岸和田城
2013/7/13
大阪府岸和田市のお城めぐり
岸和田藩主、岡部氏の居城
≪ お城の概要 ≫
城名: 岸和田城
よみ: キシワダ
別称: 岸ノ和田城・膝城・蟄亀利城・猪伏山城
所在地: 大阪府岸和田市岸城町9-1
現状: 千亀利公園
築城年代: 応永年間(1394-1428)頃
築城者: 信濃泰義
形式: 平城
遺構: 本丸・二の丸・復興天守・小天守・多聞櫓・隅櫓・櫓門・二の丸多聞櫓・伏見櫓跡・石垣・内堀・防潮石垣
規模: 約400m×約700m、面積約17ha
文化財: 府指定史跡
訪城日: 2012/9/23・2013/7/13
≪ 訪城記 ≫
自宅を出て大阪府岸和田城へ向かう。
阪神高速4号湾岸線岸和田南ICで降りて地蔵浜北信号を右折、阪神高速の高架下をくぐり大きく右に曲がり大北町北三叉路信号を右折、南東へ進み堺町交差点信号を斜めに右折、道なりに左に曲がって岸和田本町信号を左折、岸和田市役所前を通って右折、道なりに南西に進みクランクの先に内堀と岸和田城がある。岸和田城の内堀南角を左折すると道の南側に市役所第4有料駐車場がある。ここに車を駐車する。
駐車場から内堀を眺め、内堀沿い多聞櫓と隅櫓を見ながら櫓門前の橋を渡り、櫓門をくぐって北側の通路を通って復興天守閣前へ、綺麗なお城がすばらしいです。前庭には「八陣の庭」、小天守入口から入り、城内を見学、入場料300円です。天守展望台から「八卦の庭」がよく見えます。
櫓門を出て内堀沿いに南側から一周して、東側の岸和田高校前から見る岸和田城天守閣は素晴らしいです。
石垣は一部補修されている場所が良く分かり、濃淡のコントラストが雰囲気を醸し出していて、広い内堀と相まって綺麗です。
西側が二の丸跡で北東隅に二の丸多聞櫓、北西隅が伏見櫓跡、南西隅に心技館、二の丸の内堀沿いに歩き、石垣を堪能しました。
北東側の石垣は何度か拡張された跡が残っています。
二の丸西側内堀沿いの道から一本西の紀州街道へ出て、圓成寺の北側の路地を西へ三つ目の辻を南へ約50m行った児童公園北側に防潮石垣が残っています。
≪ 歴 史 ≫
永和四年 (1378) 和泉守護山名氏清が和田氏の一族、信濃泰義を岸和田の地に置き、岸和田古城から岸和田城の地に移す。
応永十五年 (1408) 和泉半国守護細川頼長が岸和田城に入る。
永享元年 (1429) 泰義の嫡子泰連が和田氏を名乗り在城する。
嘉吉元年 (1441) 泰連の嫡子義明が岸和田氏を名乗り在城する。
宝徳二年 (1450) 義明の弟義基が泉州守護代として在城する。
長享二年 (1488) 岸和田根城が根来方の津田城左衛門の攻撃を受け落城。
明応九年 (1500) 和泉守護細川元有が畠山尚順らに攻められ岸和田城で敗死する。この頃、松浦肥前守が守護代として在城する。
永禄元年頃 (1558) 三好勢の三好義賢、十河一存、安宅冬康が岸和田城に籠城して根来、畠山勢と戦っている。
永禄五年 (1562) 久米田合戦で三好義賢が敗死して、畠山勢に城を開け渡し、畠山勢の細川刑部大輔は入ったが、すぐに三好勢が奪還して松浦肥前守を入れている。
永禄十一年 (1568) 織田信長が将軍足利義昭を奉じて上洛し、岸和田城の松浦氏も信長に帰順している。
天正三年 (1575) 松浦肥前守の家老寺田又右衛門、安太夫兄弟が岸和田城代となる。
天正四年 (1576) 石山本願寺へ兵糧入れをした毛利勢の水軍と木津川口で和泉衆水軍が戦い、大敗している。この戦いで岸和田城勢の水軍も戦っている。その後、天正十年までに堀久太郎、蜂屋兵庫助らが城番を務めている。
天正十年 (1582) 本能寺の変直前まで鈴木孫市が在城したらしい。
天正十一年 (1583) 羽柴秀吉は中村一氏を岸和田城に配する。
天正十二年 (1584) 小牧・長久手合戦の留守を狙って雑賀、根来衆が蜂起し岸和田合戦が行われる。
天正十三年 (1585) 秀吉が雑賀、根来攻撃に岸和田城へ入る。根来攻略の後、小出秀政を岸和田城主とする。
慶長二年 (1597) 天守閣が竣工する。
慶長九年 (1604) 小出吉政が襲封。
慶長十九年 (1614) 大坂冬の陣で小出吉英に添えて松平信吉を岸和田城に置いている。のち松平信吉に替えて北条氏重を置いている。
元和元年 (1615) 大坂夏の陣で小出吉英は小出吉親、伊藤治明と岸和田城を固める。
元和五年 (1619) 小出吉英が出石へ転封となり、代わって篠山から松平康重が入る。
元和九年 (1623) 伏見城が取り壊され、櫓、門などが岸和田城へ移される。
寛永十七年 (1640) 松平康映が播磨山崎へ転封となり、代わって高槻から岡部宣勝が入る。
文政十年十一月二十日 (1827) 落雷により天守閣を焼失する。
岡部氏十三代で明治維新を迎える。
昭和二十九年 (1954) 天守閣が復興される。
≪ 写 真 ≫
本丸多聞櫓・隅櫓
南側の内堀
岸和田城入口正面
復興大天守・小天守
天守閣展望台からの八陣の庭
東側からの岸和田城
北東側からの岸和田城
北東側からの天守閣
東側からの天守閣
北側の内堀
東側の内堀
二の丸跡
二の丸西側の内堀
二の丸石垣と心技館
二の丸伏見櫓跡石垣
防潮石垣
二の丸北側の石垣
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
南海電気鉄道南海本線蛸地蔵駅から徒歩約10分。
<車>
阪神高速4号湾岸線岸和田南ICで降りて地蔵浜北信号を右折、阪神高速の高架下をくぐり大きく右に曲がり大北町北三叉路信号を右折、南東へ進み堺町交差点信号を斜めに右折、道なりに左に曲がって岸和田本町信号を左折、岸和田市役所前を通って右折、道なりに南西に進みクランクの先に内堀と岸和田城がある。岸和田城の内堀南角を左折すると道の南側に市役所第4有料駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
岸和田城(千亀利公園)
防潮石垣
紹介したお城の数 102城
2013/7/13
大阪府岸和田市のお城めぐり
岸和田藩主、岡部氏の居城
≪ お城の概要 ≫
城名: 岸和田城
よみ: キシワダ
別称: 岸ノ和田城・膝城・蟄亀利城・猪伏山城
所在地: 大阪府岸和田市岸城町9-1
現状: 千亀利公園
築城年代: 応永年間(1394-1428)頃
築城者: 信濃泰義
形式: 平城
遺構: 本丸・二の丸・復興天守・小天守・多聞櫓・隅櫓・櫓門・二の丸多聞櫓・伏見櫓跡・石垣・内堀・防潮石垣
規模: 約400m×約700m、面積約17ha
文化財: 府指定史跡
訪城日: 2012/9/23・2013/7/13
≪ 訪城記 ≫
自宅を出て大阪府岸和田城へ向かう。
阪神高速4号湾岸線岸和田南ICで降りて地蔵浜北信号を右折、阪神高速の高架下をくぐり大きく右に曲がり大北町北三叉路信号を右折、南東へ進み堺町交差点信号を斜めに右折、道なりに左に曲がって岸和田本町信号を左折、岸和田市役所前を通って右折、道なりに南西に進みクランクの先に内堀と岸和田城がある。岸和田城の内堀南角を左折すると道の南側に市役所第4有料駐車場がある。ここに車を駐車する。
駐車場から内堀を眺め、内堀沿い多聞櫓と隅櫓を見ながら櫓門前の橋を渡り、櫓門をくぐって北側の通路を通って復興天守閣前へ、綺麗なお城がすばらしいです。前庭には「八陣の庭」、小天守入口から入り、城内を見学、入場料300円です。天守展望台から「八卦の庭」がよく見えます。
櫓門を出て内堀沿いに南側から一周して、東側の岸和田高校前から見る岸和田城天守閣は素晴らしいです。
石垣は一部補修されている場所が良く分かり、濃淡のコントラストが雰囲気を醸し出していて、広い内堀と相まって綺麗です。
西側が二の丸跡で北東隅に二の丸多聞櫓、北西隅が伏見櫓跡、南西隅に心技館、二の丸の内堀沿いに歩き、石垣を堪能しました。
北東側の石垣は何度か拡張された跡が残っています。
二の丸西側内堀沿いの道から一本西の紀州街道へ出て、圓成寺の北側の路地を西へ三つ目の辻を南へ約50m行った児童公園北側に防潮石垣が残っています。
≪ 歴 史 ≫
永和四年 (1378) 和泉守護山名氏清が和田氏の一族、信濃泰義を岸和田の地に置き、岸和田古城から岸和田城の地に移す。
応永十五年 (1408) 和泉半国守護細川頼長が岸和田城に入る。
永享元年 (1429) 泰義の嫡子泰連が和田氏を名乗り在城する。
嘉吉元年 (1441) 泰連の嫡子義明が岸和田氏を名乗り在城する。
宝徳二年 (1450) 義明の弟義基が泉州守護代として在城する。
長享二年 (1488) 岸和田根城が根来方の津田城左衛門の攻撃を受け落城。
明応九年 (1500) 和泉守護細川元有が畠山尚順らに攻められ岸和田城で敗死する。この頃、松浦肥前守が守護代として在城する。
永禄元年頃 (1558) 三好勢の三好義賢、十河一存、安宅冬康が岸和田城に籠城して根来、畠山勢と戦っている。
永禄五年 (1562) 久米田合戦で三好義賢が敗死して、畠山勢に城を開け渡し、畠山勢の細川刑部大輔は入ったが、すぐに三好勢が奪還して松浦肥前守を入れている。
永禄十一年 (1568) 織田信長が将軍足利義昭を奉じて上洛し、岸和田城の松浦氏も信長に帰順している。
天正三年 (1575) 松浦肥前守の家老寺田又右衛門、安太夫兄弟が岸和田城代となる。
天正四年 (1576) 石山本願寺へ兵糧入れをした毛利勢の水軍と木津川口で和泉衆水軍が戦い、大敗している。この戦いで岸和田城勢の水軍も戦っている。その後、天正十年までに堀久太郎、蜂屋兵庫助らが城番を務めている。
天正十年 (1582) 本能寺の変直前まで鈴木孫市が在城したらしい。
天正十一年 (1583) 羽柴秀吉は中村一氏を岸和田城に配する。
天正十二年 (1584) 小牧・長久手合戦の留守を狙って雑賀、根来衆が蜂起し岸和田合戦が行われる。
天正十三年 (1585) 秀吉が雑賀、根来攻撃に岸和田城へ入る。根来攻略の後、小出秀政を岸和田城主とする。
慶長二年 (1597) 天守閣が竣工する。
慶長九年 (1604) 小出吉政が襲封。
慶長十九年 (1614) 大坂冬の陣で小出吉英に添えて松平信吉を岸和田城に置いている。のち松平信吉に替えて北条氏重を置いている。
元和元年 (1615) 大坂夏の陣で小出吉英は小出吉親、伊藤治明と岸和田城を固める。
元和五年 (1619) 小出吉英が出石へ転封となり、代わって篠山から松平康重が入る。
元和九年 (1623) 伏見城が取り壊され、櫓、門などが岸和田城へ移される。
寛永十七年 (1640) 松平康映が播磨山崎へ転封となり、代わって高槻から岡部宣勝が入る。
文政十年十一月二十日 (1827) 落雷により天守閣を焼失する。
岡部氏十三代で明治維新を迎える。
昭和二十九年 (1954) 天守閣が復興される。
≪ 写 真 ≫
本丸多聞櫓・隅櫓
南側の内堀
岸和田城入口正面
復興大天守・小天守
天守閣展望台からの八陣の庭
東側からの岸和田城
北東側からの岸和田城
北東側からの天守閣
東側からの天守閣
北側の内堀
東側の内堀
二の丸跡
二の丸西側の内堀
二の丸石垣と心技館
二の丸伏見櫓跡石垣
防潮石垣
二の丸北側の石垣
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
南海電気鉄道南海本線蛸地蔵駅から徒歩約10分。
<車>
阪神高速4号湾岸線岸和田南ICで降りて地蔵浜北信号を右折、阪神高速の高架下をくぐり大きく右に曲がり大北町北三叉路信号を右折、南東へ進み堺町交差点信号を斜めに右折、道なりに左に曲がって岸和田本町信号を左折、岸和田市役所前を通って右折、道なりに南西に進みクランクの先に内堀と岸和田城がある。岸和田城の内堀南角を左折すると道の南側に市役所第4有料駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
岸和田城(千亀利公園)
防潮石垣
紹介したお城の数 102城
ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり! | |
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄 | |
西東社 |