中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
最初に左下の“カテゴリー”を選んで,クリックして下さい.

歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第1日目(4);壬申の乱と不破関

2012年09月24日 02時43分12秒 | 中山道六十九宿

                              <藤古川を渡る>

 歩いて巡る中山道六十九宿(第14回);第1日目(4);壬申の乱と不破関
         (五十三次洛遊会)
 2012年9月15日(土)~17日(月・敬老の日)

第1日目;2012年9月15日(土)  (つづき)

<松尾周辺案内図>


<現地の案内板より引用>

<歴史舞台の真っ直中を歩く>

■常夜灯
 レストラン「Ibuki」で昼食を終えた私達は,12時43分に再び歩き出す.
 12時55分,立派な常夜灯の前を通過する.

<常夜灯>

■西首塚
 12時57分,常夜灯からほんの少し離れたところにある西首塚に到着する.
 資料6には,「関ヶ原合戦においての死者は両軍合わせて8千人とも言われますが、その戦後、陣場野において首実検を行った家康は、戦場処理を竹中重門に命じました。竹中重門は、豊臣秀吉の軍師として有名な竹中半兵衛重治の子で、当時の関ヶ原の領主です。見舞金を家康から賜った重門は、ここに戦死者の遺体を集めて葬ったそうです。胴塚とも呼ばれています。」という解説がある.
 入口の両側には,多分戦国武将の家紋と思われる幟旗が立っている.どの家紋がどこの武将のものかは調べていないので,今は分からないが,興味深い.

<西首塚>

■井上神社参道
 13時04分,郷社井上神社と刻字された大きな石柱の前を通過する.
 地図を見ると,井上神社の本殿は,写真の路地を南へ約300メートルほど行ったところにあるらしい.残念ながら参拝せずに通過する.
 井上神社について,帰宅後調べてみると,資料7で詳しく解説されている.
 この資料には,井上神社の写真も掲載されているが,なかなか立派で威風堂々の神社である.参拝しなかったのが残念だが,こういうのを後の祭りという.同資料には井上神社の案内板の写真も掲載されている.
 この記事によると,「672年に,ここ藤古川をはさんで西軍の大友皇子(弘文天皇)と東軍の大海人命(天武天皇)の天下分け目の戦がありました.この壬申の乱で,大海人命が大勝利を収めることができたのは,特に地元美濃出身の兵士らが活躍したからだと言われています.この神社は天武天皇を祭っています.一方右岸にある山中,藤下の八幡神社には,弘文天皇が祭られています.」とのことである.
 壬申の乱については,学生時代から日本史で習っている.関東に住んでいる私には壬申の乱があった場所など,ずいぶん遠いところにあって,全く無縁なところだと思っていた.偶然にも(偶然ではないか),日本史の舞台となっている場所を,自分が実際に歩いている・・・これは正に感激である.


<郷社井上神社参道>

■不破関跡道標
 13時04分,「不破関跡 西首塚 福島正則陣跡」案内板の前を通過する.私達は,まさに史跡,遺構の真っ直中,素晴らしい場所にいる.時間があれば,この案内板に出ているすべての場所を歩いてみたい.私に限らず,日本史を習った人なら,だれでもそんな気分になりそうな場所である.
 「・・・でも,まあ,そんなことは一人旅でないと無理だな・・・」
と諦める.フラストレーション.

<魅力的な史跡遺構を示す案内板>

■関ヶ原宿道標
 13時07分,「これより中山道・・・関ヶ原町」と刻字された石柱の前を通過する.この石柱のところで,私達は関ヶ原宿とお別れである.
 関ヶ原周辺の史跡や遺構は,後日,改めて子細に見学したいなと思いながら通過する.

<「これより中山道・・・」の案内杭>

<不破関跡・壬申の乱を偲ぶ>

■不破関・大海皇子の遺構
 13時07分,「不破関の庁舎跡/大海人皇子・・・」の案内板に到着する.折角の機会なので.「壬申の乱」の舞台の一角だけでも見学しておこうということになる.

<不破関案内板>

■不破関席庁跡
 民家の間の狭い草道に入る.こんな所を通って良いのだろうかと心配になる.
 民家の軒下を抜けると夏草が繁茂する広い空き地になる.案内板に従って空き地を左に進む.この辺りが不破関関庁跡のようである.
 近くに立っている案内板の説明によると,この辺りに中心となる建物があったようである.関内の中央を東西に東山道が通っていた.東山道の北側に河原屋根の塀に囲まれていた約1町(108メートル)四方の関庁が設けられていた.内部には庁舎,官舎,雑舎などが建ち並び,周辺土塁には兵舎,食料庫,兵庫,望楼などが建っていたようである.

 
<民家の軒下の草道に入る>                      <不破関関庁跡>

■兜掛石
 この兜掛石は壬申の乱のときに,大海人命が兜を掛けた石だと伝えられてきた.右斜めには皇子が使った靴脱石があるという.

<兜掛石>

■不破関跡
 15時13分,不破関跡に到着する.見事な白壁の塀が連なっている.
 ここは岐阜県と関ヶ原町の史跡に指定されている.
 門の前に掲示されている案内分によると,ここは東山道の美濃不破関.伊勢鈴鹿関および北陸道の越前愛発(あらち)関とともの古代律令制時代の三関の一つとして,672年の壬申の乱遺構に設けられたいう.
 789年(延暦8年)に停廃された後は関守がおかれ,平安時代以降は,多くの文学作品や紀行文にこの関跡の情景が記述されているという.興味あり.




<不破関跡>

■不破関資料館
 15時13分,不破関資料館入口に到着する.公園風になっている.残念ながら通過.入口に「左中山道」と刻字した石柱が立っている.

<不破関資料館入り口>

<藤古川>

■不破関西城門
 13時14分,不破関西城門跡に到着する.深い木立が続いている.道路沿いに案内板が設置されている.この案内板の説明によると,「不破関は藤古川を西限として利用し,左岸の河岸段丘上に主要施設が築造されていた.川面と段丘上との高度差は約10~20メートルの急な崖になっており,また,この辺一帯は,伊吹と養老・南宮山系に挟まれた狭隘な地で,自然の要害を巧みに利用したものであった.ここには大木戸という地名も残っており,「西御門」が合ったとされている」ようである.

<不破関西城門跡>

■藤古川
 13時15分,藤古川を渡る(冒頭の写真).橋の中央に説明文が取り付けられている.
 この説明文には,この川を挟んで壬申の乱があったことが書かれている.

<藤古川を渡る>

<今須宿を目指して>

■大谷吉隆墓
 13時18分,「大谷吉隆墓」と刻字された石柱の前を通過する.
 「大谷吉隆って誰だろう・・?」
 浅学の私には大谷吉隆が分からない.でも,まあ,いいかで写真だけは撮っておく.
 帰宅後,早速調べてみる.
 資料8によれば,大谷吉隆は大谷 吉継(おおたに よしつぐ)のこと.吉継は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名.越前加賀城主であった.業病を患い、面体を白い頭巾で隠して戦った戦国武将として有名である.
 そういえば,この話をどこかで聞いたことがある.なるほど彼の墓があの辺りにあったのかと思うと,にわかに歴史が身近に感じられるようになる.

<大谷吉墓の案内杭>

■矢尻の池
 13時18分,矢尻の池に到着する.直径2~3メートルの石詰みの円い池である.私達がこの池を覗いたときには水はなく,雑草が生えている.
 傍らの案内板の記事によると,壬申の乱のときに,大友皇子の軍勢が,水を求めて矢尻で掘った池だという.今はかすかに名残を止めているに過ぎない.

<矢尻の池>

■弘文天皇御陵候補地
 矢尻の池あたりから長閑な道が続く.
 道路工事現場で,にわか作りの砂利道に入る.そこに弘文天皇御陵候補地という案内板がある.
 資料9には,「672年、壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)は大津の長等山で自害されました。大海人皇子(天武天皇)方の将、村国男依(むらくにのおより)は、その首を持って大海人皇子の本営の不破の野上行宮に凱旋しました。首実検の後、この丘に葬ったと伝えられ、明治時代に弘文天皇の陵墓候補地の一つとされました。三本杉がそのしるしとなっているそうです。」という説明がある.

<弘文天皇御陵候補地>

■長閑で緩い登り坂
 周囲はノンビリとした雰囲気の登り坂である.湿度が少し高いために蒸し暑い.私達は1列になって,緩やかな登り坂を先へ進む.
 この坂道を登り始めた頃,雨が降り出す.

<長閑な雰囲気の街道を行く>

■跨線橋下で雨宿り
 直ぐ止むだろうと期待しているのに雨がますます激しくなる.仕方なく,跨線橋の下に肩を寄せ合って,雨が小止みになるのを待つ.
 これもまた,楽しからずやである.

<軒下で雨宿り>

■若宮八幡神社
 10分ほどで雨脚が弱まる.私達は頃合いを見計らって再び歩き出す.
 13時29分,村社若宮八幡神社に到着する.
 資料10には,「創建年紀不詳。慶長5年9月15日関ヶ原合戦の節破壊す。徳川家康公より当村に御扶持方3000人分。慶長7年正月より同6月まで被下候内を以て同年6月21一日造立す。」という説明がある.
 祭神は応仁天王,神功皇后,仁徳天皇の3柱である.
 社殿は階段を登った奥,離れたところにあるので参道入口で軽く頭を下げただけで通過する.
 59次の今須宿まで,あと僅かである.

<若宮八幡神社>

                                        (つづく)
[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;ウエスト・パブリッシング(編),2008,『中山道を歩く旅』山と渓谷社
資料3;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料4;五街道ウォーク事務局,発行年不詳,『ちゃんと歩ける中山道六十七次』五街道ウォーク事務局
資料5;「岐阜県十七宿散策ガイド」日本歴史街道美濃中山道連合・岐阜県
資料6;http://blog.livedoor.jp/mansaku21/archives/51624188.html
資料7;http://fuwaiin.com/kofun/sekigahara-inoue-jinjya/sekigahara-inoue-jinjya.html
資料8;http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B0%B7%E5%90%89%E7%B6%99
資料9;http://minkara.carview.co.jp/userid/157690/spot/157998/
資料10;http://www.gifu-jinjacho.jp/syosai.php?shrno=2507&shrname=%E2%98%85%E8%8B%A5%E5%AE%AE%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E2%98%85
資料11;「せきがはら巡歴手帖」関ヶ原町役場地域振興課

「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/b262bda73cba23596c1f08d5fcb7d76f
「中山道六十九宿」の次回の記事

http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/63afaca2318196b0600a06c7df3f6815

記事の正確さは保証できません.






最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。