<皇女和宮資料館内部>
[改訂版] 歩いて巡る中山道六十九宿(第7回):第1日目(4):板鼻宿
(五十三次洛遊会)
2012年10月12日(金)~14日(日)
※本稿の初出は2012年10月19日である.
初稿に地図を追加,訂正し,本文の加除修正を行った.
2012年10月12日(金) (つづき)
<ルート地図>
<板鼻宿に入る>
■板鼻宿の概要
板鼻宿は14次の宿場である.資料1(p.36)および資料3(p.93)によれば,1843年(天保14年)現在,板鼻宿の宿内人口1422人.内,男649人,女577人.宿内惣家数312軒.内,本陣1軒,脇本陣1軒,旅籠54軒.
板鼻宿の西を流れる碓氷川は「架橋が禁じられていたため,川留めになることがあり,上野七宿の中で,板鼻宿は最も旅籠が多く栄えた.和宮が泊まられた本陣の書院が残る.双体道祖神が目立ち始める」という.
<板鼻宿詳細地図>
■板鼻川橋を渡る
15時27分,板鼻川橋を渡る.私達は,いよいよ江戸日本橋から14次の宿場,板鼻宿に入る.
<板鼻川橋>
■双体道祖神
板鼻橋を渡ってすぐ,15時28分に,見事な双体道祖神を見付ける.道祖神の向かって右に「享保■■?■神」と刻字した石碑が置かれている.
すでに,2010年6月に踏破済みの軽井沢から長久保辺りまでの旧中仙道で,沢山の双体道祖神に出会っているが,この板鼻宿辺りから双体道祖神が多くなるようである.
資料7には「全国的に広い分布をしているが,甲信越地方,関東地方に多いようである.また,平安時代にはすでに「道祖」という言葉が書物に出てきているという.道祖神の起源は不明.日本に伝来してからは,初期は百太夫信仰や陰陽石信仰となり,民間信仰の神である岐の神と習合した.さらに,岐の神と同神とされる猿田彦神と,その妻といわれる天宇受売命と男女一対の形で習合したりもし,神仏混合で,地蔵信仰とも習合したりしている.このため道祖神は,古代から近世に至るまで時代によって様々な信仰,宗教と融合する.道祖神の「祖」の漢字のつくりの「且」は.甲骨文字,金文体上では男根を表している.これに呼応するように,文字型道祖神では「道」の文字が女性器の形をしているものもある.」という面白い説明がある(一部省略).
<見事な双体道祖神>
■庚申塔
15時35分,庚申塔の前を通過する.
庚申塔の奥にある地蔵が真新しい黄色の衣裳をまとっているのが印象的である.これらの石塔,石仏が近隣の皆様によって大切に守られているに違いない.何かほのぼのとした奥ゆかしさを感じて,心が温まる.
<庚申塔>
■榛名道道標
15時37分,信越本線第9中仙道踏切を渡る.いよいよ板鼻宿の中心部に近付く.
15時38分,踏切から直ぐ先,進行方向右角に石造りの榛名道道標が立っている.この道標の正面には変体仮名(?)で「やわたみち」と刻字してある.資料3(p.93)によれば,この「やわた」は,八幡宮のあった八幡(やわた)のことである.そして.道標の左側には「はるな くさつ いかは」などと刻字されている.文政13年(1830年)に作られたものらしい.
私は数年前に,山学校の同期生と一緒に榛名山に登ったことがある.この道標を眺めながら,不意に榛名山のことを連想する.榛名山に登っていた頃は,街道歩きに熱を入れている自分の今の姿は到底想像できなかった.
人生の成り行きは,実に不思議なものだなと,この道標を眺めながら連想する.でも,一緒に歩いている仲間は,私がこんなことを連想しているとは分からないだろう.そこがまた面白いなと余計なことを,次々と考える.
<榛名道道標>
■板鼻館
だんだんと家並みが街らしくなる.15時41分,「創業以来百有余年板鼻館」というのれんが掛かっている店の前を通過する.
百有余年の文字に惹かれて,とりあえず店の写真を撮ってから通過する.後になって,この店が何を生業にしているのか思い出そうとしても思い出せない.記憶力が衰えている自分に腹を立てる.
<板鼻館>
■称名寺(?)
15時42分,進行方向右手奥に寺院らしい建物が見える.かなり遠くなことと,時間が押してきているので,そこまで行って確かめる気にはならないが,地図で確かめると,どうやら称名寺(?)のようである.
手許の文献や資料では,称名寺の由来などは不明である.
資料3(p.95)によると,称名寺本堂左手に佐野源左衛門手植えのモミジがあったが,今のモミジは曾孫のモミジだという.
佐野源左衛門!? Who? 浅学の私には分からない人物である.資料6によれば.「源左衛門は能の演目『鉢木』の登場人物であるがこれは鎌倉幕府執権だった北条時頼が康元元年(1256年)に病でたおれ、出家したときに自らの地位を隠し諸国を旅したことが記されている太平記や増鏡を元にしたものだとされる。鉢木では雪の日に僧が源左衛門の家に泊にきて貧乏ながらも精一杯のもてなしをし、自分が一族に佐野庄三十余郷の領土を押収されたことを僧に話した。僧が旅立ったその後に幕府から動員命令が下り、源左衛門も駆け付けた。源左衛門は執権に召し出されあの雪の日に泊まった僧が時頼だったことを知り、時頼は一族に押収された佐野庄三十余郷を返し与えさらに家でもてなしたときに使った薪の種類に合わせ、加賀国梅田庄、越中国桜井庄、上野国松井田庄の領土を恩賞として与えた。佐野氏の通し字は「綱」であるが源左衛門の諱にはその字が入っていないこと、本姓が藤原氏にもかかわらず通称に源の字が入っていること、佐野氏の本領は上野国ではなく下野国(現在の栃木県佐野市周辺)であることなどから伝説の人物とされる。なお後継ぎはいると思われているようだ。」
この記事を読んで,私は,
「ああ,あの鉢木の逸話に登場する人物だたのか!」
と改めて驚く.鎌倉に住んでいる私には,『鉢木』は興味のある話である.
事前の調査が不十分だったために,折角の場所を見落としてしまったのは残念.
<称名寺(?)遠望>
■板鼻宿本陣跡
15時45分,板鼻宿本陣跡の案内杭を見付ける.
どうやらここは安中市板鼻公民館のようである.広い駐車場に車が1台停車しているだけで,ひっそりとしている.往時の面影は全く残っていない.
<板鼻宿本陣跡>
<皇女和宮資料館>
■木島本陣跡・皇女和宮資料館
15時47分,皇女和宮資料館に到着する.
もう大分時間が押しているが,折角だから館内を見学することにする.入口に資料館の見学は16時までと書いてあるが,まだ10分ほど時間がある.資料館前の事務所でお願いすると,中年の女性事務員が,資料館入り口の鍵を開けてくれる.
資料館には土足では入れない.私は軽登山靴を履いているので,靴を脱いだり履いたりするのがとても面倒だがやむを得ない.
ちなみに,資料館は無料で見学できる.
<皇女和宮資料館>
■資料館の内部
資料館の内部は畳敷き.和宮に関わりのある資料類が沢山展示されている.見学時間10分では,とても,とても,十分に見学することは無理である.
資料の中に,和宮の等身大の人形と,実際に履いていた履き物が展示されている.これらから推測すると和宮は随分と小柄な方だったようである.
<皇女和宮資料館内部>
<夕暮れの板鼻を行く>
■庚申塔
16時01分,皇女和宮資料館の直ぐ近くにある庚申塔の前を通過する.大きな石石塔が3基並んでいる.石塔の周りは綺麗に整備されている.地元の人が石塔を大切に扱っていることが分かる.
<庚申塔群>
■豊かな川の流れ
16時丁度に,皇女和宮資料館の見学を終える.事務所の窓越しに,お世話になった事務員の方に挨拶をして,中仙道を西へ向かう.
板鼻1丁目付近で,豊かな水をたたえる小川の畔に接する.素晴らしい風景である.音もなく流れる清流に心が和む.
私が俳人ならば,ここで一句作りたいところである.
<豊かな流れに癒される>
■古久屋旅館(十一屋)
16時09分,古久旅館に到着する.今は現代風の建物になっているが,資料4(p.16)によると旧造酒屋の十一屋.ここはその昔の牛宿だった.平時は移動牛馬の泊まる宿で,公儀の乗馬出役の上役人の定宿だった(資料3,p.94).
<古久屋旅館>
■鷹巣神社入口碑・鷹の巣城(板鼻城)
16時10分,自動車道との合流点に鷹巣神社(達筆な崩し字なので私には正確には読めないが・・・)と刻字した石柱の前に到着する.常夜灯や聖徳太子の碑が並ぶ.
地図で確かめると,鷹巣神社の本殿は,ここから西へ少し登った丘の上にあるようだ.
ここから北に数百メートル離れたところに鷹の巣城趾があるらしい.
鷹の巣城(板鼻城)のことは良く分からないが,資料6には,「築城年代は定かではない。永禄年間(1558年~1570年)頃に武田信玄によって築かれたのではないかと推測されている。天正18年(1590年)上杉景勝によって攻め落とされたという。」という記述がある.
<鷹の巣神社の石塔>
<中宿>
■鷹の巣橋を渡る
16時13分,碓氷川に架かる鷹の巣橋を渡る.中仙道は,川の左岸から右岸に変わる.
昔は碓氷川への架橋は許されなかったので,夏は,ここを足による徒歩渡し,冬は仮橋で渡ったという(資料3,p.95).
鷹の巣橋を渡ると中宿である.ここから次の久芳橋を渡るまで約800メートルほどの区間が中宿である.
橋の上から対岸を望むと,夕暮れ迫る丘陵が見える.丘陵の山麓に東邦亜鉛(かな? 社名は良く分からない)の大きな工場が見えている.河川敷には夏草が繁茂している.
<鷹の巣橋を渡る>
■諏訪神社と蓮花寺
地図を見ると,橋を渡り終えたところに諏訪神社があるはずだが,一見,見当たらない.
辺りを子細に眺めると,道の裏手に神社らしい建物が見える.三叉路を南に回り込むと,諏訪神社の境内に入ることができる.手許の資料では諏訪神社の由来は不明.
地図を見ると,諏訪神社のすぐ南に蓮花寺があるはずだが,今回は時間が押しているので参拝は省略する.
蓮花寺は栄西の弟子,栄朝によって開山された.資料3(p.95)によると,栄朝が関東に行脚のとき,ここで野宿した.すると凍り付いた池から突然蓮の花が音を立ててせり上がってきたという伝説がある.この寺には鎌倉時代の作で県指定文化材の栄朝禅師木像が安置されているという.
なお,中宿には無形文化財の糸繰り灯籠人形があるという(資料3,p.95).
この近くに中宿一里塚跡があるはずだが,残念ながら見付けることができない.もしあれば,江戸日本橋から29番目の一里塚である.
<諏訪神社>
■庚申塔・一の宮道分岐
16時27分,大きな庚申塔を通過する.庚申塔の左横には「従是一宮,大日,見ゆる」と書いてある.ここは一の宮道の分岐点でもある.
資料3(p.95)によれば,一の宮は現在の富岡市内にある貫前神社のことである.貫前神社は板鼻南方の山中に位置しているという.
<庚申塔>
■夕暮れの道をトボトボと
夕暮れの中宿をトボトボと西へ進む.途中でY字型の分岐に差し掛かる.左手の道を進めば安中駅までの近道になるが,中仙道はそのまま右側の道を直進する.道の両側には閑静な仕舞た屋が建ち並ぶ.夕暮れが迫っていて西の空だけがヤケに明るい.カラスと一緒に帰ろうかふと思う.
やがて道路は碓氷川の堤防に突き当たる.昔はここから碓氷川を渡って安中宿の入口,下野尻に出たようである.
<夕暮れの中山道>
■道端の道祖神
堤防に突き当たったところで左折して,中山道から外れ,堤防から離れる.ここから安中駅まではあと一息だ.
16時33分,さきほど分岐した近道と合流する.この合流点に道祖神が置かれている.
<道端の道祖神>
■安中駅に到着
16時37分,信越本線安中駅に,無事,到着する.第1日目の今日の歩程はここで終わりである.
大分道草をしながら歩いたが,ほぼ予定通りの時間に到着することができた.
これから,今日の宿泊先のホテルルートイン高崎まで戻ることにする.
<安中駅到着>
(つづく)
[加除修正]
2013/3/13 地図の差し替えと本文の加除修正を行った.
[参考資料]
資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E9%87%8E%E6%BA%90%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
資料6;http://www.hb.pei.jp/shiro/kouzuke/itahana-jyo/
資料7;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E7%A5%96%E7%A5%9E
「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/dad9aa8043dc22f6fcf8547a19b2b3f1
「中山道六十九宿」第6回目の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/d07a6d75e3b121bf37c6d9c3f955e08d
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f2c504db3e3cd72c5eeeb2afdd91942e
「中山道六十九宿」の索引
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b0fff7ecf75b54c3f443aa58cfa9424e
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