聞きたくもない、使いたくもない言葉が多い。
「半疑問イントネーション」、「~じゃないですか…」、「感動をありがとう」などなど…
WEBで調べてみたら、気にしてる人がいるわいるわ。
自分だけではなかったんだと納得したが、最近は減ってきたらしい。
周囲の会話や、ラジオから流れる言葉を聞いても、減ったような気がしないが…
「なでしこ」の騒ぎは、「感動をありがとう」をさらに増殖させそうだ。
耳がこそばゆく、自分が言ったのではないのにやたら恥ずかしく、居心地がひどく悪い。
小学生の頃から、ボクシングやプロレスを見ると、いつも主に外人選手や、
弱い方を応援していた。家族はだいたい逆を応援していた。
これも居心地が悪かった。
衣料品も最近はとんと買わない。今年の流行は…も、困ったもんだ。
同じ服を10年以上着ていれば、1回くらいは流行に乗ったことになるのかな?
10年以上着ていると、ほころびたり、すり切れたりしてくる。
さすがに外には着て出られないものが何着かある。
買い物着としてはまだ現役のユニクロのTシャツがある。
色違いの二着をとっかえひっかえ着ていたので、破れジーパンのような、
時代劇に出てくる「おこもさん」みたいな風情になってきた。
手話サークル活動をしていた頃、必ず紺か黒の濃い色の衣類を着ていた。
手話は、ほとんどが胸の前で表現するので、
上着が肌色に近いと、手話を表す手が溶け込んでしまうからだ。
日本手話の指導をしている、木村晴美さんのブログを見たら、
手話関連の話題が語られていて面白かった。
しかし、何でもかんでも黒一色というのも芸がない。場の雰囲気に合わせて、
ファッションにも気をつけてほしいと書いてあった。
通訳が浮いてしまっては邪魔になるからだ。
聾者が会社の面接で通訳を依頼したら、
サンダルにTシャツ姿で来た通訳者がいたそうだ。
舞台の上で講演者の通訳をするときもあまりにラフな姿はなじまない。
要は、時と場と場合を考えれば良いのだが、
自己実現の1つとしてボランティアをする人の中には、
聾者を利用しているかのような態度で、傍若無人な人がたまにいる。
自分の成人式では作業服を着ていった。娘に盛んに振り袖をけなしていたら嫌われて、
式の直前になって、自分の好きにして良いよと言ったが手遅れだった。
調子に乗って軽口で娘をけなすとひどい目に遭う良い例となってしまった。
<ねむの木の花>
NHKの番組「あなたが心の道しるべ」を見た。
パソコンに向かっている(通信作成)内に忘れてしまい、途中から見た。
最初の画面が、施設職員の採用面接試験の場面だった。
番組の主人公の一人は、福祉ホームの施設長の小山内さん。
尊敬する人を尋ね、身近な人しか挙げられない人は採用されなかった。
理由は、「尊敬する人に身近な一人しか挙げられないのはどうか…
尊敬する人が多いほど視野が広いんじゃないか」
吉川英治も、「われ以外みなわが師」と言っていた。
また、福祉課長をしていた浅野史郎さん(後に宮城県知事)との
四半世紀を超える交流も紹介されていた。
役所の人間と障害者との関わりというのは難しい。
要求をする(ある意味当たり前のこと)個人、団体と、
行政の人間は、対立的に捉えられがちだ。
場合によっては、味方を裏切る行為ともとられかねない。
そのような関係の中で、行政内部を動かし、人間の尊厳を取り戻そうとする戦いに加わる、
素晴らしい仕事をしたと思う。
浅野さんが白血病で入院したとき、
抗ガン剤の影響で体力が落ち、ジュースのプルトップが空けられなかったという話を聞き、
「甘えなさい」、「できないことはどうどうと頼めばいい」、
「ケアを要求できない内は、まだまだ」と助言する脳性麻痺で重度の障害者である小山内さん。
人は、完璧に生きようとしても無理がある。自分にできないことは、頼めばいい。
人に頼めないという姿勢をとるとき、他人(ひと)に助けられたくない、弱みを見せたくない、
お返しをしなくてはならない、借りを作ると重荷になる、人に頼るのは弱い人間だ、
などなどと考えると、とても窮屈な人間関係しか取り結べない。
別の味方をすると、生きるために手助けを必要とする人を認めない、
という立場をとっているかもしれない。
上手に甘えられる人になりたい、が、なかなか難しい。
先に紹介した「日本手話のしくみ」を読んでみて、あらためて手話の難しさを感じた。
たとえば、「雨が降ったら渋滞する①」と「雨が降ったから渋滞した②」の違い。
手話の単語は、「雨が降る」「渋滞」の2つだが、
ここに「眉上げ」、「間」、「うなづき」などが入り、①と②の違いが表現できる。
この本の付録?として、WEB上で動画を見ることができる。
違いはごくわずかで、動きも速いため、何度も見てやっと、“なるほど”と思う。
これらの、「眉上げ」、「間」、「うなずき」、「あご引き」、「あご上げ」、「目の見開き」、
「口つぼめ」、「体の前傾」、などが単語の間を埋めて、文法的要素を付け加える。
だから、私などは、素早く表現される単語以外の部分が読み取れず、
単語のいくつかはわかっても、意味が理解できない。
日本語の文法は、欧米のそれと比較して合理的でないと言われることがある。
手話も、同じように言われることがあるが、手話の文法は、
初心者には読み取れないだけのような気がする。
たとえば、「大丈夫」という手話表現がある。
少し体を後ろに引きながら、口を結び(口角を引き)、「大丈夫」と表現すると、
「大丈夫ですか」と言われた答えとしての、「私は大丈夫」になる。
「大丈夫」と表すときに、体を前に倒し(物問いたげな前傾姿勢)、目を見開き、
口をとがらせ気味にすると、「大丈夫ですか?」となる。
手話単語1つにこれだけの要素を付け加えることで、
手話に彩り(意味合い・文法的要素)を持たせることができる。
さらに、話者の背景(生活史、人間関係、その他諸々の)がわかってくると、
さらに読み取りやすくなる。
外国語が、文化的背景がわからないと十分な理解ができないことと似ている。
当会には、聴覚に障害をもつ会員が8人いる。
手話の難しいところはさておき、明るく挨拶をして、
怪我のないようにちょっとした気遣いをし、
ウォーキングの楽しさをともにすることができれば、まずは良い。
同じ時間を共有することで、通じるものは少しずつ増えていく。
会の中での交流を通じて、
手話に興味を持ってくれる会員が増えてくれることを願っている。
先月からユーセンに加入した。音楽(落語、語学他もある)だけの放送で、
聞きたくないDJや音楽を聞かないで済む。
今時のラジオやテレビの放送は、肌に合わず、聞くに堪えない、やりとり、話題が多い。
最近は、NHKまでがラジオもテレビも民放と見まごうばかりの内容となった。
たまにはNHKらしい番組もあるが、受信料を払うのが億劫になる。
ユーセンは、だいぶ前から加入したかったが、聴取料が高かったので手がでなかった。
今は個人用と、法人用という設定になったので、手が届くようになった。
ユーセンの良いところは、喋らないところだ。川の流れや小鳥の声、
クラシックやギターの演奏などを24時間やっている。
以前、「セントギガ」という衛星音楽放送を契約していたことがある。
自然音と心地よい音楽をミックスした放送で、時報なし・ニュースなし・DJなし・トークなしだった。
ところが、次第にDJあり・トークあり、歌謡曲ありとなり、
好みから大きく外れてきたので契約を打ち切った。
経営も成り立たなくなり、2007年ころ完全に終了したらしい。
チャンネルが440?あるそうだが、多くはクラシックやヒーリングの曲を聴いている。
必要なときはラジオも聞くことができ、FMなどは雑音がないので快適だ。
母のためには、美空ひばりや昭和の歌謡曲という選択もできる。
もしユーセンがしゃべり出したら、契約を取りやめるつもりだ。
うっかりして間違いを起こすことがある。
内容によっては取り返しがつかないこともある。
人は、大なり小なり間違いを起こすものだが、
「うっかり」おかしてしまった間違いは始末が悪く、ただ、反省するしかない。
「うっかり」と言っても、そのような間違いを犯す遠因がある場合もあるだろうし、
年齢による物忘れによる場合もある。
最近物忘れが多く、家の中のもの探しが多いと書いた(6/28「捜し物は何ですか」)。
自分のもの探しだけなら、人に迷惑をかけることは少なく、
「自分で自分の時間を無駄にした」だけだ。
しかし、人から預かったものをしまい忘れてなかなか出てこない時などは、
結果として、周囲に迷惑をかけることはある。
とにかく、「うっかりミス」を起こさないように注意するしかない。
「うっかりミス」を減らす手だてとして、何か行動に移すときは、
必ず一呼吸置くことを(再、再、……再度)肝に銘じることにしよう。
今年もカラスウリが咲いた。夜にならないと咲かないので、蚊に刺されながらの撮影となる。
明日の朝はすっかりしぼんでいる。
これは今晩(22時30分)撮ったもの。
こちらは何年か前に撮ったもので、気に入っている一枚。以来、このようにきれいに取れたことはない。
風が吹くとこのように形が整わないし、温度や湿度も関係するのかもしれない。
この写真は、福祉の森の墓場で撮ったもの。三日間通ってこの1枚だけだった。
当時、母がたいへん気に入って、近所の人に盛んに見せていた。
母は、子どもの頃、実家の近所でこの実をよく見ていたそうだ。70歳にして初めてこの花を見て驚いた。
今は、カラスウリの花が咲いたよと言っても、あまり関心を示さない。
カラスウリは、あまり庭には植えない。蔓性でやたらとはびこり、枯れたあともあまりきれいではない。
農家の広い庭や、ハウスの脇などに実をつけている様子をときおり見つける程度。
母がたいへん気に入っていたので、種から育て花が咲いたが、実がつかない。
何年かして、雄株雌株があることを知り、3年前アルバイト先で雌株を掘り出し、雄株の脇に植えた。
昨年から実をつけるようになったが、花の形はいつもさえない。
花が咲き、実をつけたあとは、藪のようになるので、草取りもしないわが家の一画は荒れ野原の風情を見せている。
WEBで調べたところ、あるサイトに「日当たりのよい手入れの行き届かない庭に咲いている」とあった。
この花は、しぼむとすぐに実に育つ膨らみを見せる雌株と、朝方にはぽろりと落ちてしまう雄株の花。
雄花と雌花を取り持つのは「スズメガ」だ。
雌株の花は、秋になるとこんな実をつける。
NHK第一のラジオを聞いていると、よく「ところによっては…」と言っている。
「ところによっては…」が入るのは、番組の合間や、流れが変わる時だ。
古河は、NHKのいう「ところ」にどうしていつも当たるのか?かなり確率が高い。
「ところによって」流されるのは、交通情報や天気予報だ。交通情報が多い。
必要な情報だとは思う。
その際、必ず曲名を言うので、聴きたい曲の場合、期待して待つのは無理もない。
古河(関東地方だろうか?)は、たいてい「ところ」に当たってしまう。
「ところ」に当たらない地域もあるのだろうか?
そこで提案だが、せめて「~の曲に乗せて交通情報をお届けします」とか、言ってくれないだろうか。
そうしてくれれば、期待して曲を待つことはあきらめる。
私の好きな番組に、『ことばおじさんの気になることば』コーナーがある。
担当は、梅津正樹アナウンサー。
質問コーナーがあったので投稿してみた。
何度やってもエラーとなってしまった?
今日の新聞に「日本手話のしくみ」という本の広告が載っていた。
副題は、「文法が基礎からわかる」となっている。
前に、私は手話が下手だと書いたが、この「文法」がよくわからないからだ。
私の手話は直訳の手話、つまり日本語の単語を手話の単語に置き換えただけで、
手話文法の規則に則っていないから、十分に伝わらない。
外国語で言えば、片言の手話といったところ。自分で表す内容は、不完全ながら
伝えることができるが、聾者が表した手話の読み取りは非常に難しい。
「手話の読み取り」とは、音声言語としての外国語で言えば、「聞き取り」に当たる。
一昨日、昔から知り合いの聾者が古河悠歩の会に新規に入会した。
聾の仲間に「悠歩の会」のことを聞いて入会したのかと思ったら、
私たちが駅などに集まっている様子を見て、余暇活動の1つとして興味を持ち、
先週、話を聞きに来たのだった。
今日になって気がついたのだが、このYさんの手話が、意外なことに読み取れていた。
読み取りの下手な私としては、不思議なことだった。
先ほどの「手話の文法」のことを考えている内に、気がついた。
Yさんは、先輩から手話を習うという、多くの聾者が辿る道を通っていない。
25年ほど前Yさんと知り合った頃、Yさん自身も片言の手話だった。
一般企業に勤めていて、ろうの仲間との付き合いはあまり無かったと思う。
その頃設立された「聴覚障害者協会」で聾者と知り合い、少しずつ手話を獲得した。
現在もその時の会社に勤めていて、聞こえる人との関わりの方が多いようだ。
会社でのやりとりは、筆談と身振り。聾者らしい手話は獲得していないのではないか。
私は、「聾者らしい手話」の読み取りは苦手なはずなので、
彼の手話が「読み取りやすい」ということは、Yさんの手話は「聾者らしい手話」でなく、
「聞こえる人の手話表現に近い」からではないのか。
つまり、日本語の文法に近い手話単語の並べ方をしているのではないか、
そんなことに気がついた。
ただ、多くの聾者の手話は、伝統的手話、聾者的手話を使うので、
「文法が基礎からわかる」というタイトルはとても興味深い。
手話の上手な人は、聾者との頻繁な交流から手話のエッセンス、文法を獲得し、
自分の手話技術を向上させている。
私は、聾者との交流に多くの時間を割くことが難しいので、この本で「日本手話のしくみ」
を知りたいと思い、さっそく注文した。
だが、手話には、手話や聾者に対する「センス」の良さも関係があると思う。
さらに、手話は、私たちの言葉と同じく、人間関係の中で育つ「言葉」だと思うので、
果たしてこの本が役にたつかどうか? あとで、報告したい。
12年ほど前、「都市観光」に関するシンポジウムに参加したことがある。
日本ウオーキング協会の前会長村山さんがパネリストとして出席していた。
その時村山さんが発言した内容に強い印象を受け、今でも折に触れ反芻している。
その内容は、下記の通り
古河は昔からお茶の町として栄えてきた。古河の町は猿島茶の集積地であり、
渡良瀬川・利根川の水運が利用されていた。
古河市には今でもお茶問屋や茶店が多い。城下町として史跡が多いので、
市外から訪れる人が多い。
町を散策する人に、古河の名産でもあるお茶を振る舞ったらどうか。
二つ目に、古河は篆刻の町であり、日本で唯一の「篆刻美術館」もある。
市内の史跡案内板に篆刻文字が使用されているのが目につく。
これをもっと拡大し、市内至る所の表示物に篆刻文字を使ったらどうか。
公共施設の施設名表示板、古河駅の表示、商店の店名表示等々、
あらゆる表示をすべて篆刻文字とする。
※駅構内にある案内所の表示が篆刻文字
市内各所にある史跡案内板①
史跡案内板②
これはかなり目立つと思う。
その作業には、市内で篆刻の学習をしているクラブなどの協力を得ても良い。
このように、お茶と名称表示で古河を訪れる人を出迎える。
一貫した古河市の出迎えの姿勢は、立派に「おもてなし」になると思う。
ここに私の発案である、「お休み処」の設置と「雪華」の「あしらい」を加える。
商店①
商店②
一般の家
※道路にあしらわれた「雪華」
市内銀行のシャッターにあしらわれた雪華模様
これらの「お休み処」を商店街だけでなく、一般家庭の協力者を得て、市内各所に設ける。
そこで、お茶の接待ができれば、市内回遊型観光を支える基盤づくりになると思う。
昨日、加須市から電話があり、先に提案した件に付、善処したとのこと。
先に、加須市にある看板の表記について、紛らわしいので善処してくれるよう申しいれていた。
「加須市板倉町」の看板を見て、埼玉県の加須市と、群馬県板倉町が合併したのかと思った。
善処したとの電話を受け、本日見に行ってきた。
「加須市・板倉町」となったことにより、誤解する人はいなくなるだろう。
群馬県の板倉町が合併して埼玉県になってしまうと、49.7㎞で5県を歩くという、計画が
実現不可能となる。つまり4県しか歩けなくなってしまう。
約50㎞だと、ウォーキング大会として魅力的な大会となる可能性がある。
もう何年も夢を見ていたが、来年こそは実現に向けて、動き出したい。