夕方頃、洋は大通公園の中を一人で歩いているところを、パトロール中の警官に保護されていた。洋次と家政婦は、テレビ塔下の交番に駆けつけた。
「兄貴っ…!」
洋次は、泣きそうな表情で、洋に抱きついた。
「何で勝手に出て行ったんだよっ…! みんな、心配してたんだぞっ…!」
そう言いながら、ふっと、洋の左手に握られている、薄紫色のライラックの花のついた枝を見た。
〈…そっか、これを見に…〉
この時期、大通公園はちょうどライラックが見頃で、洋は家政婦の独り言を聞いて、一人で見に来たのである。
「兄貴、帰ったらこの花、部屋に飾っておこうな…」
洋次は洋を背負うと、家政婦と一緒にタクシーに乗り込んだ。タクシーで自宅へ向かう途中、洋は窓際からずっと、大通公園やその周辺に咲いているライラックを眺めていた。
「…洋次…」
「…んっ?」
「学校には、もう慣れたの…?」
洋次は、久々に洋の方から話しかけてきたので、多少驚いた。
「…うん、まあ…、何とか…」
「…そう…」
洋が、心なしか笑みを浮かべているように見えた。その表情は、ますます亡くなった母親に似ているように思えた。
自宅に帰ると、竜次と文人が来ていた。その日、宿題のプリントが出たので、届けに来たのである。文人は、ボールのぶつかった跡がまだ赤く腫れていたが、鼻血は止まっていた。
「…沼津君、これ…。宿題は明日までだって言ってたけど、大丈夫…?」
「…うわ~っ、よりによって国語かぁ…。文章問題って、まだよく解らないんだよなぁ~っ…」
出されていたのは、洋次の苦手な国語の文章問題だった(日常的な会話は問題なくても、文法とかはよく解っていなかった)。
「…そう言うと思って…」
文人は、カバンの中から自分のプリントを取り出した。
「…今日の事があるから、先生も宿題は間に合わなくても仕方がないって言ってたけど、もしよかったら、僕のを書き写して…」
だが、洋次は、そのプリントを受け取らなかった。
「ちゃんと自分でやってくから、いいって…。第一、自分でやんないと、いつまでも覚えらんないだろっ…」
洋次は、白紙の方のプリントを受け取ると、自分の部屋へ戻ろうとして階段を昇る時、一旦立ち止まった。
「…眼鏡チビ、今日、怒鳴って悪かったな…。それから、プリントの事、サンキュー…」
洋次はそう言うと、振り向かないまま、部屋へ戻っていった。
帰り道、竜次と文人は、しばらく黙ったままだった。
「…あいつも、いろいろと大変だな…」
「うん…」
文人も、うつむいたままだった。二人は、それ以上会話を交わさず、家路を歩いていた。
翌日、洋次はいつもと変わらず、学校に出てきた。宿題のプリントも、間違いが多かったが、自分でやってきて、担任に提出した。ただ、どことなく、嬉しそうな表情をしていた。
給食時間、竜次が昨日の事を訊き出した。
「兄貴さ、ライラックの花を見に、大通公園まで行ったらしいんだ。今まで、一人で外へ出た事ないのにさ…。そしたら、何か吹っ切れたらしくてさ…。近いうち転校手続きして、学校に通うって気になったらしいんだ…」
洋次は、話しているうち、嬉しさのあまり泣き出しそうな表情になっていた。
「そっか、良かったな…」
竜次は、洋次の頭を思わずなでていた。文人も、洋次の涙が止まらないので、持っていたポケットティッシュを手渡した。洋次はたまらず、声を上げて泣いた。
放課後、洋次が帰ろうとした際、担任に呼ばれて職員室へ行った。職員室には、洋次の父親と洋が来ていたのである。洋は今月中、同じ学校に通う事になった。
結局、この日も竜次と文人の二人で帰る事になった。竜次は、文人を家の前まで送ってから帰っていった。
文人は、自分の部屋に入ると、ベッドの上に寝転がり、昨日、洋次が言っていた言葉を思い出していた。
〈沼津君の言う通りだ…。いつまでも、竜次君に助けてもらってばかりいられない…〉
文人の中で、しばらくの間洋次の言葉が突き刺さったままだった。
〈…いつかは、竜次君と離れてしまうかもしれない…。そうなった時、いつまでも弱虫のままじゃいけないんだっ…!〉
そう思っているうち、文人はある決心をした。
文人は数日後から、二人には一切内緒で、学校から帰ると自主トレーニングを始めた…。
最初は、誰もいない公園の中を、やっとの思いで一周走るのが精一杯で、一週間続くかどうか、文人自身、不安だった。だが、数週間経つと、徐々にペースを掴んできた。文人は、慣れる毎に走る距離を一周ずつ長くしていった。また、握力をつけるため、手首と足首にそれぞれ1キロずつ錘の入っているリストバンドを着けて走った。
自主トレーニングを始めてから数ヶ月経つと、文人が体育の授業で倒れる回数は次第に減っていった。学年ごとのマラソン大会でも、以前は後ろから数えてだいたい10番以内だったのが、リストバンドを着けながら走っている成果が表れ、身が軽くなり、跳び箱や平均台、高跳び、走り幅跳びも出来るようになっていた…。
「兄貴っ…!」
洋次は、泣きそうな表情で、洋に抱きついた。
「何で勝手に出て行ったんだよっ…! みんな、心配してたんだぞっ…!」
そう言いながら、ふっと、洋の左手に握られている、薄紫色のライラックの花のついた枝を見た。
〈…そっか、これを見に…〉
この時期、大通公園はちょうどライラックが見頃で、洋は家政婦の独り言を聞いて、一人で見に来たのである。
「兄貴、帰ったらこの花、部屋に飾っておこうな…」
洋次は洋を背負うと、家政婦と一緒にタクシーに乗り込んだ。タクシーで自宅へ向かう途中、洋は窓際からずっと、大通公園やその周辺に咲いているライラックを眺めていた。
「…洋次…」
「…んっ?」
「学校には、もう慣れたの…?」
洋次は、久々に洋の方から話しかけてきたので、多少驚いた。
「…うん、まあ…、何とか…」
「…そう…」
洋が、心なしか笑みを浮かべているように見えた。その表情は、ますます亡くなった母親に似ているように思えた。
自宅に帰ると、竜次と文人が来ていた。その日、宿題のプリントが出たので、届けに来たのである。文人は、ボールのぶつかった跡がまだ赤く腫れていたが、鼻血は止まっていた。
「…沼津君、これ…。宿題は明日までだって言ってたけど、大丈夫…?」
「…うわ~っ、よりによって国語かぁ…。文章問題って、まだよく解らないんだよなぁ~っ…」
出されていたのは、洋次の苦手な国語の文章問題だった(日常的な会話は問題なくても、文法とかはよく解っていなかった)。
「…そう言うと思って…」
文人は、カバンの中から自分のプリントを取り出した。
「…今日の事があるから、先生も宿題は間に合わなくても仕方がないって言ってたけど、もしよかったら、僕のを書き写して…」
だが、洋次は、そのプリントを受け取らなかった。
「ちゃんと自分でやってくから、いいって…。第一、自分でやんないと、いつまでも覚えらんないだろっ…」
洋次は、白紙の方のプリントを受け取ると、自分の部屋へ戻ろうとして階段を昇る時、一旦立ち止まった。
「…眼鏡チビ、今日、怒鳴って悪かったな…。それから、プリントの事、サンキュー…」
洋次はそう言うと、振り向かないまま、部屋へ戻っていった。
帰り道、竜次と文人は、しばらく黙ったままだった。
「…あいつも、いろいろと大変だな…」
「うん…」
文人も、うつむいたままだった。二人は、それ以上会話を交わさず、家路を歩いていた。
翌日、洋次はいつもと変わらず、学校に出てきた。宿題のプリントも、間違いが多かったが、自分でやってきて、担任に提出した。ただ、どことなく、嬉しそうな表情をしていた。
給食時間、竜次が昨日の事を訊き出した。
「兄貴さ、ライラックの花を見に、大通公園まで行ったらしいんだ。今まで、一人で外へ出た事ないのにさ…。そしたら、何か吹っ切れたらしくてさ…。近いうち転校手続きして、学校に通うって気になったらしいんだ…」
洋次は、話しているうち、嬉しさのあまり泣き出しそうな表情になっていた。
「そっか、良かったな…」
竜次は、洋次の頭を思わずなでていた。文人も、洋次の涙が止まらないので、持っていたポケットティッシュを手渡した。洋次はたまらず、声を上げて泣いた。
放課後、洋次が帰ろうとした際、担任に呼ばれて職員室へ行った。職員室には、洋次の父親と洋が来ていたのである。洋は今月中、同じ学校に通う事になった。
結局、この日も竜次と文人の二人で帰る事になった。竜次は、文人を家の前まで送ってから帰っていった。
文人は、自分の部屋に入ると、ベッドの上に寝転がり、昨日、洋次が言っていた言葉を思い出していた。
〈沼津君の言う通りだ…。いつまでも、竜次君に助けてもらってばかりいられない…〉
文人の中で、しばらくの間洋次の言葉が突き刺さったままだった。
〈…いつかは、竜次君と離れてしまうかもしれない…。そうなった時、いつまでも弱虫のままじゃいけないんだっ…!〉
そう思っているうち、文人はある決心をした。
文人は数日後から、二人には一切内緒で、学校から帰ると自主トレーニングを始めた…。
最初は、誰もいない公園の中を、やっとの思いで一周走るのが精一杯で、一週間続くかどうか、文人自身、不安だった。だが、数週間経つと、徐々にペースを掴んできた。文人は、慣れる毎に走る距離を一周ずつ長くしていった。また、握力をつけるため、手首と足首にそれぞれ1キロずつ錘の入っているリストバンドを着けて走った。
自主トレーニングを始めてから数ヶ月経つと、文人が体育の授業で倒れる回数は次第に減っていった。学年ごとのマラソン大会でも、以前は後ろから数えてだいたい10番以内だったのが、リストバンドを着けながら走っている成果が表れ、身が軽くなり、跳び箱や平均台、高跳び、走り幅跳びも出来るようになっていた…。