お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

二条古城

2014-02-16 06:53:07 | 京都府
二条古城

2014/2/1

京都府京都市のお城めぐり

 室町幕府最後の将軍足利義昭のために築城した居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 二条古城
よみ: ニジョウ
別称:
所在地: 京都府京都市上京区五町目町
現状: 平安女学院
築城年代: 永禄十二年(1569)
築城者: 織田信長
形式: 平城
遺構:
規模: 390m×390m、標高50m
文化財:
訪城日: 2010/11/2・2014/2/1


≪ 訪城記 ≫

二条城から二条古城へ徒歩で向かう。

二条城の東側の堀川通を北へ、堀川丸太町交差点信号を東へ渡り、丸太町通を東進、京都御苑のある烏丸通のひとつ手前の室町通を北上、下立売通手前に平安女学院がある。
この平安女学院の下立売通に出る西角に織田信長が足利義昭のために造営した旧二条城趾碑と説明板が建てられている。
室町通の道の東側、平安女学院の校舎南端付近には、織田信長が造営した旧二条城の前身である斯波氏武衛陣・足利義輝邸跡の碑と説明板が建っているのみで他に遺構はない。


≪ 歴 史 ≫

室町幕府の三管領筆頭斯波義将の邸宅がここにあり武衛陣と呼ばれていたが、応仁の乱で焼失。のちに室町幕府第十三代将軍足利義輝がこの武衛跡に邸宅を構え、永禄八年(1565)三好三人衆の襲撃に遭い、将軍義輝が殺され邸宅も焼失した。
永禄十二年四月 (1569) 室町幕府第十五代将軍足利義昭の御座所として織田信長が足利義輝邸宅跡に造営、足利義昭は四月十四日に入城した。
天正元年七月 (1573) 足利義昭の追放によって室町幕府が滅亡し、旧二条城も廃城となった。
天正四年 (1576) 旧二条城は解体され、安土城に移建されたと言われる。


≪ 写 真 ≫


旧二条城趾碑と説明板


斯波氏武衛陣・足利義輝邸跡の碑と説明板

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線・東海道新幹線京都駅から市バスで烏丸下立売前下車、徒歩すぐ。市営地下鉄烏丸線丸太町前駅から徒歩約5分。
<車>
名神高速京都東ICで降りて直進、府道143号三条通りを西進、蹴上の峠道を通って鴨川前の三条交差点信号を右折、北上して次の川端御池三叉路信号を左折、御池通を西進、京都市役所前を通って堀川御池交差点信号を右折、堀川通を北上して、次の信号を越えた道の左側に二条城があります。東大手門入口前に有料駐車場有。二条城の東側の堀川通を北へ、堀川丸太町交差点信号を東へ渡り、丸太町通を東進、京都御苑のある烏丸通のひとつ手前の室町通を北上、下立売通手前に平安女学院前まで徒歩約15分。付近にも有料駐車場有。


≪ 位置図 ≫

二条古城


紹介したお城の数 182城



ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社

二条城

2014-02-15 08:27:34 | 京都府
 二条城

2014/2/1

京都府京都市のお城めぐり

 徳川慶喜が二の丸御殿で大政奉還を上表した江戸幕府始まりと終焉のお城 国宝 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 二条城
よみ: ニジョウ
別称: 二条離宮
所在地: 京都府京都市中京区二条城町541
現状: 二条城
築城年代: 慶長七年(1602)
築城者: 徳川家康
形式: 平城
遺構: 天守閣跡・本丸御殿・本丸庭園・二の丸御殿・二の丸庭園・櫓門・東橋・唐門・東大手門・北大手門・南門・西門・西橋・桃山門・鳴子門・北中仕切門・南中仕切門・東南隅櫓・西南隅櫓・番所・収蔵庫・米倉・内堀・外堀・石垣
規模: 560m×430m、標高40m
文化財: 国指定史跡・国指定特別名勝・国宝・重要文化財・世界文化遺産
訪城日: 2010/11/2・2012/1/18・2014/2/1


≪ 訪城記 ≫

自宅から二条城へ向かう。

名神高速京都東ICで降りて直進、府道143号三条通りを西進、蹴上の峠道を通って鴨川前の三条交差点信号を右折、北上して次の川端御池三叉路信号を左折、御池通を西進、京都市役所前を通って堀川御池交差点信号を右折、堀川通を北上して、次の信号を越えた道の左側に二条城があります。東大手門入口前に有料駐車場があります。ここに車を駐車する。

入場料のチケットを券売機で買い東大手門から入城しました。入場料600円です。
立派な門をくぐって右側に番所があり、左へ曲がり、右手に二の丸御殿入口の煌びやかな唐門が迎えてくれます。この付近は人の波がほとんど途切れません。唐門をくぐり二の丸御殿を見学、幕末に徳川慶喜が大政奉還を上表した大広間や障壁画が見どころです。西側の二の丸庭園もすばらしいです。
唐門から出て、立派な土塀に沿って西へ入って行くと南門があり、さらに進んで土塀の角を右へ曲がると桃山門があり、内堀と石垣に囲まれた本丸跡、北側には鳴子門、内堀中央の東橋と櫓門をくぐると桝形があり、本丸庭園へと続き、北側に本丸御殿、南西隅に天守閣跡があります。本丸御殿西側の西橋から出て休憩所の南側に旧二条城の石垣が展示されています。南へ行くと米倉と南仕切門、天守閣の石垣がすばらしい、北へ行くと米倉と北仕切門、清流園を抜けると北大手門を見て、東大手門から外へ出て外堀沿いに一周しました。
外堀沿いに東南隅櫓、西南隅櫓、南門、西門、北大手門、石垣と堀に感動です。
最初入った雰囲気は御殿があり、お城と言う感じがあまりしなかったのですが、本丸の石垣や外堀沿いに見ていくと、やっぱりお城なんだと感じます。
見るものほとんどが現存でまたまた感動です。


二条城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

慶長六年 (1601) 将軍上洛の際の居館として畿内の大名に造営費を課して造営を始める。
慶長七年五月一日 (1602) 所司代板倉勝重の総指揮で完成する。
慶長九年三月 (1604) 徳川家康が初めて入城する。大坂の陣には、家康・秀忠が在駐して本営となった。
慶長十六年三月 (1611) 徳川家康と豊臣秀頼が二条城で会見する。
元和五年 (1619) 徳川和子の入内に備えて女御御殿が造営される。
寛永三年九月六日 (1626) 後水尾天皇が二条城に行幸する。
寛延三年 (1750) 落雷で天守閣を焼失。
天明八年 (1788) 本丸の殿舎、櫓と二の丸の櫓の一部が火災によって焼失。
文久三年 (1863) 将軍徳川家茂の上洛で殿舎の整備が行われる。
元治元年 (1864) 家茂が上洛して材駐する。
慶応二年 (1866) 徳川慶喜が二条城で将軍宣下を受ける。
慶応三年十月 (1867) 徳川慶喜によって二条城大広間で大政奉還が上表される。
慶応三年十二月 (1867) 徳川慶喜が二条城を退去。
明治元年 (1868) 朝廷が二条城を接収して、明治四年(1871)京都府に移管され、二の丸御殿が府庁舎となる。
明治二十六年 (1893) 宮内省の管理に戻り、桂宮御殿が本丸跡に移築される。
大正四年 (1915) 二条城において大正天皇の即位礼が行われる。
昭和十四年 (1939) 京都市に下賜される。
平成六年 (1994) 古都京都の文化財のひとつとしてユネスコの世界遺産に登録される。


≪ 写 真 ≫


東大手門


東大手門附近の外堀


番所


唐門


二の丸御殿


二の丸庭園


桃山門


本丸石垣


本丸石垣と内堀


南中仕切門


鳴子門


本丸櫓門


櫓門枡形


天守閣跡からの本丸御殿


天守閣跡からの西橋桝形


本丸御殿


旧二条城の石垣


天守閣石垣


米倉


北中仕切門


土蔵


東南隅櫓


南門


西南隅櫓


西門(埋門)


外堀の西北隅石垣


北大手門


北大手門附近の外堀


外堀


現地二条城案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線・東海道新幹線京都駅から市バスで二条城前下車、徒歩すぐ。市営地下鉄東西線二条城前駅から徒歩すぐ。
<車>
名神高速京都東ICで降りて直進、府道143号三条通りを西進、蹴上の峠道を通って鴨川前の三条交差点信号を右折、北上して次の川端御池三叉路信号を左折、御池通を西進、京都市役所前を通って堀川御池交差点信号を右折、堀川通を北上して、次の信号を越えた道の左側に二条城があります。東大手門入口前に有料駐車場有。


≪ 位置図 ≫

二条城


紹介したお城の数 181城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社

瀬田城

2014-02-09 08:46:05 | 滋賀県
 瀬田城

2014/1/23

滋賀県大津市のお城めぐり

 瀬田の土豪山岡氏代々の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 瀬田城
よみ: セタ
別称:
所在地: 滋賀県大津市瀬田2丁目13-26
現状: グランスイート近江・臨湖庵
築城年代: 永享年間(1429-41)
築城者: 山岡資広
形式: 平城
遺構:
規模:
文化財:
訪城日: 2010/4/6・2014/1/23


≪ 訪城記 ≫

膳所城から瀬田城へ向かう。

膳所城跡公園前の湖岸道路を琵琶湖沿いに南下、東海道本線、国道1号の高架下をくぐり唐橋西詰交差点信号を左折、瀬田唐橋を渡り、唐橋東詰交差点信号を右折、県道29号夕照の道を南下、東海道新幹線高架手前で道が琵琶湖岸に出る緩いカーブの琵琶湖側に道路の脇に少し余裕があるので、ここに車を駐車する。
この道路は通行量が多いので、道路脇に駐車するのは非常に危険です。前回来たときは、膳所城から距離はあるけど徒歩で来ました。

車を駐車した場所の道路東側のグランスイート近江・臨湖庵というマンションの北西隅に瀬田城趾碑と消えかかった木製の説明板が建っているのみで遺構はない。


≪ 歴 史 ≫

永享年間 (1429-41) 瀬田の土豪山岡氏の一族で田上城主であった山岡資広が築城する。
天文十四年五月 (1545) 細川晴元が山城宇治田原へ発向したとき、六角氏の被官とともに従軍する。
永禄十一年 (1568) 織田信長の入京後に織田方に属する。
元亀元年五月九日 (1570) 織田信長が京から岐阜へ戻る途次に瀬田城を宿所とする。
天正十年 (1582) 本能寺の変で主君織田信長を殺した明智光秀が瀬田城主山岡景隆を味方に引き入れようとしたが、景隆は光秀の行く手を妨げるため瀬田橋を焼き落としする。
天正十一年 (1583) 賤ヶ岳合戦で山岡隆景は、柴田勝家に内通したことが発覚して、豊臣秀吉に瀬田城を追われ、逃亡先の甲賀郡毛牧村において死去する。


≪ 写 真 ≫


瀬田城趾碑と説明板

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
京阪電鉄石山坂本線唐橋前駅から徒歩約15分。
<車>
名神高速大津ICを降りて大津IC口信号を左折、くねった坂道を下り国道1号、東海道本線高架下をくぐり、まっすぐ琵琶湖岸へ向かって北上、京阪電鉄踏切を渡ってすぐの打出浜交差点信号を右折、湖岸道路を東進、近江大橋付近で大きく右へ曲がり南下してすぐ、琵琶湖側にある膳所城跡公園が膳所城跡です。湖岸道路を挟んだ西側に公園駐車場があります。ここから徒歩で約3.3km、約1時間で瀬田城趾碑前。


≪ 位置図 ≫

瀬田城


紹介したお城の数 180城



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クリエーター情報なし
ニコン

膳所城

2014-02-08 08:21:50 | 滋賀県
 膳所城

2014/1/23

滋賀県大津市のお城めぐり

 徳川家康の天下普請第一号の琵琶湖に面した膳所藩の居城 日本三大湖城

≪ お城の概要 ≫

城名: 膳所城
よみ: ゼゼ
別称: 石鹿城
所在地: 滋賀県大津市本丸町7-10
現状: 膳所城跡公園
築城年代: 慶長六年(1601)
築城者: 徳川家康
形式: 水城
遺構: 本丸跡・二の丸跡・三の丸跡・北の丸跡・復元城門・堀・土塀・移築城門(膳所神社表門・北門・和田神社表門・篠津神社表門・若宮八幡神社表門・御霊神社高麗門・建部大社表門・近津尾神社表門・鞭崎神社表門・新宮神社表門)・移築二重櫓(芭蕉会館)
規模: 本丸約145m×99m、二の丸約90m×132m
文化財: 膳所神社表門・篠津神社表門・鞭崎神社表門が国指定重要文化財
訪城日: 2010/4/6・2014/1/23


≪ 訪城記 ≫

自宅から膳所城へ向かう。

自宅を出て湖岸道路を南下、矢場帰帆島、イオンモール草津を過ぎ、大萱六丁目三叉路信号を左折、川沿いの道を東進し次の信号のある三叉路を左折、北上した次の信号を左折して有料から無料になった近江大橋を渡り、近江大橋西詰信号を左折、南下してすぐ、琵琶湖側にある膳所城跡公園が膳所城跡です。湖岸道路を挟んだ西側に公園駐車場がありますが、満車だったので南側の市立膳所市民センターの駐車場に車を駐車しました。

湖岸道路の本丸町信号を渡った琵琶湖岸に膳所城跡公園があり、城門が堀、土塀が復元されていて、湖岸には石垣の部材らしい石が転がっている。
復元城門の横に膳所案内絵図を見て近隣の移築城門へ向かことにする。
まずは膳所城跡公園を西へ約300m行った膳所神社へ、膳所神社には移築本丸大手門の表門と移築城門の北門がある。膳所神社の北側にある膳所高校内には膳所藩の藩校遵義堂跡の碑がある。
膳所神社から東へ約70mの信号を約350m北上したところにある和田神社にも移築城門の表門があり、和田神社までの途中には膳所藩主代々の墓所のある縁心寺がある。和田神社から約30m北の分かれ道を左へ約200mの突き当りの響忍寺が膳所藩家老村松八郎右衛門の屋敷だった。
膳所神社東の信号まで戻り、ここから約400m南下した十字路を左折、約170m東へ行った突き当りを右折して約60m南下したところに篠津神社へ入る参道があり、神社入り口に北大手門だった高麗門が移築されている。さらに約370m南下した突き当りを左折した京阪電車線路手前に若宮八幡宮のも本丸犬走り門だった移築城門がある。琵琶湖岸へ向かうと歴代藩主を祀った本多神社がある。
車で移動して、御霊神社にある移築高麗門、茶臼山公園にある芭蕉会館となっている移築二重櫓を見に行く。


膳所城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

慶長六年六月 (1601) 関ヶ原合戦後に大津城に入った徳川家康は本多正信の進言によって大津城を廃城にして、琵琶湖に突出した膳所城を築き、大津城主戸田一西が移る。縄張は築城の名手藤堂高虎です。その後、一西の嫡男氏鉄が継ぐ。
元和二年 (1616) 戸田氏が摂津尼崎に転封となり、代わって本多康俊が入封する。
元和七年 (1621) 康俊の嫡男俊次が継ぐが、移封され、代わって菅沼定芳が入封する。
寛永十一年 (1634) 定芳が丹波亀山へ移封となり、代わって石川忠総が入封する。
慶安四年 (1651) 本多俊次が再び入封して、以後、本多氏十三代の居城として明治を迎える。
寛文二年五月 (1662) 大地震により、膳所城天守は傾き大きな被害を被り、大改修によって本丸と二の丸を合体して本丸となり、三の丸が二の丸となった。
明治三年 (1870) 膳所城は解体され、廃城となり、本多康穣が最後の城主となった。


≪ 写 真 ≫


膳所城跡公園入口の復元城門


膳所城跡公園入口の復元堀と土塀


膳所城跡公園内の膳所城址碑


本丸跡の膳所城跡公園


湖岸に残る石垣石


膳所神社


膳所神社表門(移築本丸大手門)


膳所神社北門(移築城門)


膳所高校内の藩校遵義堂跡


膳所城主の菩提寺縁心寺


和田神社


和田神社表門(移築城門)


家老屋敷跡の響忍寺


武家屋敷の門


篠津神社


篠津神社表門(移築北大手門)


本多神社


本多公浜御殿跡


若宮八幡宮


若宮八幡宮表門(移築犬走り門)


芭蕉会館(移築二重櫓)


御霊神社


御霊神社の移築高麗門


現地膳所城下町案内絵図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
京阪電鉄石山坂本線膳所本町駅から徒歩約10分。
<車>
名神高速大津ICを降りて大津IC口信号を左折、くねった坂道を下り国道1号、東海道本線高架下をくぐり、まっすぐ琵琶湖岸へ向かって北上、京阪電鉄踏切を渡ってすぐの打出浜交差点信号を右折、湖岸道路を東進、近江大橋付近で大きく右へ曲がり南下してすぐ、琵琶湖側にある膳所城跡公園が膳所城跡です。湖岸道路を挟んだ西側に公園駐車場があります。


≪ 位置図 ≫

膳所城(膳所城跡公園)


膳所神社


和田神社


篠津神社


若宮八幡宮


御霊神社


芭蕉会館


紹介したお城の数 179城



近江の山城ベスト50を歩く
中井 均
サンライズ出版

浅小井城

2014-02-04 06:24:18 | 滋賀県
 浅小井城

2014/1/12

滋賀県近江八幡市のお城めぐり

 浅小井氏を継いだ深尾氏代々の居館跡

≪ お城の概要 ≫

城名: 浅小井城
よみ: アサゴイ
別称: 武双山湖月城
所在地: 滋賀県近江八幡市浅小井町
現状: 畑
築城年代: 鎌倉時代初頭
築城者: 浅小井四郎長家
形式: 館
遺構:
規模: 100m×100m
文化財:
訪城日: 2014/1/12


≪ 訪城記 ≫

水茎岡山城から浅小井城へ向かう。

水茎岡山城の登城口前の湖岸道路脇道から湖岸道路へ出て、琵琶湖沿いに北東へ、湖岸白鳥川三叉路信号を右折、白鳥川沿いに県道26号を南東へ進み、小船木町交差点信号を左折、県道2号を北東へ進み、浅小井町へ入ってすぐの川手前の交差点を左折、南岸の堤防道を川沿いに北へ進み、約350m進んだところにある交差点を右折、橋を渡り約200m集落に入った道の左側にある浅小井ふれあいセンターの駐車場に車を駐車させてもらう。

浅小井ふれあいセンターの北東側の住宅北側の広い畑が浅小井城跡で、畑へ入る道の左側の小さな木々の中に消えそうな文字の説明板が建っていて、この付近一帯の畑が館跡だそうです。
さらに北東側の住宅街の中に小さな多武木神社があり、中に説明書きが飾られています。


≪ 歴 史 ≫

浅小井四郎長家が浅小井城に居住し、文治三年(1187)、この館で病死する。子の清長の代より深尾氏を名乗るり、代々居住し、館主は加賀守・加賀介を名乗る。
深尾加賀守元秀の代に佐々木六角高頼の命によって、文亀元年(1501)に初めて城を築くとある。


≪ 写 真 ≫


浅小井城の説明板


浅小井城跡の畑


多武木神社

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR東海道本線近江八幡駅から徒歩約4km、約1時間20分。
<車>
名神高速八日市ICを降りて国道421号を八風街道を西進、国道8号を通過して、県道26号を北西に進み、音羽町交差点信号を右折、県道2号を北東へ進み、浅小井町へ入ってすぐの川手前の交差点を左折、南岸の堤防道を川沿いに北へ進み、約350m進んだところにある交差点を右折、橋を渡り約200m集落に入った道の左側にある浅小井ふれあいセンターの駐車場を利用すると良い。


≪ 位置図 ≫

浅小井城


紹介したお城の数 178城



近江城郭探訪―合戦の舞台を歩く
クリエーター情報なし
滋賀県文化財保護協会