お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

丸根砦

2013-08-21 05:05:23 | 愛知県
 丸根砦

2013/8/11

愛知県名古屋市のお城めぐり

 桶狭間の戦いで大高城の付城として鷲津砦とともに築かれた砦

≪ お城の概要 ≫

城名: 丸根砦
よみ: マルネ
別称:
所在地: 愛知県名古屋市緑区大高町丸根
現状: 山
築城年代: 永禄二年(1559)
築城者: 織田信長
形式: 平山城
遺構: 曲輪
規模: 36m×28m、標高35m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2010/2/24・2013/8/11


≪ 訪城記 ≫

沓掛城から丸根砦へ向かう。

沓掛城址公園前の道を北東へ向かい、県道236号へ出る交差点を左折、次の徳田前交差点信号を左折、南西に進む。アップダウンのある住宅街を抜けて、前後町交差点信号を右折、国道1号東海道を北西へ進む。桶狭間古戦場付近を通り、名古屋第二環状道有松ICを通り過ぎ、鳴海町平部交差点信号を左折、南西に約1.3km進んだ道路の東側に大高緑地第6駐車場がある。ここに車を駐車して徒歩で丸根砦へ向かう。

公園駐車場の西側の道を渡り、住宅街のある高台へ続く道をグニッと曲り登った先の北へ登る交差点に丸根砦特別緑地保全地区の案内板があり、この登り道を登った先の山が丸根砦跡で、遊歩道を登ったところに説明板があり、左手の遊歩道を登るとすぐに山頂に着き、山頂に丸根砦戦殉難烈士の碑がある。山の北側に降りた登り口にも説明板がある。お椀型のこんもりした山で山肌が人工的な切岸で囲まれたような感じです。殉難烈士の碑から南西に下る道があり、その先に木々に隠れた丸根砦阯碑がひっそりと建っている。


≪ 歴 史 ≫

永禄二年 (1559) 大高城の付城として織田信長が鷲津砦とともに築く。
永禄三年 (1560) 桶狭間の前哨戦で織田方の佐久間大学盛重が守っていたが、今川義元方の松平元康(のちの徳川家康)から猛攻を受け、激戦の末、佐久間盛重らが討死して陥落する。


≪ 写 真 ≫


住宅街の登り口


山への登り口


遊歩道登り口と説明板


山頂の丸根砦戦殉難烈士の碑


山の斜面(切岸)


丸根砦阯碑

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線大高駅から徒歩約15分。
<車>
名古屋第二環状道有松ICを降りて国道1号東海道を北西に進み。鳴海町平部交差点信号を左折、南西に約1.3km進んだ道路の東側に大高緑地第6駐車場がある。ここから徒歩で公園駐車場の西側の道を渡り、住宅街のある高台へ続く道をグニッと曲り登った先の北へ登る交差点に丸根砦特別緑地保全地区の案内板があり、この登り道を登った先の山が丸根砦跡で徒歩約15分。


≪ 位置図 ≫

丸根砦


大高緑地第6駐車場


紹介したお城の数 114城



ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

沓掛城

2013-08-19 05:07:25 | 愛知県
 沓掛城

2013/8/11

愛知県豊明市のお城めぐり

 桶狭間の戦い前日に今川義元が軍議を開いたお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 沓掛城
よみ: クツカケ
別称:
所在地: 愛知県豊明市沓掛町東本郷
現状: 沓掛城址公園・慈光寺
築城年代: 応永元年(1394)頃
築城者: 藤原義行
形式: 平山城
遺構: 本丸・二の丸・諏訪曲輪・堀・土塁
規模: 本丸39m×110m、外郭288m×234m
文化財: 県指定史跡
訪城日: 2010/2/23・2013/8/11


≪ 訪城記 ≫

自宅から沓掛城へ向かう。

名古屋第二環状道鳴海ICで降りて環状道の下脇道を南下、黒沢台四丁目交差点信号を左折、県道56号を東進、徳重交差点信号を右折、南下して平手交差点信号を左折、県道220号を南東へ進み、若宮交差点信号を左折、東進して次の徳田前交差点信号を右折、県道236号を約250m南下した交差点を右折、約100m西進すると道の南側に沓掛城址公園があり、入口に駐車場がある。ここに車を駐車する。

駐車場南側に堀に囲まれた本丸があり、訪城した前日がお祭りだったようで櫓やテントがそのまま置いてありました。
駐車場から本丸へ渡る橋の手前に説明板があり、橋を渡った左側が本丸、堀を挟んで諏訪曲輪、その北側が侍屋敷と説明板の地図に書かれていました。
本丸中央に井戸跡があり、本丸南側から二の丸入口の狭まったところに沓掛城址碑と説明板、城跡の西側にある慈光寺も沓掛城跡だったようです。
本丸廻りの堀が良好に残っています。


≪ 歴 史 ≫

応永元年頃 (1394) 藤原義行が築城したと伝わる。
明応元年頃 (1492) 近藤左京が入り、近藤氏の居城となる。
永禄三年 1560 桶狭間の戦い前日に今川義元が入城して軍議を開いた。
桶狭間の戦いで城主近藤景春が戦死、織田信長が恩賞として梁田出羽守政綱に沓掛城を与える。その後、織田信照(信長の異母弟)が入り、次に川口久助の居城となった。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の戦いで城主川口久助が西軍に属し、敗戦後、流罪となり沓掛城は廃城となった。


≪ 写 真 ≫


沓掛城址公園入口


本丸へ入る橋


本丸北側の堀と土塁


本丸と諏訪曲輪の間の堀と土塁


諏訪曲輪


侍屋敷


本丸井戸跡


本丸


大手門跡の沓掛城址碑と説明板


二の丸西側の堀と土塁


慈光寺


二の丸


本丸東側の堀と土塁


現地説明板案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
名鉄名古屋本線前後駅からバスで本郷口下車、徒歩約15分。
<車>
名古屋第二環状道鳴海ICで降りて環状道の下脇道を南下、黒沢台四丁目交差点信号を左折、県道56号を東進、徳重交差点信号を右折、南下して平手交差点信号を左折、県道220号を南東へ進み、若宮交差点信号を左折、東進して次の徳田前交差点信号を右折、県道236号を約250m南下した交差点を右折、約100m西進すると道の南側に沓掛城址公園があり、入口に駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

沓掛城(沓掛城址公園)


紹介したお城の数 113城



愛知の山城ベスト50を歩く
愛知中世城郭研究会,中井 均
サンライズ出版

墨俣城

2013-08-18 07:00:12 | 岐阜県
 墨俣城

2013/8/4

岐阜県大垣市のお城めぐり

 木下藤吉郎秀吉が一夜にして築城した伝説のお城

≪ お城の概要 ≫

城名: 墨俣城
よみ: スノマタ
別称: 一夜城
所在地: 岐阜県大垣市墨俣町墨俣1742-1
現状: 一夜城址公園・大垣市墨俣歴史資料館
築城年代: 永禄九年(1566)
築城者: 木下藤吉郎
形式: 平城
遺構: 模擬天守
規模:
文化財:
訪城日: 2012/9/2・2013/8/4


≪ 訪城記 ≫

大垣城から墨俣一夜城へ向かう。

大垣市役所北駐車場を出て北側の県道237号を大垣城を北側に見ながら東進、揖斐川に架かる揖斐大橋を渡り、県道31号をさらに東へ進む。長良川に架かる長良大橋手前の長良大橋西信号を左折、長良川沿いの堤防を北上、犀川と長良川が合流する中州の先端に墨俣歴史資料館がある。犀川のゲートに架かる橋を渡った太閤出世橋前の道の南側に5~6台駐車できるスペースがある。ここに車を駐車する。

犀川に架かる太閤出世橋を渡った先に墨俣一夜城が建てられていて、中は豊臣秀吉の出世物語に関する資料が展示されている。入場料は200円です。
一夜城の北側に白髭神社、豊國神社が祀られていて、神社左側に洲股築城犠牲者の墓がある。
右側には一夜城築城の説明板、資料館の左側には一夜城址碑が建てられている。


≪ 歴 史 ≫

永禄九年 (1566) 美濃攻略の前線基地として、織田信長の命で木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉が一夜にして墨俣に築城した。

≪ 写 真 ≫


長良川と犀川の合流点からの墨俣一夜城


墨俣一夜城


中州先端の墨俣城


太閤出世橋からの墨俣城


橋の終点にある秀吉像と墨俣城


出世橋終点の木下藤吉郎秀吉の像


墨俣一夜城址碑


白髭神社と豊國神社


洲股築城犠牲者の墓


東側からの墨俣城

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線岐阜駅からバスで墨俣下車、徒歩約20分。
<車>
名神高速大垣ICを降りて国道258号を北上、旭町交差点信号を右折、県道237号を東進、揖斐川に架かる揖斐大橋を渡り、県道31号をさらに東へ進む。長良川に架かる長良大橋手前の長良大橋西信号を左折、長良川沿いの堤防を北上、犀川と長良川が合流する中州の先端に墨俣歴史資料館がある。犀川のゲートに架かる橋を渡った太閤出世橋前の道の南側に5~6台駐車できるスペースがある。他にも犀川の堤防敷内に駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

墨俣一夜城(大垣市墨俣歴史資料館)


紹介したお城の数 112城



ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

大垣城

2013-08-17 13:44:37 | 岐阜県
 大垣城

2013/8/4

岐阜県大垣市のお城めぐり

 水の城と呼ばれる大垣戸田藩の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 大垣城
よみ: オオガキ
別称: 巨鹿城・糜城・牛屋城
所在地: 岐阜県大垣市郭町2丁目52
現状: 大垣公園
築城年代: 天文年間(1532-55)
築城者: 宮川吉左衛門尉安定
形式: 平城
遺構: 復興天守・東門・西門・戌亥櫓・丑寅櫓・辰巳櫓跡・七間多聞跡・水之手門跡・東埋門跡・鉄門跡・石垣
規模: 標高6m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2010/7/23・2012/1/15・2013/8/4


≪ 訪城記 ≫

自宅を出て国道8号を南下、川崎町交差点信号を左折、県道37号を東進、北陸道長浜ICを通り越して国道東上坂三叉路信号を斜め右折、国道365号を東進、道なりに進み伊吹山口信号を右折、関ヶ原バイパスを通って新日守三叉路を斜め左折、国道21号中山道を東進、大垣西IC出口の桧交差点信号を右折、中曽根町交差点信号を左折、県道31号を東進、水門川橋東詰信号を左折、約400mで大垣市役所前に着く。大垣市役所北駐車場に車を駐車する。

大垣市役所から北へ少し歩くと県道237号の市役所北信号を渡り、約100m東に大垣公園がある。公園西側の道を北へ約150mで搦手門への入口に着く。まっすぐ東へ入ると戸田氏鉄公騎馬像越しに大垣城復興天守が見られる。
搦手門から入り、北に戌亥櫓があり、天守閣の石垣に明治29年の大洪水のラインがしっかりと残っている。
水之手門跡から北の道に出て丑寅櫓、大手門から再び大垣城に入り、復興天守閣内を見学。入場料は通常100円ですが、訪れた日は「水都まつり」で半額50円でした。
天守閣の南側には辰巳櫓跡、東埋門跡、鉄門跡、七間多聞跡があり、辰巳櫓跡から流れる涼しげな「糜城の滝」もあります。


大垣城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

天文四年 (1535) 美濃守護土岐氏の一族宮川吉左衛門尉安定によって築城されたと言われている。城主は佐々木信綱の子孫竹腰彦五郎尚綱で、初代が宮川安定か竹腰尚綱か不明ですが、尚綱の子重直が継ぐ。
天文十三年 (1544) 尾張の織田信秀に攻められ落城、織田播磨守信辰が城主となるが、斎藤道三に攻められ、再び竹腰氏が回復し、重直の子尚光が城主となる。
永禄二年 (1559) 道三と子義龍の戦いで尚光は討死してしまい、代わって西美濃三人衆の一人氏家直元(卜全)が城主となる。子直重が継、その後は池田恒興が城主となる。
天正十二年 (1584) 長久手の戦いで池田恒興・元助父子が討死し、恒興の次男輝政が城主となり、翌十三年、岐阜城に移った。
天正十八年 (1590) 三河国吉田に転封となり、羽柴秀次、秀長の豊臣一族が城主となり、次いで加藤光泰、一柳直末、羽柴秀勝と続き、次に伊藤長門守祐盛が入り、跡を子の盛宗が継いだが、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に属し、石田三成を大垣城に迎え入れ、関ヶ原本戦の笹尾山で討死した。
関ヶ原後は徳川譜代の石川氏、久松松平氏、岡部氏が城主となる。
寛永十二年七月 (1635) 戸田氏鉄が入部し十一代続き、明治二年(1869)の版籍奉還まで戸田氏の藩政が続いた。天守閣と隅櫓は残って国宝であったが、昭和二十年の空襲で焼失。
昭和三十四年 (1959) 天守閣が外観復元される。


≪ 写 真 ≫


西からの大垣城


戸田氏鉄公騎馬像越しの大垣城


西門


戌亥櫓


明治29年天守石垣に残る大洪水跡


水之手門跡


復興天守閣


東埋門跡


辰巳櫓跡


鉄門跡


七間多聞跡


糜城の滝


丑寅櫓


東門


現地大垣城絵図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線大垣駅から徒歩10分。
<車>
名神高速大垣ICを降りて国道258号を北上、禾森交差点信号を左折、県道31号を西進、水門川橋東詰信号を左折、約400mで大垣市役所前に着く。大垣市役所北駐車場または有料駐車場が付近にある。


≪ 位置図 ≫

大垣城


紹介したお城の数 111城



岐阜の山城ベスト50を歩く
クリエーター情報なし
サンライズ出版

下坂氏館

2013-08-14 10:02:41 | 滋賀県
 下坂氏館

2013/7/28

滋賀県長浜市のお城めぐり

 北近江の国人領主、下坂氏の居館

≪ お城の概要 ≫

城名: 下坂氏館
よみ: シモサカシ
別称: 下坂館
所在地: 滋賀県長浜市下坂中町
現状: 下坂クリニック・民家
築城年代: 鎌倉時代後期~南北朝時代
築城者: 下坂氏
形式: 居館
遺構: 表門・堀・土塁
規模: 東西約89m×南北約87m
文化財: 国指定史跡
訪城日: 2010/7/24・2013/7/28


≪ 訪城記 ≫

上坂城から下坂氏館へ向かう。

上坂城跡の児童公園西側の道を南下、県道37号へ出る三叉路を右折して西進、北陸道長浜ICを通り越し、川崎町交差点信号を左折、国道8号長浜バイパスを南下、市立長浜病院を通り越し下坂中町交差点信号を右折、県道244号を約400m西へ進み、道が少し右へ曲がった北側が下坂クリニックで、ここが下坂氏館です。下坂クリニックの駐車場に車を駐車させてもらう。

下坂クリニックの駐車場の柵に説明板が建てられていて、柵越しに中を覗くと堀や土塁らしき起伏を見ることが出来る。また、少し東側の信号付近に古い表門を見られる。


≪ 歴 史 ≫

建武二年 (1336) 下坂治部左衛門宛の足利直義感状がある。
天正元年 (1573) 浅井長政の小谷籠城戦で下坂氏当主が小谷城に籠城している。浅井氏滅亡後は帰農する。


≪ 写 真 ≫


古い表門


不断光院


北西方向からの下坂氏館


現地下坂氏館跡測量図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR北陸本線田村駅から約2km、徒歩約35分。
<車>
北陸道長浜ICを降りて右折、県道37号を西進、川崎町交差点信号を左折、国道8号長浜バイパスを南下、市立長浜病院を通り越し下坂中町交差点信号を右折、県道244号を約400m西へ進み、道が少し右へ曲がった北側が下坂氏館跡で下坂クリニックの駐車場を利用すとよい。


≪ 位置図 ≫

下坂氏館(下坂クリニック)


紹介したお城の数 110城



近江の山城ベスト50を歩く
中井 均
サンライズ出版