丸岡城
2014/4/12
福井県坂井市のお城めぐり
柴田勝家の甥勝豊が築いた現存最古の天守を持つお城 現存12天守 日本100名城
≪ お城の概要 ≫
城名: 丸岡城
よみ: マルオカ
別称: 霞ヶ城
所在地: 福井県坂井市丸岡町霞町1丁目59
現状: 霞ヶ城公園
築城年代: 天正四年(1576)
築城者: 柴田勝豊
形式: 平山城
遺構: 現存天守閣・天守台・本丸・石垣・井戸
規模: 約890m×1,090m、標高約17m
文化財: 国指定重要文化財
訪城日: 2010/8/20・2011/11/29・2014/4/12
≪ 訪城記 ≫
自宅から丸岡城へ向かう。
北陸道丸岡ICで降りて丸岡インター入口交差点信号を右折、県道17号を約1.3km北上した霞幼保園角の交差点信号を左折、約150m西進すると丸岡城で手前の一筆啓上茶屋前に駐車場がある。この駐車場は土日にはバス専用駐車場となり、乗用車は図書館角の信号を北へ約100m行った道の東側に第二駐車場に駐車可能。
一筆啓上茶屋西側の小高い丘が本丸跡で南側に現存天守がある。本丸へ登る道を上がると北に広がる本丸跡でちょうど桜まつりを行っていて人が多かったが、桜は満開で古い天守とよく合って華やかです。
天守閣入口で入場券を購入して入る。天守閣は二重三階の小さいが古風な姿は立派なものです。おもわずため息が出ます。
天守台石垣西面に一筆啓上の日本一短い手紙の碑、天守閣登口階段前に石でできた鯱があり、内部を見学、急な階段、破風を利用した狭い部屋、笏谷石の瓦を使った屋根に驚きました。入場料300円。
天守閣南側には雲の井竜神、井戸、東側には人柱になったお静慰霊碑がある。
南側の階段登り口に霞ヶ城趾碑、茶屋の南に歴史民俗資料館がある。
丸岡城の詳細は ……… ここをクリック
≪ 歴 史 ≫
天正三年 (1575) 織田信長は越前の一向一揆を平定した功で、柴田勝家に越前を与え、甥で養子の柴田伊賀守勝豊に豊原を北庄城の支城として治めさせた。
天正四年 (1576) 城を丸岡の地に移し築城する。
天正十年 (1582) 清洲会議で勝豊が長浜城主となり、丸岡城には家臣安井家清が在番する。
天正十一年 (1583) 賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家が滅び、丸岡城は丹羽長秀の臣青山伊賀守宗勝、修理大夫忠元父子の居城となる。
慶長六年 (1601) 越前に結城秀康が入り、丸岡城は秀康の臣今村掃部盛次の居城となる。
慶長十八年 (1613) 本多飛騨守成重が丸岡城主となる。以後、重能、重昭、重益と続く。
元禄八年 (1695) 御家騒動から領地没収となり、越後糸魚川から有馬清純が入る。以後、一準、孝純、允純、誉純、徳純、温純、道純と続き、明治維新を迎え土地、建物は民間に払い下げされる。
明治三十四年 (1901) 天守の所有者から丸岡町に寄付される。
昭和九年 (1934) 天守が国宝の指定を受ける。
昭和十六年 (1941) 天守の解体修理が行われる。
昭和二十三年 (1948) 福井地震によって倒壊する。
昭和二十九年 (1954) 復興修理が行われ、国指定重要文化財に指定される。
≪ 写 真 ≫
丸岡城現存天守閣
天守閣
登り口からの天守閣
南東側からの天守閣
お静慰霊碑
井戸
南面の石垣
南側からの天守閣
雲の井竜神
一筆啓上の碑
石製の鯱
本丸跡
西側通路の石垣
霞ヶ城趾碑
南面登り口
南からの丸岡城
歴史民俗資料館
北からの丸岡城
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR北陸本線福井駅から京福バスで丸岡城下車すぐ。
<車>
北陸道丸岡ICで降りて丸岡インター入口交差点信号を右折、県道17号を約1.3km北上した霞幼保園角の交差点信号を左折、約150m西進すると丸岡城で手前の一筆啓上茶屋前駐車場と図書館角の信号を北へ約100m行った道の東側に第二駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
丸岡城(霞ヶ城公園)
紹介したお城の数 202城
2014/4/12
福井県坂井市のお城めぐり
柴田勝家の甥勝豊が築いた現存最古の天守を持つお城 現存12天守 日本100名城
≪ お城の概要 ≫
城名: 丸岡城
よみ: マルオカ
別称: 霞ヶ城
所在地: 福井県坂井市丸岡町霞町1丁目59
現状: 霞ヶ城公園
築城年代: 天正四年(1576)
築城者: 柴田勝豊
形式: 平山城
遺構: 現存天守閣・天守台・本丸・石垣・井戸
規模: 約890m×1,090m、標高約17m
文化財: 国指定重要文化財
訪城日: 2010/8/20・2011/11/29・2014/4/12
≪ 訪城記 ≫
自宅から丸岡城へ向かう。
北陸道丸岡ICで降りて丸岡インター入口交差点信号を右折、県道17号を約1.3km北上した霞幼保園角の交差点信号を左折、約150m西進すると丸岡城で手前の一筆啓上茶屋前に駐車場がある。この駐車場は土日にはバス専用駐車場となり、乗用車は図書館角の信号を北へ約100m行った道の東側に第二駐車場に駐車可能。
一筆啓上茶屋西側の小高い丘が本丸跡で南側に現存天守がある。本丸へ登る道を上がると北に広がる本丸跡でちょうど桜まつりを行っていて人が多かったが、桜は満開で古い天守とよく合って華やかです。
天守閣入口で入場券を購入して入る。天守閣は二重三階の小さいが古風な姿は立派なものです。おもわずため息が出ます。
天守台石垣西面に一筆啓上の日本一短い手紙の碑、天守閣登口階段前に石でできた鯱があり、内部を見学、急な階段、破風を利用した狭い部屋、笏谷石の瓦を使った屋根に驚きました。入場料300円。
天守閣南側には雲の井竜神、井戸、東側には人柱になったお静慰霊碑がある。
南側の階段登り口に霞ヶ城趾碑、茶屋の南に歴史民俗資料館がある。
丸岡城の詳細は ……… ここをクリック
≪ 歴 史 ≫
天正三年 (1575) 織田信長は越前の一向一揆を平定した功で、柴田勝家に越前を与え、甥で養子の柴田伊賀守勝豊に豊原を北庄城の支城として治めさせた。
天正四年 (1576) 城を丸岡の地に移し築城する。
天正十年 (1582) 清洲会議で勝豊が長浜城主となり、丸岡城には家臣安井家清が在番する。
天正十一年 (1583) 賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家が滅び、丸岡城は丹羽長秀の臣青山伊賀守宗勝、修理大夫忠元父子の居城となる。
慶長六年 (1601) 越前に結城秀康が入り、丸岡城は秀康の臣今村掃部盛次の居城となる。
慶長十八年 (1613) 本多飛騨守成重が丸岡城主となる。以後、重能、重昭、重益と続く。
元禄八年 (1695) 御家騒動から領地没収となり、越後糸魚川から有馬清純が入る。以後、一準、孝純、允純、誉純、徳純、温純、道純と続き、明治維新を迎え土地、建物は民間に払い下げされる。
明治三十四年 (1901) 天守の所有者から丸岡町に寄付される。
昭和九年 (1934) 天守が国宝の指定を受ける。
昭和十六年 (1941) 天守の解体修理が行われる。
昭和二十三年 (1948) 福井地震によって倒壊する。
昭和二十九年 (1954) 復興修理が行われ、国指定重要文化財に指定される。
≪ 写 真 ≫
丸岡城現存天守閣
天守閣
登り口からの天守閣
南東側からの天守閣
お静慰霊碑
井戸
南面の石垣
南側からの天守閣
雲の井竜神
一筆啓上の碑
石製の鯱
本丸跡
西側通路の石垣
霞ヶ城趾碑
南面登り口
南からの丸岡城
歴史民俗資料館
北からの丸岡城
≪ アクセス ≫
<公共交通機関>
JR北陸本線福井駅から京福バスで丸岡城下車すぐ。
<車>
北陸道丸岡ICで降りて丸岡インター入口交差点信号を右折、県道17号を約1.3km北上した霞幼保園角の交差点信号を左折、約150m西進すると丸岡城で手前の一筆啓上茶屋前駐車場と図書館角の信号を北へ約100m行った道の東側に第二駐車場がある。
≪ 位置図 ≫
丸岡城(霞ヶ城公園)
紹介したお城の数 202城
日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ) | |
福代徹,日本城郭協会 | |
学習研究社 |
別冊歴史REAL 空撮で甦る現存天守12城 (洋泉社MOOK) | |
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