お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

観音寺山城

2013-05-18 08:21:25 | 兵庫県
 観音寺山城

2013/4/28 但馬遠征(2泊3日)

兵庫県朝来市のお城めぐり

 竹田城の出城

≪ お城の概要 ≫

城名: 観音寺山城
よみ: カンノンジヤマ
別称:
所在地: 兵庫県朝来市和田山町竹田
現状: 山
築城年代:
築城者:
形式: 山城
遺構: 曲輪・石垣の石・竪堀
規模: 標高313m
文化財:
訪城日: 2013/4/28


≪ 訪城記 ≫

但馬遠征(2泊3日)  2日目、竹田城の北千畳石垣下から出城の観音寺山城へ向かう。

ホテルを出て国道312号を南下、宮越三叉路信号を左折、国道312号山陰道のままさらに南下、上野南三叉路信号を斜めに左折、国道9号山陰道を南下、和田山トンネル、新和田山トンネルを通過して円山川を渡り、一本柳交差点信号を右折、国道312号を南西方向に進み播但連絡有料道路を通過して、竹田城への案内板のある加都交差点信号を右折、円山川を渡り、この辺りから山頂にそびえる竹田城の石垣が良く見える。県道136号を西進して、もう一度播但連絡有料道路の下をくぐった、すぐの案内板のある三叉路を斜め左に山の方へ進む、「山城の郷」へは入らず、そのまま道なりに山へ入って行くと第2駐車場、さらに進むと第1駐車場がある。

壮大な竹田城の石垣を堪能して大手道の登り途中にある北千畳石垣下の分かれ道を石垣沿いに歩き、東へ尾根伝いに約10分行くと「観音寺山」と書かれた説明板が主郭と思われる頂上下にある場所が観音寺山城です。
頂上に削平された東へ2段の曲輪、その東下にもう1段曲輪が見られ、南側斜面に竪堀も見られる。
この周辺に石垣跡と思われる石が散在している。


≪ 歴 史 ≫

竹田城が石垣造の城に変えられた同時期に築城された出城のようです。

≪ 写 真 ≫


観音寺山山頂


山頂の削平地


山頂の2段の削平地


竪堀


山頂下の曲輪と散在する石垣の石


竹田城の北千畳から見る観音寺山城

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR播但線竹田駅下車、徒歩約50分。
<車>
播但連絡有料道路和田山ICを降りて国道312号を南へ進み、竹田城への案内板のある加都交差点信号を右折、円山川を渡り、この辺りから山頂にそびえる竹田城の石垣が良く見える。県道136号を西進して、もう一度播但連絡有料道路の下をくぐった、すぐの案内板のある三叉路を斜め左に山の方へ進む、「山城の郷」へは入らず、そのまま道なりに山へ入って行くと第2駐車場、さらに進むと第1駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

観音寺山城


北千畳石垣下の分かれ道


紹介したお城の数 63城



城めぐりがもっと楽しくなる!お城の地図帳 (タツミムック)
クリエーター情報なし
辰巳出版

竹田城

2013-05-17 00:05:31 | 兵庫県
 竹田城

2013/4/28 但馬遠征(2泊3日)

兵庫県朝来市のお城めぐり

 山頂にそびえる総石垣の「天空の城」 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 竹田城
よみ: タケダ
別称: 虎臥城
所在地: 兵庫県朝来市和田山町竹田
現状: 山
築城年代: 室町時代
築城者: 太田垣氏
形式: 山城
遺構: 天守台・本丸・二の丸・三の丸・南二の丸・北千畳・南千畳・花屋敷・大手門跡・櫓台跡・石垣・堀切・竪堀・井戸
規模: 標高353.7m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2013/4/28


≪ 訪城記 ≫

但馬遠征(2泊3日)  2日目、早朝から竹田城へ向かう。

ホテルを出て国道312号を南下、宮越三叉路信号を左折、国道312号山陰道のままさらに南下、上野南三叉路信号を斜めに左折、国道9号山陰道を南下、和田山トンネル、新和田山トンネルを通過して円山川を渡り、一本柳交差点信号を右折、国道312号を南西方向に進み播但連絡有料道路を通過して、竹田城への案内板のある加都交差点信号を右折、円山川を渡り、この辺りから山頂にそびえる竹田城の石垣が良く見える。県道136号を西進して、もう一度播但連絡有料道路の下をくぐった、すぐの案内板のある三叉路を斜め左に山の方へ進む、「山城の郷」へは入らず、そのまま道なりに山へ入って行くと第2駐車場、さらに進むと第1駐車場がある。

朝早く出て7時30分ごろに第1駐車場に着いたのですが、もう駐車場がいっぱいで、私もなんとか車を駐車することができました。第1駐車場から徒歩で駐車場にある門をくぐり、階段を下りた左手山側に竪堀が1本見られる。大手門跡への道を約15分で大手門前に着く。
大手門跡前に説明板と竹田城址碑が建っている。大手道を登っていくと大手門の石垣が出迎えてくれて、北千畳へ出る。ここから本丸跡、南千畳を眺めると石垣だらけで感動してしまう。北千畳の北側から見える天守台は石の砦のようです。また見付から見る南千畳もすばらしいです。
大手門から三の丸へ、弐の門を通って二の丸へ出る。ここからも天守台、南千畳を一望できる。天守台脇の登り道を通って本丸へ、一段高い天守台へ、天守台からの眺めは最高です。
南二の丸から南千畳へ出て、引き返し花屋敷へ、南千畳から見る天守台の石垣が見事で、壮大な石垣群と曲輪がはっきりと見られて、いつまでも見ていたい。感動です。ただ、人気があって人が多く、どこを撮っても人が入ってしまい、少しだけガッカリです。
大手門まで引き返し、次に出城の観音寺山城へ向かいました。


≪ 歴 史 ≫

応永六年 (1399) 太田垣通泰が朝来郡の守護代を務める。
太田垣氏は山名氏に臣従し、山名宗全のもと嘉吉の乱、応仁・文明の乱を戦う。
永禄十二年 (1569) 織田信長の命で羽柴秀吉が但馬に侵攻、但馬の諸城を陥落させる。
永禄十三年 (1570) 太田垣氏は信長に伺候する。しかし、天正元年(1573)十月、竹田城主太田垣輝延、八木城主八木豊信ほか但馬の諸将は毛利方へ寝返る。
天正三年 (1575) 丹波国黒井城の荻野直正に竹田城が攻められ、毛利氏の来援を仰ぐ。
天正五年十月 (1577) 再び羽柴秀吉が但馬に侵攻し、竹田城も落城。秀吉の弟木下小一郎が入城する。
天正八年 (1580) 秀吉が但馬全域を制圧し、太田垣氏による竹田城支配が終わり、竹田城主に秀吉配下の桑山重晴が入る。
天正十三年 (1585) 桑山重晴が和歌山城主に移封され、替わりに赤松広秀が入城する。
慶長五年九月 (1600) 関ヶ原の戦いで赤松広秀は西軍につき、丹波の田辺城に細川幽斎を攻めたが、関ヶ原本戦が東軍の勝利に終わり、その後、鳥取城を攻めて攻略したが、城攻めの不手際から切腹を申し付けられ十月二十八日、鳥取の真教寺で自刃し、竹田城は廃城となった。


≪ 写 真 ≫


第1駐車場から大手道へ入る門


門を降りたすぐの竪堀


大手入口にある竹田城址碑


大手道


大手門櫓台石垣


北千畳


北千畳から見る天守台


大手門


弐の門


二の丸櫓台


二の丸


天守台石垣(二の丸から)


本丸


天守台から南千畳を望む


天守台石垣(平殿から)


天守台の階段


南千畳


南千畳から天守台方向


花屋敷


花屋敷の石垣


花屋敷から見上げる本丸石垣


南千畳櫓台


北千畳石垣


東から見る北千畳


第1駐車場北側にある山名・赤松氏供養塔


山頂にそびえる石垣群


竹田城全景


現地案内板縄張図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR播但線竹田駅下車、徒歩約40分。
<車>
播但連絡有料道路和田山ICを降りて国道312号を南へ進み、竹田城への案内板のある加都交差点信号を右折、円山川を渡り、この辺りから山頂にそびえる竹田城の石垣が良く見える。県道136号を西進して、もう一度播但連絡有料道路の下をくぐった、すぐの案内板のある三叉路を斜め左に山の方へ進む、「山城の郷」へは入らず、そのまま道なりに山へ入って行くと第2駐車場、さらに進むと第1駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

竹田城


第1駐車場


紹介したお城の数 62城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社

此隅山城

2013-05-13 21:12:49 | 兵庫県
 此隅山城

2013/4/27 但馬遠征(2泊3日)

兵庫県豊岡市のお城めぐり

 但馬山名氏代々の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 此隅山城
よみ: コノスミヤマ
別称: 子盗城・此隅城・鶴賀城
所在地: 兵庫県豊岡市出石町宮内
現状: 山
築城年代: 応安五年(文中元年、1372)
築城者: 山名時義
形式: 山城
遺構: 本丸・腰曲輪・切岸
規模: 約150m×50m、標高140m、比高130m
文化財:
訪城日: 2013/4/27


≪ 訪城記 ≫

但馬遠征(2泊3日)  初日、出石城から此隅山城へ向かう。

出石支所前の有料駐車場から支所前の道の商店街を北上、次の交差点を左折、西進して柳交差点信号を右折、北上して川原三叉路信号を斜めに左折、北西に進み出石農協前三叉路信号を左折、県道706号を北上、約1.6kmで出石神社バス停のある交差点を右折、約200m東進すると出石神社があり、その南側に宮内センターがあります。センター前の空き地に車を駐車させてもらう。

ここから徒歩で出石神社東側の道を北へ約200m進むと川があり、この川に架かる橋の西側に縄張図付の説明板があり、北に見える山が此隅山城跡です。川に架かる橋を越えて道なりに約350m山に向かっていくと、道が少し左に曲がりかけた左側に此隅山城登城口と書かれた標柱があります。ここから西へ少し入って行くと、此隅山登山口の遊歩道があります。
この遊歩道は階段が壊れていて、ほとんど直登状態です。頂上付近になると用意されているロープを使って登らないと登れなほど急です。
頂上へは約15分で到着し、頂上前に腰曲輪らしき削平地があり、本丸は南北に長い台地状の削平地で中央に説明板があります。本丸北西側に一段低い曲輪があり、降口は切岸です。


≪ 歴 史 ≫

応安五年 (1372) 山名時義が但馬山名氏初代となり、此隅山城を築く。
永享五年 (1433) 山名持豊(宗全)が家督を継ぎ城主となる。
嘉吉元年 (1441) 六代将軍足利義教が播磨守護赤松満祐に殺される嘉吉の乱が起こる。
応仁元年 (1467) 応仁・文明の乱が起こり、山名持豊(宗全)が西軍の総師として東軍の細川勝元と戦う。
文明五年三月 (1473) 持豊(宗全)が病死する。
此隅山城主は持豊以降、子の政豊、政豊の子致豊、その弟誠豊、誠豊の子祐豊と継承されたのち、永禄十二年(1569)に羽柴秀吉に攻められ落城する。


≪ 写 真 ≫


出石神社北側の説明板から見た此隅山城


此隅山城登城口


此隅山登山口


急な遊歩道


頂上付近の急な上り坂


本丸前の帯曲輪


本丸


本丸北西側の切岸


本丸北西側の曲輪


出石神社


現地説明板の縄張図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR山陰本線豊岡駅よりバスで鳥居下車、登城口まで徒歩約30分。
<車>
舞鶴若狭道福知山ICを降りて国道9号山陰道を西進、羽合付近から北上、牧川を越えて牧三叉路信号を左折、国道9号山陰道をそのまま西進、野花三叉路信号を右折、国道426号を北上、京都府から兵庫県へ入り、ひたすら道なりに進み登尾トンネルを抜けて、さらに道なりに進み出合三叉路信号を左折、国道426号をそのまま進み、乙女橋三叉路信号を右折、出石川堤防沿いの道を北上、出石農協前三叉路信号を左折、県道706号を北上、約1.6kmで出石神社バス停のある交差点を右折、約200m東進すると出石神社があり、その南側に宮内センターがあります。センター前の空き地に駐車可能。


≪ 位置図 ≫

出石神社北側の説明板


此隅山城登城口


此隅山城


紹介したお城の数 61城



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出石城

2013-05-12 07:55:05 | 兵庫県
 出石城

2013/4/27 但馬遠征(2泊3日)

兵庫県豊岡市のお城めぐり

 有子山城を廃して、新たに築かれた小出氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 出石城
よみ: イズシ
別称: 石城
所在地: 兵庫県豊岡市出石町内町39
現状: 出石城跡・稲荷神社・諸杉神社
築城年代: 慶長九年(1604)
築城者: 小出吉英
形式: 平山城
遺構: 再建西隅櫓・再建東隅櫓・本丸・二の郭・下の郭・西の郭・稲荷郭・登城門・石垣・家老屋敷
規模: 約300m×300m、標高 最上段稲荷郭約40m
文化財: 市指定文化財
訪城日: 2013/4/27


≪ 訪城記 ≫

但馬遠征(2泊3日) 初日、有子山城に登り、下山した麓に広がる出石城跡を見学。

舞鶴若狭道福知山ICを降りて国道9号山陰道を西進、羽合付近から北上、牧川を越えて牧三叉路信号を左折、国道9号山陰道をそのまま西進、野花三叉路信号を右折、国道426号を北上、京都府から兵庫県へ入り、ひたすら道なりに進み登尾トンネルを抜けて、さらに道なりに進み出合三叉路信号を左折、国道426号をそのまま進み、乙女橋三叉路信号を右折、出石川堤防沿いの道を北上、1.7㎞進んだところで川を渡り、すぐの交差点の次の三叉路を右折、東へ約250mで賑やかな出石城の城下町跡に着く。突き当りに豊岡市役所出石支所の有料駐車場がある。ここに車を駐車する。他にも周辺に有料駐車場有。

有子山城から下山し、最上部にあたる稲荷郭へ入る。ここの石垣は高く見ごたえがあります。
一段下の本丸には、再建された隅櫓が2棟あり、東北隅の東隅櫓、西北隅の西隅櫓、本丸中央西寄りに出石城主仙石氏の祖仙石権兵衛秀久を祀った感応殿があります。本丸の石垣も立派です。
次の下の段が二の郭で、東へ抜けて稲荷神社への参道を横切ると屋敷跡の郭があり、石垣も残っています。
二の郭の下が下の郭、その西側に西の郭、その間に登城門と登城橋があります。
登城橋の北側にある大手前駐車場の西側に家老屋敷跡があります。
各郭の石垣が良く残っていて素晴らしいです。


≪ 歴 史 ≫

慶長九年 (1604) 有子山城が天正八年(1580)の羽柴秀吉による第二次但馬征伐で落城し、その後、小出氏が城主となったが、小出吉英のときに城を山麓に移し、近世的な平山城を築城する。その後、九代続く。
元禄十年 (1697) 武蔵岩槻から松平忠徳が移封され城主となり、宝永三年(1706)まで在城する。
入れ替わり信州上田から仙石政明が移って城主となり、八代続き明治維新を迎える。
明治元年 (1868) 出石城は、明治新政府への忠誠の証にいち早く取り壊され廃城となる。


≪ 写 真 ≫


稲荷郭の稲荷神社


稲荷郭の石垣


本丸東隅櫓前の出石城址碑


本丸


本丸西にある感応殿


本丸東隅櫓


本丸西隅櫓


本丸石垣


二の郭


屋敷跡の郭


屋敷跡の郭の石垣


下の郭


西の郭


下の郭の石垣


登城門


全景


家老屋敷

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR山陰本線豊岡駅からバスで出石下車、徒歩10分。
<車>
舞鶴若狭道福知山ICを降りて国道9号山陰道を西進、羽合付近から北上、牧川を越えて牧三叉路信号を左折、国道9号山陰道をそのまま西進、野花三叉路信号を右折、国道426号を北上、京都府から兵庫県へ入り、ひたすら道なりに進み登尾トンネルを抜けて、さらに道なりに進み出合三叉路信号を左折、国道426号をそのまま進み、乙女橋三叉路信号を右折、出石川堤防沿いの道を北上、1.7㎞進んだところで川を渡り、すぐの交差点の次の三叉路を右折、東へ約250mで賑やかな出石城の城下町跡に着く。突き当りに豊岡市役所出石支所の有料駐車場がある。他にも周辺に有料駐車場有。


≪ 位置図 ≫

登城門


本丸


家老屋敷


紹介したお城の数 60城



日本の城 (山川Mook 1)
クリエーター情報なし
山川出版社

有子山城

2013-05-11 10:16:01 | 兵庫県
 有子山城

2013/4/27 但馬遠征(2泊3日)

兵庫県豊岡市のお城めぐり

 但馬山名氏が築いた石垣造りの最後の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 有子山城
よみ: アリコヤマ
別称: 有子城・高城
所在地: 兵庫県豊岡市出石町伊木1
現状: 山
築城年代: 天正二年(1574)
築城者: 山名祐豊
形式: 山城
遺構: 本丸・第二曲輪・第三曲輪・第四曲輪・第五曲輪・第六曲輪・千畳敷・石垣・堀切・竪堀・土橋・土塁
規模: 250m×100m、標高321m、比高310m
文化財: 市指定文化財
訪城日: 2013/4/27


≪ 訪城記 ≫

但馬遠征(2泊3日) 初日のお昼前に出石城前の有料駐車場に到着。

舞鶴若狭道福知山ICを降りて国道9号山陰道を西進、羽合付近から北上、牧川を越えて牧三叉路信号を左折、国道9号山陰道をそのまま西進、野花三叉路信号を右折、国道426号を北上、京都府から兵庫県へ入り、ひたすら道なりに進み登尾トンネルを抜けて、さらに道なりに進み出合三叉路信号を左折、国道426号をそのまま進み、乙女橋三叉路信号を右折、出石川堤防沿いの道を北上、1.7㎞進んだところで川を渡り、すぐの交差点の次の三叉路を右折、東へ約250mで賑やかな出石城の城下町跡に着く。突き当りに豊岡市役所出石支所の有料駐車場がある。ここに車を駐車する。他にも周辺に有料駐車場有。

出石支所の南側に出石城があり、その左側に稲荷神社の参道がある。有子橋を渡り真っ赤な鳥居の参道道を登っていく、途中に出石城の石垣を見ることができる。
稲荷神社の入り口に手水があり、その左側に「有子山登山口」の看板が建っている水道施設の横を山に登っていく。ここに有子山城址碑が建っている。
ここから急峻な尾根道をひたすら登る。あと720m地点で堀切、土橋、竪堀跡を見ることができる。さらに登ってあと240m地点で削平地らしき曲輪で登り道が右へ折れて、山の裾を歩くつづら折れの道になり、しばらく行くと右の崖下に苔むした石垣跡が残っている。
さらに登っていくと段曲輪になった所に出る。削平地と石垣跡が残っている。第6、第5、石切り場、第4曲輪と登っていくと、石垣が良く残っている第3曲輪へ出る。第3曲輪に残り長い石垣の右側を通って、さらの進むと本丸と千畳敷の間に大きなV字型堀切があり、この堀切の左上が本丸で、右上が千畳敷です。
堀切を登って本丸跡へ、一番高い場所が本丸跡で東屋の休憩所と説明板があり、台地状の削平地南側に土塁跡らしき盛り上がりが残っている。本丸北回りに壮大な石垣が良く残っている。北方向の見晴しが良く絶景のパノラマです。本丸から西の一段下が第2曲輪で、その下が第3曲輪で、降りていくと第3曲輪の左側に出られます。
もう一度、第3曲輪の長い石垣横の道を通って堀切に出て、今度は右側を登っていくと広い千畳敷に出ます。東へ三段の曲輪です。
稲荷神社まで下山し、ここから出石城へ


≪ 歴 史 ≫

永禄十二年 (1569) 羽柴秀吉による但馬攻めで山名氏の居城此隅城が落城し、その後、天正二年(1574)に山名祐豊が子の氏政と共に大規模な石垣を何段にも構えた有子山城を築く。
天正三年 (1575) 丹波の荻野直正が但馬へ攻め入り、織田信長に助けを求める。
天正五年 (1577) 羽柴秀吉による第一次但馬征伐が始まる。
天正八年 (1580) 第二次但馬征伐で有子山城も攻められ、有子山城主山名氏政は因幡へ逃げ、父祐豊も病死する。
天正十三年 (1585) 前野長康が城主となるが、関白秀次事件に連座して子の長重とともに殺される。
文禄四年 (1595) 小出吉政が出石に移され、有子山城主となる。
慶長九年 (1604) 岸和田城主小出秀政が死に吉政が岸和田城主となり、出石には子の吉政が城主となり、山麓に出石城を築くまで有子山城は残っていた。


≪ 写 真 ≫


稲荷神社登り口の有子橋


有子山城登城口


登城口にある有子山城址碑


急峻な尾根道


尾根道途中の堀切


尾根道途中の土橋


登り道途中の崖下の苔むした石垣跡


第5曲輪付近の石垣跡


石切り場の土塁跡


第3曲輪の石垣


第3曲輪の道沿いの長い石垣


本丸と千畳敷の間の大きな堀切


本丸跡


本丸の土塁跡


本丸西北側の石垣


本丸東北側の石垣


広い千畳敷


現地案内板の縄張図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR山陰本線豊岡駅からバスで出石下車、本丸跡まで約1時間。
<車>
舞鶴若狭道福知山ICを降りて国道9号山陰道を西進、羽合付近から北上、牧川を越えて牧三叉路信号を左折、国道9号山陰道をそのまま西進、野花三叉路信号を右折、国道426号を北上、京都府から兵庫県へ入り、ひたすら道なりに進み登尾トンネルを抜けて、さらに道なりに進み出合三叉路信号を左折、国道426号をそのまま進み、乙女橋三叉路信号を右折、出石川堤防沿いの道を北上、1.7㎞進んだところで川を渡り、すぐの交差点の次の三叉路を右折、東へ約250mで賑やかな出石城の城下町跡に着く。突き当りに豊岡市役所出石支所の有料駐車場がある。他にも周辺に有料駐車場有。


≪ 位置図 ≫

稲荷神社登り口の有子橋


稲荷神社からの登城口


本丸跡


紹介したお城の数 59城



日本の城 完全名鑑 増補改訂版 (廣済堂ベストムック)
クリエーター情報なし
廣済堂出版