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鎌掛城

2014-08-01 05:30:30 | 滋賀県
 鎌掛城

2014/6/15

滋賀県日野町のお城めぐり

 叔父蒲生高郷との家督争いに敗れた蒲生秀紀が音羽城から移った居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 鎌掛城
よみ: カイガケ
別称: 山屋敷
所在地: 滋賀県蒲生郡日野町鎌掛
現状: 山
築城年代: 南北朝時代あるいは十六世紀初頭
築城者: 中野左衛門尉清信
形式: 山城
遺構: 曲輪・土塁・堀切・横堀・井戸・山屋敷主郭・土塁・堀
規模: 標高374m
文化財:
訪城日: 2014/6/15


≪ 訪城記 ≫

自宅から鎌掛城へ向かう。

自宅を出て国道8号を南下、彦根市に入り外町交差点信号を左折、国道306号を名神高速彦根IC方向へ向かい、名神高速に乗らず、そのまま道なりに国道306号を南下、多賀交差点信号を直進、国道307号を南下、日野町に入り日田交差点信号を直進、日野水口グリーンバイパスへ入り日野川を渡った信号のある三叉路を左折、日野川沿いに約3.2km南東へ進み道が大きく右に曲がった県道182号に出る突き当りの三叉路を左折して県道182号を約1km北東に進んだところの道の右側に正法寺があり、正法寺案内板のある三叉路を右折して正法寺東側の駐車場に車を駐車する。

正法寺から徒歩で県道182号に出て左折、すぐの屏風岩案内板のある三叉路を右折、林道に入り道の左側の砂防ダムを渡った尾根の突出部にあたる山林の中に山屋敷があり主郭、曲輪、土塁、堀が残る。
この山屋敷の伝大手道を登って鎌掛城を目指す。
しかし、道はなくただひたすら直登して右の尾根に出て、尾根沿いに登り、段々になった腰郭と堀切を越え、岩肌をよじ登って次の尾根を進み堀切を越えた先が頂上の主郭のようです。岩肌付近は非常に危険を感じるところです。
主郭に入ると周囲に土塁が巡り、東に傾斜しています。東に進むと二の丸のようで、竪堀群が見られ、左側に続く竪堀を降りていくと石積の井戸がしっかり残っています。さらに主郭の北側には段々の曲輪群が見られます。
山屋敷から主郭まで約40分です。
下山時には道に迷ってしまい南側の急斜面を降りてしまって行き場を失ってしまいましたが、沢を見つけて沢底を降りて林道までなんとか出られました。


≪ 歴 史 ≫

南北朝j時代に中野左衛門尉清信が砦を築いたと伝わる。
文亀二年(1502)頃、蒲生秀行が修築、家臣武村伯耆守重綱に守備させる。
大永三年 (1523) 叔父蒲生高郷との家督争いに敗れた蒲生藤兵衛尉秀紀が音羽城を退去して鎌掛城に入る。
大永五年十二月十四日 (1525) 蒲生秀紀が毒殺され、内紛に決着がつく。
天正十二年 (1584) 蒲生賦秀(氏郷)に家督を譲り、山屋敷に隠居した父蒲生賢秀が死去する。
天正十三年 (1585) 蒲生賦秀(氏郷)が伊勢松ヶ島に移封となり、廃城となったようです。


≪ 写 真 ≫


鎌掛城全景


頂上の本郭付近


二の丸付近


二の丸付近の土塁


二の丸付近の横堀


石積井戸


井戸内部


北側の二段目腰曲輪と土塁


北側の二段目腰曲輪


北側の一段目腰曲輪


北側の一段目腰曲輪の土塁


伝大手道


山屋敷主郭


大手道の堀切


大手道の腰曲輪


山屋敷の土塁と横堀


山屋敷の曲輪


山屋敷の土塁


砂防ダムから山屋敷への入口


鎌掛城への登城口

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
近江鉄道本線日野駅からバスで鎌掛バス停下車、徒歩約10分で登城口。
<車>
新名神高速甲南ICを降りて広域農道を北上、新治口交差点信号を左折、広域農道を北西へ進み、杉谷南交差点信号を右折、県道132号を北上、途中県道49号に代わり矢川橋東三叉路交差点信号を左折、杣川沿いを北上、庚申口交差点信号を右折、国道307号近江グリーンロードを北上、雨引神社角の信号のある三叉路を右折、日野川沿いに約3.2km南東へ進み道が大きく右に曲がった県道182号に出る突き当りの三叉路を左折して県道182号を約1km北東に進んだところの道の右側に正法寺があり、正法寺案内板のある三叉路を右折して正法寺東側の駐車場に駐車すると良い。


≪ 位置図 ≫

鎌掛城


山屋敷


紹介したお城の数 245城



近江の山城ベスト50を歩く
中井 均
サンライズ出版




近江城郭探訪―合戦の舞台を歩く
滋賀県教育委員会
滋賀県文化財保護協会