<上田駅「特製御弁当」>
趣味三昧;駅弁回顧録:昭和61年上田駅「特製御弁当」
2012年9月7日(金)
※駅弁回顧録のつづき
昭和61年5月11日信越本線上田駅
昭和61年(1985年)の信越本線上田駅の駅弁600円也である.
私は上田にある某高校の卒業生.多分,このときは年に1回開かれる高校同窓会に出席していたと記憶している.
この駅弁の包装紙には「エキゾチックジャパン」という表題が印刷されているのが懐かしい.包装紙を子細に眺めていると,当時はまだ国鉄だったなとか,もう電話番号は局番を含めて10桁になっていたな・・・などが読み取れる.
茫々の昔,それこそ半世紀以上前,終戦の年に,私は旧制中学校に入学した.折角,中学校に入学しても,勤労奉仕の毎日.出征兵士の留守宅農家のお手伝いをしていた.今思えば,仕事の邪魔にこそなれ,ほとんどお手伝いにはならなかったと思う.それでも,私たちを迎え入れてくれた農家では,私たちを優しく扱ってくれた.そしてお昼になると,銀舎利の大きなオムスビをご馳走してくれた.いくら信州でも私は街中の人間.家ではろくなものを食べていなかったので,このオムスビの美味しかったこと.今でも忘れられない.
やがて終戦.それまで威張っていた配属将校が何時の間にか姿を消した.何だか分からないまま,すぐゲンコツを食らわせていた柔道の教師が,豹変して民主主義を言い出した.そして訳の分からないまま,この某中学が某中学併設中学校というますます分からない名前になり,すぐに新制高校に変わった.そして,何となくあこがれていた白線破帽の旧制高校は駅弁大学に変わった.
そんなこんなで,私たちは旧制中学校に入学したつもりだったのに,結局,同じ学校に6年も通うことになり,新制高校の卒業生になった.6年間も同じ括弧に通っていたので,その間に何回もクラス替えがあり,同級生は全員顔見知りになった.
あれから幾星霜.同窓会は和やかに続いたが,今年はそろそろ卆寿.かなりの人数の同級生が旅立ってしまった.残ったものも足腰が弱くなったり,病気がちだったり・・・で,長い間続いた同窓会も,2011年の同窓会を最後に今後は定期的には開かれないことに決まった.
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この駅弁の包装紙を見ていると,遠い遠い昔のことが懐かしく思い出される.
人の一生など,ずいぶんと短く呆気ないもののような気がするが,その一方で,これまで随分と色々なことがあったな・・・随分と長く人間家業を続けて来たもんだなぁ・・とも思えるのである.そして,“多寡が人生されど人生”という感慨を強くする.
残念ながら,駅弁の中身のことは全く覚えていない.
(つづく)
「駅弁回顧録」の前回の記事
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