先週紹介した「伊藤和夫の英語学習法」(駿台文庫)という本の中に以下のような一節がありました。
(引用開始)p59より
試験で「訳せ」というときは、うまい日本語ではないにしても、普通の日本語になおすことが求められているんだから。子曰く「・・・・」ト、いう言い方が昔はあったさ。しかし、君が日本語を書くとき、「私が言いたいのは次のことです、つまり・・・・ということです」のような書き方をするかい。めったにしないだろう。では、新聞や雑誌にそういった言い方が出てくるかい。よほどのことがなければ、まず出てはこないだろう。自分で言いもしない、目にすることもないような表現が、英文解釈になると出てくるのはどこかおかしいんだ。君の言うような訳が、試験をすると目につくのは、どこかで誰かが、「接続詞のthatがあったら『次のようなこと』として、そこで一応切って訳す、これが英文解釈の公式」というような教え方、日本語への機械的な言いかえを教えるだけの教え方をしているせいじゃないかと思うけれども、そういう教え方をする人は、そのことで生徒の日本語を破壊し、日本語を混乱させるという害悪の種子をまいていることに気づくべきなんだ。
(引用終了)
「どこかで誰か」のひとりは私かもしれません。「日本語への機械的な言いかえを教えるだけの教え方」というよりも、「極力英語のまま理解し、難解な部分だけ英語の語順でスラッシュ訳する」教え方をしています。ただ、いままで高卒以上の年齢に達した相当数の日本人にスラッシュ訳方式で英語を教えてきて、「日本語がおかしくなった」という苦情が出たことは一度もなく、きちんと訳さないと英語力が伸びないということもありません。「自然な日本語に訳したい」という要望が出たことは何度かあるものの、翻訳を教える契約をしたことはないので却下しました。
英語は日本語とは発想の異なる外国語である以上、「自分で言いもしない、目にすることもないような表現」すなわち英語の発想になじむのが英語を習得する一番の近道で、そのための訓練としてスラッシュ訳はきわめて有効です。
「試験で『訳せ』というときは、うまい日本語ではないにしても、普通の日本語になおすことが求められているんだから」という伊藤和夫氏の指摘はきわめて妥当とはいえ、日常学習においては訳さないに越したことはなく、訳す場合にも「普通の日本語」にしない方が英語の上達は早いです。英語の発想を身につけて英語力で優位に立てば、「普通の日本語」を要求するような入試対策は直前数か月で十分でしょう。
たしかに小学生にスラッシュ訳方式で英語を教えれば日本語がおかしくなる恐れはあります。しかし日本語が完成した段階で英語を効率よく学ぶには、英語の発想、英語の語順によるスラッシュ訳、いわば「壊れた日本語」になじむのが合理的です。一日数時間程度おかしな日本語にさらされたからといって「日本語の破壊」につながるほど、母語というものはやわではありません。
子曰く「・・・・」ト、いった流儀の漢文の読み方をして日本語がおかしくなったという話は聞いたことがなく、むしろ思考を柔らかくする効果を期待できるでしょう。学習環境が整っていたわけではない明治維新前後に少なからぬ英語の達人が出たのは、英語と似た語順の漢文に親しみ日本語の語順や発想だけが唯一絶対のものではないという相対的言語観を身につけたことにもあるのではないかと私は推測しています。英和辞典は存在せず英英辞典を使わざるを得ないという「好条件」もプラスになったのでしょう。
「福沢諭吉 英英辞典」でグーグル検索をかけると以下のような話が出てきます。
「時代の黎明期にあって活躍した福沢諭吉、前島密、新島襄、内村鑑三、田中不二麿、棚橋一郎、大槻文彦ら著名な日本人でウェブスター辞書の恩恵をこうむっていないものはないといっても過言ではない。」
「今では手軽に入手できる英英辞典ですが、福沢諭吉はアメリカまで船で行って英英辞典を購入したそうです。こうして、日本語に当てはる言葉がない英語の訳語を作っていったわけですよね。先人の苦労には頭が上がりません。」
(引用開始)p59より
試験で「訳せ」というときは、うまい日本語ではないにしても、普通の日本語になおすことが求められているんだから。子曰く「・・・・」ト、いう言い方が昔はあったさ。しかし、君が日本語を書くとき、「私が言いたいのは次のことです、つまり・・・・ということです」のような書き方をするかい。めったにしないだろう。では、新聞や雑誌にそういった言い方が出てくるかい。よほどのことがなければ、まず出てはこないだろう。自分で言いもしない、目にすることもないような表現が、英文解釈になると出てくるのはどこかおかしいんだ。君の言うような訳が、試験をすると目につくのは、どこかで誰かが、「接続詞のthatがあったら『次のようなこと』として、そこで一応切って訳す、これが英文解釈の公式」というような教え方、日本語への機械的な言いかえを教えるだけの教え方をしているせいじゃないかと思うけれども、そういう教え方をする人は、そのことで生徒の日本語を破壊し、日本語を混乱させるという害悪の種子をまいていることに気づくべきなんだ。
(引用終了)
「どこかで誰か」のひとりは私かもしれません。「日本語への機械的な言いかえを教えるだけの教え方」というよりも、「極力英語のまま理解し、難解な部分だけ英語の語順でスラッシュ訳する」教え方をしています。ただ、いままで高卒以上の年齢に達した相当数の日本人にスラッシュ訳方式で英語を教えてきて、「日本語がおかしくなった」という苦情が出たことは一度もなく、きちんと訳さないと英語力が伸びないということもありません。「自然な日本語に訳したい」という要望が出たことは何度かあるものの、翻訳を教える契約をしたことはないので却下しました。
英語は日本語とは発想の異なる外国語である以上、「自分で言いもしない、目にすることもないような表現」すなわち英語の発想になじむのが英語を習得する一番の近道で、そのための訓練としてスラッシュ訳はきわめて有効です。
「試験で『訳せ』というときは、うまい日本語ではないにしても、普通の日本語になおすことが求められているんだから」という伊藤和夫氏の指摘はきわめて妥当とはいえ、日常学習においては訳さないに越したことはなく、訳す場合にも「普通の日本語」にしない方が英語の上達は早いです。英語の発想を身につけて英語力で優位に立てば、「普通の日本語」を要求するような入試対策は直前数か月で十分でしょう。
たしかに小学生にスラッシュ訳方式で英語を教えれば日本語がおかしくなる恐れはあります。しかし日本語が完成した段階で英語を効率よく学ぶには、英語の発想、英語の語順によるスラッシュ訳、いわば「壊れた日本語」になじむのが合理的です。一日数時間程度おかしな日本語にさらされたからといって「日本語の破壊」につながるほど、母語というものはやわではありません。
子曰く「・・・・」ト、いった流儀の漢文の読み方をして日本語がおかしくなったという話は聞いたことがなく、むしろ思考を柔らかくする効果を期待できるでしょう。学習環境が整っていたわけではない明治維新前後に少なからぬ英語の達人が出たのは、英語と似た語順の漢文に親しみ日本語の語順や発想だけが唯一絶対のものではないという相対的言語観を身につけたことにもあるのではないかと私は推測しています。英和辞典は存在せず英英辞典を使わざるを得ないという「好条件」もプラスになったのでしょう。
「福沢諭吉 英英辞典」でグーグル検索をかけると以下のような話が出てきます。
「時代の黎明期にあって活躍した福沢諭吉、前島密、新島襄、内村鑑三、田中不二麿、棚橋一郎、大槻文彦ら著名な日本人でウェブスター辞書の恩恵をこうむっていないものはないといっても過言ではない。」
「今では手軽に入手できる英英辞典ですが、福沢諭吉はアメリカまで船で行って英英辞典を購入したそうです。こうして、日本語に当てはる言葉がない英語の訳語を作っていったわけですよね。先人の苦労には頭が上がりません。」
「英語中心の中にも補助手段として母語を有効利用しているわけですね」とぴったりの要約を頂きました。
母語が邪魔になることもあるとはいえ、使いようによっては母語も外国語習得の有効な補助手段になると思います。母語の助けなしで文法を学ぶとなればえらい時間がかかるのは間違いないでしょう。
> 困りものなのは、確実な理解ができない段階の英語学習者がたまたま「名訳」をしてしまって、不見識な英語教育関係者に
> 絶賛されたりするケースがあることです。
> その結果、ギャンブルのような意訳を試みて「異訳」や「違訳」を重ねる姿を何度か目撃しました。
同じようなことを考えていたのですが、自分の中で明確に表現できないまま、打ち過ぎていました。
すなわち、名訳 (?) を作った一時の爽快感に味をしめて、常にファインプレーやプラス・アルファーを狙うようになり、本道から外れてしまうケースかと思います ( 今まで、私は、そんなことをしてきたような気がします )。
> もっとも通訳・翻訳学校の中でも良心的なところは、英検1級レベルを通訳・翻訳訓練を開始する目安にしているそうです。
私は、訳文を日本語として精練することも意義があるかと思っていたのですが、わざわざ困難を背負い込んでいたようです。
「日本語を介在するから明確になる」のではなく、「英語と日本語とを同じ重みで背負って不自由になる」ことが現実であったと思いました。
勿論の英語だけの世界で熟達すれば、翻訳や通訳のように二言語を同じ重みで扱えるわけですが、そこに至る過程を私は軽視していたようです。
5 月に久し振りの TOEIC 受験になりますが、新たな取り組み方ができそうです。ありがとうございました。
また、今まで提唱されていたスラッシュ訳の意義もわかりかけてきた気がします。英語中心の中にも補助手段として母語を有効利用しているわけですね。
普通の表現をきちんと理解できる確実さの延長上に「達意の翻訳」があるのだと思います。もちろんそれは誰もが到達できる境地ではないし、誰もが目指す必要性もありません。
困りものなのは、確実な理解ができない段階の英語学習者がたまたま「名訳」をしてしまって、不見識な英語教育関係者に絶賛されたりするケースがあることです。その結果、ギャンブルのような意訳を試みて「異訳」や「違訳」を重ねる姿を何度か目撃しました。
それから外国語教育において、早い段階で本格的な翻訳・通訳訓練を始めたりすると伸び悩むことが多いです。英語を英語のまま理解する能力が不十分なまま翻訳・通訳をやったりするとあぶはち取らずに終わることが多いのでしょう。
先日本屋で、TOEIC対策にも和訳が有効という趣旨の記述のある本を読んでびっくりして著者の肩書を確認したら、翻訳学校の講師であったのには苦笑せざるを得ませんでした。もっとも通訳・翻訳学校の中でも良心的なところは、英検1級レベルを通訳・翻訳訓練を開始する目安にしているそうです。
そうですよね、翻訳を教えているのではないんですもんね。