると思います。
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