心の学校・佐藤康行の『真我の実践・サンタ営業の実践』日誌…『ひよこ』から『にわとり』への道

うつに苦しみ社会離脱した人間が真我(=本当の自分)に目覚め、サンタ営業実践の日々と開発者・佐藤康行の言霊を紹介します。

【第462回】魔法の高次元手帳を使う中での、私の超個人的な提案。

2019-12-17 11:40:49 | 日記

『魔法の高次元手帳』

本当に素晴らしい。凄いです。 

これを実践していくと、本当に現実がガラガラ変わっていく。 

そして、昨日よりも今日。今日よりも明日。

日々1日1日、薄紙を1枚1枚積み重ねていくごとく、少しずつだが確実に私の次元が上がっていくのを、ひしひしと感じます。

私が以前、YSコンサルタントのスタッフだった時に、

佐藤学長が、私たちスタッフにこうアドバイスしてくれた。

『真我の実践をしていく中で、こういう曲線をイメージしなさい。』

少し、私の解釈が混じっているが、要はこういう事です。

この曲線とは、真我の実践を継続し続けていく自分が、どのようにして心の成長をしていくのかを現してくれている曲線だ。

本当は、佐藤学長がホワイトボードに書いて下さった『真我の実践の日々の継続・成長曲線』の曲線を、ここで実際に書きたいけど無理なので(笑)、言葉で説明します。

真我の実践を継続していくと、こういう曲線になることを、予め頭に入れておきなさいと佐藤学長は仰る。

上がったり、下がったり、上がったり、下がったりしながら上がっていく....曲線です。

ちょうど、ジェットコースターのような軌跡です。

上がったり、下がったり、上がったり、下がったりしながら上がっていく。 

真我の実践をしていく中で、

自分が心の成長を実感する(上がる)こともあれば、

上手くいかず失敗し落ち込む(下がる)事もあるよ。

上がるも下がるも両方あるよ。 

それを繰り返しながら、上がり続けていくんだよ。

そして、ある時に下がった時、谷底だと思った高さは、実は以前に上がったと思った頂点よりも高いんだよ。 

この曲線を頭に入れなさいと言われた。

その事をふと思い出しました。

さあ、そして次回、私の魔法の高次元手帳の内容について超個人的な提案を書かせて頂きたいと思います。

ありがとうございました。


【第461回】佐藤康行の奇跡を「奇跡」として目の当たりにした時が、真我の実践の本当のゼロスタートだ。

2019-12-17 09:23:08 | 日記

※早速、ブログを加筆修正しましたので再度アップさせて頂きます。

緑色太字下線付きのところが加筆したところです。よろしくお願いします。※

よく聞きます。

佐藤学長の面談で、奇跡が起きた。

佐藤学長のセミナーが、凄まじかった。凄かった。感動した。

傍から見れば、それはそういうことだと思う。

しかし、そこをスタートにして、そこから私たちはやることがあると思う。

それは、自らが真我の発信者となり、佐藤康行と「同じ景色」を見ることに努めることだと、私は思う。

外野席から、佐藤学長を見て、あたかも評論家のように「凄い、凄い」と言っているのは、それは、絶対ゴールではない。

佐藤学長と同じグランドに立ち、真我の評論家から真我のプレーヤーに立ち位置を変えて、真我の発信者として、佐藤学長と同じ側に立つことが次のステップではないのか。

ふとそう思った。

そもそも、この世に起きていること、3次元の私たちの認識の世界で起こることに「奇跡」なんか、本来は「無い」のだ。

ただ、「原因と結果の法則」が寸分狂いなく働いているだけだ。

真理の観点から見たら、「当然で当たり前のこと」が起こっているだけ。

その法則が見えていない私たちには「奇跡に見えている」だけだ。

だから、その当たり前の事を、そもそも「奇跡」ということ自体が、私たちが未だ「認識の世界」にどっぷり浸かっていることの証拠だと思う。

少なくとも、それは、佐藤学長から「神えている」世界とは真逆の立ち位置に居ることは間違いないと、私は思います。

多分、佐藤学長は、ご自身が縁となって、周りの人々が「奇跡だ」と言っていることを、奇跡だとは1ミリも思っていない。

個人コンサルでも、恐らく、佐藤学長は、佐藤学長から「神えている」世界を、「ただ」返しているだけだ。

だから、佐藤学長から見れば、私たちには「奇跡」としか見えない数々の出来事も、佐藤学長にとっては、奇跡でもなんでもない。当たり前であり当然の出来事でしかないと思う。

私たちは、佐藤学長と同じ立ち位置に立って、佐藤学長と同じ世界が見えるように、佐藤学長が示している旗の方向に、ただただ無心で必死についていくことだけが必要だと私は思います。

佐藤学長を縁にして、展開していく一見「奇跡と見えるような事」を、「奇跡」だとか「凄い」とか言っている事は、

なぜか、私には「真理が私はわかりました。」と言っているのと同じように聞こえてしまう。

なぜなら、佐藤学長が起こす「奇跡と見える出来事」を「奇跡だ」「凄い」と、自分の認識の世界の中で結論づけてしまっているからだ。

それで終わっている。

「佐藤学長が凄いと私にはわかりました。」と結論付けて、終わっているように、私には聞こえてしまう。

「私は、佐藤学長のことがわかっています。」と結論付けて終わっていると、私には聞こえてしまう。

佐藤学長のことを、わかるわけがない。

私たちは、佐藤学長と同じ世界を絶対に見ていないのだから。

原因と結果の法則でから見たら当然で当たり前のことを、「奇跡だ。」とわかったつもりになっていることを、どうも少し変だと思ってしまうのは多分、私一人だけなのかもしれないと、ふと思った。

でも、これは私のブログだから、まあいいか(笑)と思って、本音を書いています。

佐藤学長が、よく仰っていた。「例えるなら、私はバスの添乗員だ。」

私なりに、この言葉を解釈すると、バスガイドが旗を持って色々な観光地を案内するように、

佐藤学長が旗を持って「皆さん~、真理はこちらですよ~」と旗を持って案内してくれる。

私たちは、佐藤学長の旗が示すその先に「真理」を見ることができる。

こんな感じだと思う。

だから佐藤学長を「凄い」といっている段階は、この例に例えると、「佐藤学長というバスガイド」を凄いといっているだけで、佐藤学長が指し示している景色や名所、すなわち「真理」をまだ見ている段階ではないと私は思ってしまうのです。

佐藤学長を「凄い」と感じるのは、とても素晴らしいけど、それをスタートにして旗が差し示す方向に私たちは進むことによって、初めて私たちには、本物の地に足がついた真理との出会いがあるのではないかと思った。

私たちの認識の世界では、真理のことを「わかる」ことはあり得ないと、佐藤学長は仰っている。

逆に「わからない。」ことが分かっているのだと、佐藤学長は仰る。

そういえば、今から10年以上前に、私がYSコンサルタントのスタッフだった頃、

佐藤学長がこうポツリと呟いた。

「誰一人、私に会っていない。本当の私に会っている人は、誰もいないんだよ。」

佐藤学長が、起こしている「奇跡と見える出来事」を「奇跡だ」とか「凄い」とか言っている間は、

「本当の佐藤康行」には未来永劫、永遠に会えないような気がしてならない。

なぜか、ふとそう思いました。

余りにも、言葉足らずな内容であることを自覚しつつ、一旦ブログアップさせて頂きます。

これから、もしかしたら、都度都度この内容を修正していくかもしれません。

ご了承ください。

ありがとうございました。