お城へ行こう!

気ままなお城めぐりの旅の記録と写真を公開しています。

備中松山城

2014-05-12 06:07:35 | 岡山県
 備中松山城

2014/4/27

岡山市高梁市のお城めぐり

 大松山・天神丸・小松山・前山・御根小屋と広い範囲の日本一高いところにある山城

 現存12天守  日本100名城  日本三大山城

≪ お城の概要 ≫

城名: 備中松山城
よみ: ビッチュウマツヤマ
別称: 松山城・高梁城・大松山城・小松山城・御根小屋城・天神丸
所在地: 岡山県高梁市内山下1
現状: 山・高梁高校
築城年代: 仁治元年(1240)
築城者: 秋庭三郎重信
形式: 山城
遺構: 現存天守・二重櫓・三の平櫓土塀・本丸・二の丸・三の丸・後曲輪・厩曲輪・大松山城・天神丸・御根小屋城・中太鼓丸櫓跡・下太鼓櫓跡・相畑木戸跡・大手門跡・大手櫓跡・二の平櫓跡・三の平櫓跡・厩門跡・四の平櫓跡・御膳棚・二の櫓門跡・五の平櫓跡・本丸南御門・本丸東御門・六の平櫓跡・七の平櫓跡・八の平櫓跡・腕木御門・搦手門跡・九の平櫓跡・十の平櫓跡・水の手門跡・大池・切通し・番所跡・石垣・井戸跡・土橋・せいろいうが壇・天神丸の本丸・天神丸の出丸・堀切・土塁・大松山城の本丸・大松山城の二の丸・大松山城の三の丸
規模: 150m×250m、標高480m
文化財: 国指定史跡・国指定重要文化財
訪城日: 2011/8/3・2014/4/27


≪ 訪城記 ≫

ホテルを出て備中松山城へ向かう。

山陽道岡山ICに入り、岡山JCTで岡山道を進み賀陽ICで降りて突き当りの三叉路を右折、国道484号を西進、山並みの中を走り抜けた高架ループを下り、急な坂道カーブを降りていき突き当りの三叉路を左折、JR伯備線の高架を越えて、突き当りの警察署北三叉路信号を右折、高梁川沿いに国道180号を北上、川端町三叉路信号を右折、すぐの突き当りを右折、またすぐの三叉路を左折、狭い坂道を川沿いに東進して伯備線の踏切を渡った左側が高梁高校で御根小屋城跡です。そのまま狭い坂道を進み、突き当りの松山城登山口バス停を左折、川沿いに登り続け、道が川を渡り大きく左へ曲ったあと今度は右へ曲がったところに城見橋公園駐車場がある。ここに車を駐車する。
城見橋公園からふいご峠までシャトルバスが運行されていて往復300円です。

城見橋公園から約20分歩いてふいご峠まで行きました。
ふいご峠の南に下太鼓丸があり、ふいご峠入り口にある登り口から登り約10分で下太鼓丸櫓跡に着きます。南北側に石垣が見られ、虎口の石垣も残っています。櫓跡の南側に石組の井戸跡があります。
ふいご峠に戻って公衆電話のある北東側の中国自然遊歩道から松山城に向かいました。公衆便所のある南東側の舗装道からも行けます。
登ること約10分で上太鼓丸に着きます。櫓跡の石垣が残っています。さらに約10分で大手門跡に着き、ここから見上げる大岩を利用した見上げるほど高い高石垣はすごいです。高石垣下には足軽番所跡、土塀側には大手櫓跡、二の平櫓跡、現存の三の平櫓東土塀、その上に三の平櫓跡、右側の広い削平地が三の丸、その上に厩曲輪と厩門跡、左側に四の平櫓跡とお手洗いのある御膳棚跡、ここから階段を登り切ったところが二の丸で、入口に二の櫓門跡と説明板があり、北の一段上が現存天守のある本丸です。階段を登った南御門前に入場券売り場があり、入場料300円で入れます。門をくぐると目の前に現存天守が現れ一時見惚れてしまいました。門の右側詰所付近が五の平櫓跡で左側に六の平櫓跡、その下に七の平櫓跡、天守入口に八の平櫓跡、右側に東御門、天守内を見学、内部はこじんまりしていますが、なんと暖炉がありました。東御門横から天守裏にまわると二重櫓が見られます。
二の丸に戻り、本丸右下の通路を通って後曲輪へ、途中に断崖の搦手門曲輪と搦手門跡を通り、石垣上に後曲輪があり、九の平櫓跡があり、ここから二重櫓を見上げて見られます。下の段に十の平櫓跡、水の手門跡があります。
水の手門跡から大松山城へ向かいます。降りて行ったところに大きな堀切の土橋に木橋が架かり、渡った左側に番所跡、さらに山の中へ進むと相畑木戸跡に石垣、土塁、曲輪跡が見られ、さらに約5分で大松山城と天神丸の分かれ道に着き、右手に進むとすぐに天神社跡の天神丸に着きます。堀切のある左手に約10分進むと大松山城で、小松山城が石垣の城なのに対し、大松山城は土の城で入口入ってすぐに井戸跡、虎口右側に本丸、左側に二の丸、腰曲輪、堀切、三の丸があります。
大松山城入口分かれ道をまっすぐに進むと大池、さらに進んで下っていく途中左側に番所跡の石垣とさらに奥に切通しがある。
帰り道の途中で高梁高校に寄り、玄関前付近の御根小屋城の石垣を見ました。


備中松山城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

仁治元年 (1240) 相模の三浦一族秋庭三郎重信が備中有漢郷に地頭職として入部して大松山に居城を構え、秋庭氏が五代続く。
正慶元年 (元弘二、1332) 備後三好一族の高橋九郎左衛門宗康が入城し、小松山まで城域を拡張して高梁城を松山城と変える。
文和四年 (正平十、1355) 備中守護職高越後守師秀が在城する。
貞治元年 (正平十七、1362) 城代秋庭三郎信盛が足利氏に属し、高師秀を追放して備中守護代となる。
永正六年~元亀二年 (1509-1571) この期間、城主の交代が繰り返され、最初は足利氏の臣上野信孝が守護代として入り、ついで庄為資、次に三村家親、再び庄氏の庄高資、最後に三村家親の子三村元親が城主となり、城域を大松山・天神丸・小松山・前山と全山に広げる。
天正三年五月 (1575) 毛利氏の攻撃を受け、城主元親は松山城を脱出して落ち延びたが、松蓮寺で自刃する。その後は毛利氏の家臣天野五郎左衛門、次いで桂民部大輔が城番を務める。
慶長五年 (1600) 松山城は徳川氏の支配するところとなり、備中総代官として小堀新助正次が入城する。正次が病死後、子の小堀遠江守政一(遠州)が赴任する。
元和三年 (1617) 池田備中守長幸が鳥取から移封されて松山城主となる。
寛永十九年 (1642) 成羽藩主水谷伊勢守勝隆が松山城主となる。
天和元年 (1681) 二代目水谷左京亮勝家が近世城郭に大改修する。現存する天守・二重櫓・三の平櫓東土塀はこの時期の遺構とされる。また、御根小屋の城主居館もこの時期に建てられる。水谷氏が三代続いた後、城主が安藤氏、石川氏と代わり、次に板倉周防守勝澄が伊勢国亀山から移封され城主となる。
文久二年 (1862) 七代勝静が老中職につき、長州征伐の先鋒として出陣する。
明治二年六月 (1869) 八代勝弼のとき版籍奉還、城は陸軍省の所管となる。
明治六年 (1873) 廃城となる。
昭和十四年 (1939) 天守・二重櫓・土塀の解体修理が行われる。


≪ 写 真 ≫


備中松山城現存天守


左側からの現存天守


二の丸からの本丸


本丸と現存天守


本丸


本丸東御門


本丸入口


本丸右側通路


二の丸への登り道


三の丸から見上げる高石垣


現存土塀


大手門から見上げる高石垣


現存二重櫓


後曲輪からの現存二重櫓


後曲輪


深い堀切に架かる土橋(木橋)


相畑木戸跡の土塁跡


天神丸の本丸と出丸の間の堀切


天神丸の天神社跡


大松山城の井戸跡


大松山城本丸跡


大池


番所跡の石垣


切通し


中太鼓丸櫓石垣


下太鼓丸櫓南側石垣


下太鼓丸櫓の井戸跡


下太鼓丸櫓虎口の石垣


御根小屋城の石垣(高梁高校)


現地備中松山城案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR伯備線備中高梁駅から徒歩約20分で城見橋公園。ここからふいご峠までシャトルバス運行。ふいご峠から本丸まで徒歩約60分。
<車>
岡山道賀陽ICで降りて突き当りの三叉路を右折、国道484号を西進、山並みの中を走り抜けた高架ループを下り、急な坂道カーブを降りていき突き当りの三叉路を左折、JR伯備線の高架を越えて、突き当りの警察署北三叉路信号を右折、高梁川沿いに国道180号を北上、川端町三叉路信号を右折、すぐの突き当りを右折、またすぐの三叉路を左折、狭い坂道を川沿いに東進して伯備線の踏切を渡った左側が高梁高校で御根小屋城跡です。そのまま狭い坂道を進み、突き当りの松山城登山口バス停を左折、川沿いに登り続け、道が川を渡り大きく左へ曲ったあと今度は右へ曲がったところに城見橋公園駐車場がある。こからふいご峠までシャトルバス運行。ふいご峠から本丸まで徒歩約60分。


≪ 位置図 ≫

備中松山城


大松山城


御根小屋城(高梁高校)


城見橋公園


紹介したお城の数 213城



別冊歴史REAL 空撮で甦る現存天守12城 (洋泉社MOOK)
クリエーター情報なし
洋泉社




日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社

常山城

2014-05-11 07:10:18 | 岡山県
 常山城

2014/4/26

岡山県玉野市のお城めぐり

 常山合戦で女軍が毛利の大軍と戦った上野氏の居城

≪ お城の概要 ≫

城名: 常山城
よみ: ツネヤマ
別称:
所在地: 岡山県玉野市用吉・宇藤木・岡山市南区迫川
現状: 山
築城年代: 文明年間(1469-87)
築城者: 上野土佐守か
形式: 山城
遺構: 本丸・兵庫丸・北二の丸・北三の丸・天神丸・青木丸・栂尾丸・栂尾二の丸・東二の丸・東三の丸・矢竹丸・矢竹二の丸・馬場・惣門二の丸・惣門丸・石垣・井戸
規模: 200m×300m、標高307m、比高305m
文化財: 市指定史跡
訪城日: 2014/4/26


≪ 訪城記 ≫

岡山城から常山城へ向かう。

烏城公園有料駐車場を出て西側の道を南下、岡山県庁の南、旭川堤防突き当りを右折、あくら通りを約300m西進、県道27号へ出る交差点信号を左折、県道27号を南下、新京橋西交差点信号を右折、国道2号を西進、大雲寺交差点信号を斜め左折、国道2号を南下、十日市三叉路信号を斜め右折、南西に進み笹ヶ瀬川に架かる笹ヶ瀬橋を渡り、国道30号を南西に進み興陽高校前信号付近で道が左に曲がり南下、倉敷川に架かる倉敷川橋を渡り、南区役所口信号付近から道が左に曲がり、次に右に曲がり、また左に曲がった宇藤木交差点信号を右折、大きく右にヘアピンのように曲がったら約800m北西に進み、常山城の案内板のある三叉路を斜め左に山の方に進み、大きく左に曲がり南東へ約360mの道の左側に空き地があり、ここに車を駐車させてもらう。
この先は、現在がけ崩れで通行止めです。

車を止めた空き地から約100m南東に進んだところに案内板のある登山口がある。少し登るとイノシシ除けの柵があり、扉を開けて山へ入る。必ず閉めましょう。
すぐにある小川を越え右側の過ぎbあやしの中に削平地がある。ここから山道を登ること約20分で底無井戸に着く。ここから林道へ出て、約10分で栂尾二の丸の駐車場跡に着く。北側にNTT電波塔にある栂尾丸、駐車場から本丸への登り口に説明板がある。
最初の階段を登ると青木丸、次が天神丸、北三の丸、その上に女軍墓のある北二の丸、その上が本丸で真ん中に城主上野隆徳公之碑と腹切石、西側のへこんだところが池跡、北側に見張台、本丸の南下に兵庫丸がある。
東へ降りていくと東二の丸、東三の丸と竹林の中に小さな郭が続き、次に矢竹丸、矢竹二の丸、馬場、惣門二の丸、先端の惣門丸があり、惣門丸の南東側斜面に石垣跡が残る。


≪ 歴 史 ≫

文明十五年頃 (1483) 児島郡北西部の国人上野氏が代々常山城を居城とする。
天正三年 (1575) 毛利氏に叛旗を翻した三村氏を毛利氏が滅ぼし、最後の拠点となった常山城を大軍で攻撃し、上野隆徳一党を滅亡させた。この常山合戦は上野氏の婦女子も戦いに加わり全滅した凄惨な戦いだった。
天正四年 (1576) 毛利氏は同盟者宇喜多直家に常山城を与え、宇喜多氏重臣戸川秀安が城主となる。
天正七年 (1579) 宇喜多氏が毛利氏を離反して織田方に属すると、翌年、常山城を攻撃するが織田方の救援により帰陣する。
天正九年 (1581) 毛利氏が常山城の東にある麦飯山に陣を敷き、常山城の攻略を図る。この時、宇喜多直家がすでに病死していたため、直家の舎弟の子基家が大将となって合戦となったが、基家は討死したが家臣団の奮戦で毛利氏を撃退する。
天正十年 (1582) 本能寺の変を契機に羽柴秀吉と毛利氏の和睦がなり、常山城は引き続き戸川秀安の居城となる。
慶長三年 (1598) 戸川秀安の死後、子の達安が城主となる。
慶長四年 (1599) 宇喜多家中騒動に与した戸川達安が宇喜多家を退散し、徳川家に預けられる。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の合戦で宇喜多氏が滅亡し、代わって備前国主となった小早川秀秋の重臣伊岐真利が常山城主となる。
慶長八年 (1603) 小早川秀秋の病死による断絶後、代わって備前国主となった池田忠継が常山城を廃城とする。


≪ 写 真 ≫


常山城本丸の城主上野隆徳公碑


腹切石


池跡


見張台


兵庫丸


本丸


北二の丸


北二の丸にある女軍墓


北三の丸


天神丸


青木丸


栂尾丸


東二の丸


東三の丸


矢竹丸


矢竹二の丸


馬場


惣門二の丸


惣門丸


惣門丸南斜面石垣


底無井戸


登城口


現地縄張図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR宇野線常山駅から徒歩約5分で登城口、本丸まで徒歩約50分。
<車>
瀬戸中央道水島ICを降りて県道21号を東進、新稔橋三叉路信号を右折、県道22号を東進、西高崎三叉路信号を左折、県道22号をそのまま進み、七区入口三叉路信号を右折、国道30号を南東に進み、右に曲がり、また左に曲がった宇藤木交差点信号を右折、大きく右にヘアピンのように曲がったら約800m北西に進み、常山城の案内板のある三叉路を斜め左に山の方に進み、大きく左に曲がり南東へ約360mの道の左側に空き地に駐車可能。空き地から約100m南東に進んだところに案内板のある登山口がある。ここから本丸まで徒歩約50分。


≪ 位置図 ≫

常山城


登城口


紹介したお城の数 212城



ビジュアル百科 日本の城1000城 1冊でまるわかり!
大野 信長,加唐 亜紀,有沢 重雄
西東社




岡山戦国物語 (吉備人選書 8)
市川俊介
吉備人出版

岡山城

2014-05-10 06:06:50 | 岡山県
 岡山城

2014/4/26

岡山県岡山市のお城めぐり

 金光氏の居城を宇喜多直家が略奪し、子秀家が近世城郭に大改修した宇喜多氏の居城

 日本100名城

≪ お城の概要 ≫

城名: 岡山城
よみ: オカヤマ
別称: 烏城・金烏城・石山城
所在地: 岡山県岡山市北区丸の内2丁目
現状: 烏城公園
築城年代: 天文元年(1532)頃
築城者: 金光備前
形式: 平山城
遺構: 本段・中の段・下の段・復元天守閣・現存月見櫓・西の丸西手櫓・不明門・廊下門・六十一雁木上門・大納戸櫓跡・小納戸櫓跡・伊部櫓跡・多聞櫓跡・数奇方櫓跡・表書院跡・鉄門跡・大手門跡・内下馬橋・石垣・内堀
規模: 1㎞×1.5km
文化財: 月見櫓、西手櫓=国指定重文、国指定史跡
訪城日: 2011/8/2・2014/4/26


≪ 訪城記 ≫

自宅から岡山城へ向かう。

山陽道岡山ICで降りて国道53号岡山北バイパスを南下、突き当りの三叉路信号を左折、国道53号岡山街道を東進、岡大入口信号の次の岡山県陸上競技場角の三叉路信号を右折、岡山街道を南下、清心町交差点信号を左折、山陽本線高架下をくぐり、岡山地方裁判所角の交差点信号を右折、国道53号柳川筋を南下、柳川交差点信号を左折、城下交差点信号を直進、次の信号を右折、その次の信号を左折、烏城みちを東進、突き当りを右折、林原美術館前の信号を左折してすぐの道の左側に烏城公園有料駐車場がある。ここに車を駐車する。

駐車場の東側が岡山城で内堀沿いに進み、内下馬橋を渡り、大手門跡の桝形虎口を入ると下の段で、大納戸櫓跡の高石垣、通路を北へ歩くと中の段の高石垣で、石垣の積み方が野面積から打込ハギに変わっていき、積まれた時代が違うのが良く分かる。下の段を東へ行くと鉄門跡があり、ここの高石垣と入り組んだ虎口が見ものです。中の段に入り中央に表書院跡、南西隅に大納戸櫓跡、西側中央付近に伊部櫓跡、多聞櫓跡、数奇方櫓跡、北西隅に現存月見櫓、廊下門と西側に小納戸櫓跡、宇喜多期石垣が掘り起こされ露出展示されている。
南東側の不明門から本段に入り、天守閣の礎石、六十一雁木上門、そして北側に復元天守閣、黒い下見板張がとても渋いです。入場料800円です。
廊下門から北側に出て、月見橋を渡り後楽園から旭川越しに見る天守閣も見ごたえがあります。


岡山城の詳細は ……… ここをクリック

≪ 歴 史 ≫

天文元年 (1532) 金川城の松田氏に従う金光備前がこの頃に岡山城を構える。
永禄年間 (1558-70) 金光備前の子宗高が居城する。
元亀元年 (1570) 亀山城の宇喜多直家に金光宗高が謀殺され、城を奪われる。
天正元年 (1573) 宇喜多直家が大改修を行い居城とする。
慶長二年 (1597) 宇喜多直家の子宇喜多秀家が八年の歳月をかけて天守閣を中心とした近世城郭への城普請が完成する。
慶長五年 (1600) 関ヶ原の合戦で宇喜多秀家が滅亡し、代わって備前国の領主となった小早川秀秋の居城となる。
慶長七年 (1602) 小早川秀秋が在城二年で病死して小早川家が断絶する。
慶長八年 (1603) 姫路藩主池田輝政の五男忠継が岡山城主となるが、五歳の幼少であったため兄の利隆が執政代行となる。
慶長十九年 (1614) 池田忠継が城主として居城する。
元和元年 (1615) 池田忠継が病死し、弟の淡路島の洲本城主忠雄が跡を継いで岡山城主となる。
寛永九年 (1632) 池田忠雄が急死して、長男光仲が跡を継ぐが、鳥取城主池田光政と国替えとなり、光政が岡山城主となる。以後、綱政、継政、宗政、治政、斉政、斉敏、慶政、茂政、章政と続き明治維新を迎える。
昭和二十年六月二十九日 (1945) 天守閣が戦災で焼失する。
昭和四十一年十一月三日 (1966) 外観復元で鉄筋コンクリート建ての天守閣が再建される。


≪ 写 真 ≫


岡山城外観復元天守閣


西南側からの天守閣


月見橋からの天守閣


後楽園側からの天守閣


旭川と天守閣


六十一雁木上門


本段東側の高石垣


天守閣から見る本段


天守閣の礎石


不明門


表書院跡


宇喜多期の石垣


現存月見櫓


数奇方櫓跡


多聞櫓跡


大納戸櫓跡


鉄門跡


鉄門付近の虎口


廊下門


廊下門付近から見上げる天守閣


月見櫓下の石垣


中の段下の石垣


中の段西南の石垣


大納戸櫓台の石垣


内下馬門跡の石垣


大手門桝形虎口


内下馬橋


内堀


現地烏城公園案内図(リンク付サムネイル)

≪ アクセス ≫

<公共交通機関>
JR山陽新幹線岡山駅から路面電車「東山行き」で約5分、「城下」下車徒歩約10分。
<車>
山陽道岡山ICで降りて国道53号岡山北バイパスを南下、突き当りの三叉路信号を左折、国道53号岡山街道を東進、岡大入口信号の次の岡山県陸上競技場角の三叉路信号を右折、岡山街道を南下、清心町交差点信号を左折、山陽本線高架下をくぐり、岡山地方裁判所角の交差点信号を右折、国道53号柳川筋を南下、柳川交差点信号を左折、城下交差点信号を直進、次の信号を右折、その次の信号を左折、烏城みちを東進、突き当りを右折、林原美術館前の信号を左折してすぐの道の左側に烏城公園有料駐車場がある。


≪ 位置図 ≫

岡山城(烏城公園)


紹介したお城の数 211城



日本100名城公式ガイドブック―日本の文化遺産「城」を見に行こう (歴史群像シリーズ)
福代徹,日本城郭協会
学習研究社




日本の城 完全名鑑 増補改訂版 (廣済堂ベストムック)
中山良昭
廣済堂出版