鷹見泉石の仕えた土井利位は、雪の殿様として有名である。墓は、正定寺にある。
雪の結晶の研究では、泉石が取り寄せた顕微鏡を使い、「雪華図説」を著した。
雪花の模様は、当時着物や身の回りの小物などにも取り入れられ、流行した。
また、大阪城代の時には、泉石が大塩平八郎の乱の鎮圧に当たった。
その意味では、無くてはならない部下であったことと思われる。
当時は「土井の鷹見か、鷹見の土井か」と言われるほどその能力を買われていたそうだ。
そんな働きの大きかった泉石の墓が、市内正麟寺にあるのを昨年初めて知った。
古河城のあった場所から遠く、城下の外れといった場所だ。
それだけに、どうして城に近く、または利位と同じ正定寺に葬られなかったのか。
そんなことを考えていると、能力の高かった泉石は、
実は利位からは疎まれていたのではないか、と思われてくる。
虚実織り交ぜて調べていくと、そんな推理小説が書けるのではないか。
この本が売れて、印税で暮らせるようになればいいなと、
この暑さに脳みそが暖まったせいか、つまらないことを考えている。
1800は、「いちはちまるまる」と読み、全国の市町村数を表している。
「健やか 爽やか ウオーク日本1800 歩いてニッポンを元気に」が正式なタイトル。
このタイトルの下、全国でウォーキング大会を展開し、環境への配慮、地域の活性化、
健康増進、世代を越えた交流と友好を図るとともに、明るく健全な社会づくりを目指す。
茨城県には、44市町村があり、本日は「ひたちなか市」、「東海村」を歩いた。
参加者は約110名。
県内各地のウォーキングクラブ、栃木、福島などからも参加があった。
熱中症対策のため、アイスや麦茶などが配られ、緊急車両も配備された。
水分の補給も重ねて呼びかけられた。
たいへん暑い日であったが、海風がときおり吹き、炎天下でもさほど不快でなかった。
この大会は、これまで歩く機会の少なかった市民にウォーキングを呼びかけ、
先の目標達成を目指すものである。
一般市民の参加者より、各ウォーキングクラブ員が44市町村完歩を目指す姿が目立つ。
このような取り組みを続け、競わないスポーツであるウォーキングを楽しむ市民が、
さらに増えていってほしい。
ごく最近知った言葉である。会議など組織的な意思決定を導くためのルールのこと。
いくつかの重要なルールに気がついた。
①少数意見の尊重のため、2名以上の動議は取り上げる
会議で、少数意見は無視されがちなので、一人でも異なった意見を持つ者がいる場合は、
同意する者を1名以上確保すれば、動議を認めることを、会の意思として表明する。
②決定した議案は再度掘り起こさない
会議での意思決定に異議がある場合、3分の2以上の賛同がなければ取り上げない。
民主的な手続きで決まったことは、会の意思として尊重すべきことを表明するものである。
③沈黙は、賛否を明らかにしていないのではなく、同意を意味する
会議に参加する者は、1票の権利を持っている。会議には、自覚的な参加が求められる。
手話を使って信用させる手口の悪質訪問販売の被害が後を絶たないことから、
自らが聴覚障害を持つ弁護士が講演会を開いたというニュースを見た。
聴覚障害者は、「情報障害者」とも言われるように、
絶対的な情報不足の状況に置かれている。
私たち聞こえる人にとって、自然に聞こえてくるさまざまな音による情報、
ラジオやテレビの音声、軽口の冗談、職場でやりとりされる何気ない情報のやりとり、
多くの職場における仕事上の指示、等々が、ほとんどリアルタイムに入ってこない。
聞こえないということは、このように「情報」が入ってこないということだ。
聞こえる人は、多くの情報の中から、取捨選択して自分の役に立てている。
3年以上前、花桃ウォークに手話通訳がつかなかった時の話。
ウォーキング大会の開会式に手話通訳を付けてくれという実行委員の要望に対し、
「開会式の挨拶(市長・来賓)なんか誰も聞いてませんよ」と、ときの担当者は言っていた。
こんな例がある。
2006年の「富士河口湖もみじマーチ」でのこと。
聾の知り合いがいたので一緒に歩いていると、猟友会の人が何人もコース上に立っていた。
コースも変更になっている。
他の歩いている人に聞くと、熊がコース付近に出るので、
危険なためコース変更したとのこと。
私も開会式に出ていたが、聾の仲間と話していたので説明を聞いていなかった。
この大会には、手話通訳は配置されていない。
手話通訳が配置されていても、手話を見なければ無いも同じだ。
しかし、情報が提供されるのと、されないのとではまったく違う。
もし、コース図だけを見て、変更前のコースを歩き、熊と遭遇したときのことを考えてほしい。
「市長や議員の挨拶」は、市長や来賓の参加者を迎える姿勢がわかるし、
参考になる話をすることもある。
聞く価値があるかないかは、聞く人が決めるものである。
どうせつまらない話ですよと、聞きたくても聞けない、聞こえない人に言うのか?
何とも傲慢な話である。
古河の花桃では、10年来、手話通訳設置の要望を無視され続けたので、禁じ手の、
「もう手伝いませんよ」という脅し文句を使ってしまった。
私は、少し手話ができるので、例会の出発式や、休憩、昼食時の説明を手話で伝達する。
それほど上手ではないが、無いよりはましである。必要最低限のことは伝えられていると思う。
手話を知らない人が、「手話が上手だ」と言ってくれるが、どうしてわかるのだろう。
私は、少しできるので。私の手話が「本当は下手」なことを知っているのだが…。
去年は、市の補助金を得る条件の1つとして、例会で健康や栄養に関する学習会を実施した。
管理栄養士や保健師の資格を持っている会員が学習会を担当してくれた。
今年のつくば国際では、看護師と保健師が、大会参加者の手当をしてくれた。
救急車への添乗などもしてくれたので、大会運営者としては心強かったと思う。
ウォーキングクラブは、最近では社会的活動にも目を向けるようになってきたが、
仕事外の活動であり、過去の社会的な立場からは切り離されたところでの活動だ。
しかし、先の例のように、会の活動に貢献できる技能や得意分野があれば、活用したい。
資格を伴うものでなくても、他の人は持っていないような「得手」で良い。
会員の「得手」を積極的に会活動に提供してもらいたいし、活用したいと思っている。
江戸っ子は、「二本差しが怖くて田楽が食えるか」と強がりを言い、
二本差しは、「武士は食わねど高楊枝」と、やせ我慢をする。
エックス線は、何度も浴びることを避ける。
妊婦はできるだけ浴びないようにするというのは常識とされている。
原発は、国策として推進され、教育の場でも、クリーンなエネルギーとして教えられてきた。
その裏に、嘘が混じっていたのは、戦時中、国策で推進された情報操作にも通じるか。
さて、食物や水、土地の放射能汚染に、どう対応していけばよいのか?
報道を見る限り、よくわからない。
何らかの配慮をして、結果として国民を欺いているのか?
一部の専門家は、それなりの警報を何年も前から出しているようだが、
ではどうしたらよいのかは、わからないという段階ではないのか?
古河っ子としては、「放射能が怖くて、古河に住んでられっかい」というところか。
二十歳の頃読んでから、長い間、好きな小説の筆頭にあげていたのは「人間の條件」だった。
長い小説だが、3度くらい読んだ。
映画も2度、テレビ(再放送)やLD(レーザーディスク)でも何度も観た。
映画は六部作で、連続して観ると土曜の夜10時から翌日の朝6時まで8時間くらいかかった。
間に休憩が挟まるが腰が痛くなった。
映画では、仲代達也が主演、テレビは加藤剛だった。
小説を読んでの印象としては加藤剛が良かった。
どこが好きだったのか。学生時代は、主人公の妻が「理想の妻」像として、友人と納得し合った。
理想に燃える若者としては、自分の人間性を試される場面で、いかに人間らしい選択をするか。
スーパーマンのように真正面から正義を貫くのでなく、苦悩しながらも「人間であろうとする」
主人公に共感した。
社会人になってからもそのような生き方がしたいと話し合った友人は、ヘルメットをかぶった。
今その彼は、千葉で介護事業所をやっている。
顧みて自分はどうだろうか。
映画や本を、断続的にだが観たり読んだりしたのは40歳くらいまで。最後に映画を観てから、20年が過ぎている。
今でも、恥ずかしくない生き方をしたいと思っている。
誰に対して? 自分に? 友人に?
だが、最近は、愛読書の筆頭にあげることはしなくなった。
不便になったと思う人もいる。
古河市は城下町だからといって良いのかどうかわからないが、殿様商法を通す店がある。
一番マイナスなのは、横柄な態度だろう。次に、知り合いには優しく、
一見の客には手を抜いた対応をする店がある。
イベントなどでは、即効性のみを求め、長い目で見た集客、リピーター対策をとらない。
なぜ、このような商売が、長い間同じマイナス面を指摘されながらも続くのだろう。
また、町に対する愛着が少ないのではないかと思われる節もある。
(意味もなく偉い)殿様が居た、古いままの町というのは、
殿様にだけいい顔をする習性を残してしまったのだろうか。
大阪や東京などの大都市では、大きな変革の波に洗われて、
変わらざるを得なかったのだろうか。
ほとんど若い人でやっているコンビニは、マニュアル通りにやっている。
テープを回す代わりに、人間がやっているかのような客への声かけは、
騒音公害と言いたくなる。
観光地などで、相手が一見の客であることが多いところなら仕方がないが、
私のようにコピーその他で毎日利用している者としては、あの声かけはうるさいだけである。
コンビニは利便性だけで利用することが多いので、利用する店は固定するので避けようがない。
悪気がないのは感じられるだけに、かわいそうな気もする。
コンビニという業態がさせるのか。
(安い労働力である)若者を使う店としては、マニュアルで縛るのが手っ取り早いのか。
それでも、旧来の店がコンビニに転業したところは、
客への対応は変わらないから、これはこれでかわいそうな気もする。
マニュアルを無視しているんだろうな。
静かなところだけは良いのだが…
「郵便振替口座」を開設すると、送金金額にかかわらず一律15円だった。
地元の郵便局に申し込む際、どうして口座を開設するのかなどと、煩いことを言われた。
個人ではあまり利用しないかららしい。少々面倒だったが、背に腹は替えられず、
手続き方を教わりながら口座を開設した。ところが「郵貯銀行」に移行すると、
このサービスが打ちきりになってしまった(平成19年10月1日以降)。
移行措置として、1年間、口座間振替が無料となった。
しかし、詳しい理由はわからないが今でも無料措置が続いている。
今回調べたところ、2011年9月30日で終了してしまうらしい。
「古河悠歩の会」でも同様の口座を開設した。送金無料は無くなってしまうが、
遠方の会員から会費などを振り込んでもらうためにこれからも利用できる。
この「口座間振り込み」は相手が郵貯銀行の口座を持っていれば使えるので、
たいへん便利に使ってきた。本日もシルバー人材センターへの払い込みに使用した。
ただ、細かなデータが送信できないので、何らかの方法で、送ったこと、その内容などを、
連絡しなくてはならない。メールが利用できるところには電話やファックスは利用しない。
最低でも10円かかるからだ。
大会への参加申込の場合、住所、氏名、年齢、参加距離、等々を連絡しなくてはならない。
その場合、メールがなければ、ファックスで連絡する。これまでまったく問題はなかった。
年金暮らしになると、好き勝手な買い物をしている割には、節約できるところは工夫している。
カード類や、ポイントなども面倒でないかぎり利用している。
私の場合、お金の節約は良いが、筋力の出し惜しみをしているのが問題だ!!
どれも現役で使われている。他に非電波時計が8~10くらいある。
非電波時計は、1~5分くらい狂っていても、そのまま使っている。
あぁ、こいつは何分遅れだ、こっちはだいたい合っている、などと適当に付き合っている。
私は電波時計が好きだ。ラジオの時報と同時に長針が0に動くと嬉しくなる。
嬉しさの元は、正確な時間を(自分が)管理している(気分になれる)ことにあると思う。
古河市周辺は旧猿島地区であり、時間にルーズな地域性から「猿島時間」と言われている。
私は電波時計が好きなくらいだから、正確な時間で動く習性を持っているが、
時折遅刻することはある。ただ、時間に対する「構え」は、ルーズではないつもりである。
敬愛する住井すゑさんは、人間に平等に与えられているのは「時間」だと、よく言っていた。
戦前は神であった人も、私も、住井さんも、時間の前では平等だ。
その考え方を支持している。
今日の朝日新聞に「放射能の時間、人間の時間」というコラムがあった。
放射能と言っても、すべてが同じではないだろうが、「毒性が弱まるまでの時間」が、
物によっては一万年、300世代を要するという。(米国エネルギー省が想定した数値)
地下に埋められた放射性廃棄物は、
たとえ百年でもどこに埋めたかわからなくなってしまうのではないだろうか。
「原子力」の問題は、(厚生)年金問題と似て(信じたくはないが)、
「あとは野となれ山となれ」の世界のようだ。
「原子力」の後始末を、一万年も管理し続けることができるだろうか。
ほんの数年前に埋められた何かの「管」を掘削して破損するのが私たち人間だ。
人間が進化し、放射能と共存できる生命体になることしか生存の道はないのかもしれない。
「旅の恥はかき捨て」ならぬ、「人間生存の恥はかき捨て」としてはいけない。
同じく本日の「天声人語」には、ストラディバリウスの話が載っていた。
作られてから300年を経過する名器は、世界に600丁ある。
千住真理子さんは、億の借金をしてスイスの富豪から手に入れたそうだ。
試しに弾いてみて、このように言っている。
「小手先の技術は通じない。狙った音がなかなか出ず、これまで演奏してきた音楽は無いも同じと覚悟しました」
バイオリンの「時」に立ち向かう音楽家、原子力の「時」に立ち向かう人間、いずれも相手は容易ならざるものだ。