<ホテルのテラスからモンブランを望む>
ツールドモンブラン(6):シャモニー(1);雷鳴のラックプラン
(アルパインツアー)
2011年7月16日(土)~24日(日)
第2日目:2011年7月17日(日)
<ハイキング地図>
<シャモニーの朝>
■眠れない夜
私たちが宿泊しているホテルには,残念ながら冷房設備はない.そのためか,少々蒸し暑くて寝苦しい一夜を過ごした.まだ,ツアー2日目.約-7時間の時差は結構辛いものがある.寝ようとしてもなかなか寝付けないし,少しウトウトしたかと思うと,碌でもない夢ばかり見る.その夢も,何時もサラリーマン時代の困っている夢が多い.もうサラリーマンを止めてから四半世紀も経っているのに,相変わらずサラリーマン時代のトラウマが私の体内に巣喰っている.夢の内容は詳しく覚えていないが,どうしようかでやたらに困っているときに,「ハッ・・」と正気に帰る.
「あぁ・・夢で良かった!」
私はドキドキする心臓の鼓動を押さえながら,“良かったな~あ”と旨をなぜ下ろす.こんな状態で1時頃,3時頃の2回も目が覚めてしまう.
結局,まんじりともしないうちに,モーニングコールの6時を迎えてしまう.
完全な寝不足である.しかし,今更どうにもならないので,“エイヤッ”で起床する.
室内の空気は息が詰まりそうなので,ベランダに出る.外は,清々しい冷気が漂っていて,実に清々しい.
東西南北の方角は良く分からないが,ベランダの左手には,モンブラン山に繋がる尾根が朝日に輝いている.かなりの残雪がある.目の前に建っている三角屋根の家が,山並みの前に大きく立ちふさがっているのが残念だが,それでも素晴らしい風景である.
私はノートとボールペンを取り出して,窓から見える風景を大急ぎでスケッチする.
<ホテルから針峰を望む;時間表示はJST>
■早朝の素晴らしい町並み
朝食まで少し時間があるので,同室のF田さんと連れたって,ホテル近くの街を散策する.
ホテルの近くをほんの少し歩いただけだが,遠くの山並みに溶け込むような小綺麗な建物が並んでいて,実に美しい.こんな街に住んでいたら素敵だろうなと想像する.
■バイキング形式の朝食
7時丁度にグラウンドフロアー(つまり1階)の一角にあるレストランに入る.すでに,何人かの同行者が席に着いている.ツアーリーダーのS村さんが目ざとく私たち2人を見つけて,お出で,お出でをする.ツアーリーダーが指定する席に腰をおろす.馬蹄形の椅子が取り囲むテーブルである.まだ名前と顔が一致しないが,母娘の親子で参加している2人,私と同室のF田さん,それにS村さんの5名で一つのテーブルを囲む.
朝食はバイキング形式である.時差のために,何となく食欲がない.
私は頭の中でカロリー計算をしながら,パン,リンゴ,ヨーグルト,オレンジジュース,コーヒーなどを選ぶ.タンパク質が少々足りないことは分かっているが,どうも肉類を食べる気にならない.まあ,無理に肉類を食べることもなかろうと軽く考える.
朝食後,ツアーリーダーのS村さん,同室のF田さんの4人で,暫くの間,コーヒーをすすりながら雑談をする.
<左ページが朝食>
<ケーブル乗り場へ>
■現地ツアーガイドのクリストファさん
朝食後,一旦,部屋に戻る.
今日の予定は,明日から始まるツール・ド・モンブラントレッキングの足慣らしを兼ねて,展望の良いラックプランハイキングを行う予定である.
ツアーリーダーの話によると,今日の天気は余り良くなさそうである.午後からは雪が降るかも知れないとのことなので,念のため,リュックに防寒具と防寒手袋入れる.
8時30分頃,ホテルロビーへ降りる.
ロビーには,今日から最終日までお付き合い頂く現地ガイドのクリストファさんが待っている.私たちがロビーに到着すると,いきなり私に,フランス訛りの英語で,話しかけてくる.
「ツールドモンブランに参加する方々ですか?」
「そうですよ・・でも,すぐにツアーリーダーが来るから,私でなくツアーリーダーと話をして下さい・・」
「そうか・・分かった」
「では,済みませんが,お会いした記念に,ここにサインを下さい・・」
と言いながら,メモ帳に新しいページにサインを頂戴する.
「大きな字でサインして・・」
と言ったのに,私の英語が通じなかったのか,それともサインして貰った字が,彼にとっては大きな字だったのか分からないが.もう少し大きな字でサインして欲しかった.
「お前の名前は何というのか?」
と私に聞く.
「オレの名前? ウラワーヒルって読んでくれ.漢字で私の名前を書くとファミリーネームがフラワーヒルになるよ.でも,ファーストネームは英語にするのが一寸難しいよ.ファーストネームの漢字を分解するとグラス(草),デイ,デイなります.だから,私のフルネームを英語に直せばフラワーヒルグラスディディですね.でも,略してFHで良いですよ・・」
こんな他愛のない話をしている内に全員が集まる.
■専用車でホテルを出発
クリストファから,1人に1袋ずつ行動食が配られる.大きなビニール袋に,ビスケット,チョコレート,ヌガー,干しぶどう,バナナ,など沢山の菓子や乾物が入っている.
「これ,今日一日分ではないよ・・まあ,適当に食べてくれ」
とのことである.行動食をリュックに入れると,リュックはパンパンになる.
8時46分,私たちを乗せた専用車は,ホテルを出発する.
シャモニー市内を北に進んで,8時56分,レプラ(Les Praz)にあるにケーブル乗り場に到着する.朝の内は,青空も覗いていたが,今はすっかり雨雲に覆われている.そして,無情にも雨が降り出す.
ツアーリーダーが,
「・・雨でも,予定通り登りますよ・・」
と断固宣言する.
<雨が降り出す;リフト乗り場前>
<フレジェール行きケーブルカー乗り場>
<雷鳴の中で待機>
■ケーブルカーで標高差813メートルを登る
9時29分,下の駅(Gare,標高1064m)で,ケーブルカーに乗車する.かなり大きい車両である.ただ,車内では何の放送もない.
日本の観光地にあるケーブルカーでは,運転中に周囲の景観,標高差,長さなどを紹介するテープがうるさいほど放送されることが多いような気がする.
雨が次第に強くなる.ケーブルカーの車内にも天井から雨漏りしている.斜度がどの程度有るのか正確には分からないが,かなりの急勾配である.
9時48分,ケーブルカーの上の駅,フレジェール(Chalet de la Flegere,標高1877m)に到着する.下の駅を発車してから所要時間19分で,813メートル登ったことになる.分速約43メートルということになる.上と下の駅の水平距離が分かれば,ケーブルカーの平均斜度が分かるはずだが面倒くさい.
<ケーブルカーに乗車>
■フレジェールに到着
ケーブルカーを降りて,駅前の広場に出る.雨脚がだんだんと強くなる.ツアーリーダーの「断固歩く」の信念に弾き面れる用にして,広場を横切ってリフト乗り場へ向かう.
<フレジェール駅前広場>
■突如雷鳴が轟く
雨脚が強まる中,広場の反対側にあるリフト乗り場へ向かう.
リフト乗り場で,順番待ちをし始めた頃,突如,雷鳴が轟き渡る.どうやら,これから私たちが目指すラックプラン辺りで雷雲が発生しているようである.
運が悪いとはこのことだろう.雨だけならば歩くのは一向に構わないが,雷だけはイヤだ.
雷雲が発生したために,リフトはすぐに運転休止になる.
<リフト乗り場へ向かう>
■休憩所で待機
現地ツアーガイドのクリストファさんの判断で,ケーブルカー駅から,5分ほど坂道を下った所にある休憩所で,コーヒーでも飲みながら,雷雨が収まるのを待つことに決定する.
結構の傾斜の下り坂を歩いて,休憩所に入る.
休憩所の中央に,私たち一行が丁度座れるほどのテーブル席がある.一同雨具を着たまま席に着く.ガイドのおごりか,それともツアー会社の負担か分からないが,とりあえずはコーヒーをご馳走になる.少し寒いので,暖かいコーヒーは有り難い.
コーヒーを飲みながら,自己紹介やら雑談をしながら,ひたすら雷雨が遠ざかるのを待つ.しかし,雨脚は一向に弱まる気配はない.残念.意気消沈.
11時頃,現地ガイドのクリストファさんの判断で,今日のラックプラン行きは中止と決定する.
<昼食そして下山>
■早めの昼食
ラックプラン行きが中止になったので,昼食をどうしようかという相談になる.下山しても全員で食事が出来る適当な場所がない.そこで,少し時間が早いがここで昼食を摂ることに決まる.
クリストファさんがテーブルの上に,次から次へと実に沢山の食べ物を並べ始める.
昨日,空港で購入した食べ物を昼食に充てるつもりでいたので,クリストファさんが提供してくれる食べ物にすっかり驚いてしまう.
多種多様なチーズ,ハム,クスクスとかいう食べ物等々.よくもまあこんなに沢山の食料をリュックに背負ってきたなと感心する.さすがにチーズの本場.さまざまなチーズを賞味させて貰う.また,パンがとても美味しい.多種多様な食材に驚きながら,昼食を楽しむ.
■再びケーブルで下山
11時37分,昼食を終えてリターンステーション(下りケーブル乗場)に戻る.休憩所から,短いけれども結構な急坂を5分ほど登たところにリターンステーションがある.
暫く待ってからケーブルに乗車する.ケーブルに乗車した時間は記録しなかったが,11時51分,下の駅に到着する.下界も相変わらず雨が降っている.
ここから,シャモニーまでは,路線バスを利用して帰るという.
何だか歩き足りない感じが強い私は,ツアーリーダーに,
「ここから歩いて帰っても良いですか?」
と伺う.ツアーリーダーは快諾してくれる.
「では,川沿いの道を歩いて下さい・・・1時間ぐらいでシャモニーに到着すると思いますよ・・」
私に同調して歩きたいという方が男性1人,女性1人,合計3人で,雨の中を散策しながらシャモニーへ戻ることに決める.
<リターンステーションにて> ※時刻表示はJST
(つづく)
「ツールドモンブラン」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/2147523eb4a2b5993866cb19a8bfbbc1
「ツールドモンブラン」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/935b80b494a2d922b3d79caeaec3f5ae
「ツールドモンブラン」の目次
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/4a4c5fb759853b8b140c4d3944095d8c
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[編集後記]
2011年8月15日(月) 晴,猛暑
終戦記念日.
あの日のことを,今でも鮮明に記憶している.私は旧制中学1年生.父は応召で不在.うっかり「応召」なんていう言葉を使ったが,今では死語.大多数の方には分からない単語だろうが,兵隊に行くことである.もともと医師だった父は,軍医として応召していた.
母,兄弟,看護婦など10名ほどが1室に集まって,直立不動の姿勢で玉音放送を聞いた.雑音がひどくて,内容はほとんど聞き取れなかったが,どうやら戦争が終わったらしいということだけは分かった.
この日を境にして,毎日のように飛来していた敵機がバッタリと来なくなった.もともと停電が多かったとはいえ,灯火管制が解かれたので,気分的にも,随分と,ホッとしたことを思い出す.
戦後のひどい食糧難は,それはもう大変なものだった・・・・そんな茫々とした過去の日々を思い出す.
戦後を知る私たちの世代も,そう遠くないうちに,永遠に旅立っていく.今,私の脳裏に刻み込まれている戦争の日々の記憶を,後世に残すべきか,それともこんな忌まわしい記憶は,誰にも伝えずに銀河の遙か彼方へ持ち去ってしまうのがよいのか,いささか迷う所である.
2日前から我が家に居着いている長女と次女の家族,総勢10名で,平和で賑やかな日々を過ごしている.
茫々として,最早,歴史の中でしか扱われなくなった私の青春の日々は,一体,何だったのだろうか.
そんなことを考えている内に,瞬く間に1日が過ぎ去った.
2~3日中に丹沢へ行こう・・・これが今日の結論だ.
(愚痴おわり)