中高年の山旅三昧(その2)

■登山遍歴と鎌倉散策の記録■
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中山道六十九宿巡り(第12回);第2日目(3);十三峠から大湫宿へ

2012年04月29日 10時16分20秒 | 中山道六十九宿

                                     <大湫宿遠望>

    中山道六十九宿巡り(第12回);第2日目(3);十三峠から大湫宿へ
              
(五十三次洛遊会)

           2012年4月6日(金)~8日(月)

第2日目;2012年4月7日(土) 


<大湫宿周辺地図>


※再掲

<引き続き十三峠を行く>

■びあいど坂から曽根松坂へ
 巡礼水を通り過ぎてから,びあいと坂を下る.
 どうやら,われわれが歩いている道は,中山道ゴルフ場を横切るように残されている帯のようなところらしい.所々で木の間からゴルフ場が見えるので,折角の懐古気分が大分阻害されてしまう.
 10時08分,びあいと坂の案内板を通過する.周囲は相変わらず雑木林が続く.辺りには人の気配は全くない.
 10時13分,曽根松坂を示す立派な石碑の前を通過する.
 資料2(p.256)には,「十三峠のお助け水」から800メートルばかりを「曽根松の坂」と言い,赤松が多いと書いてある.また,進行方向右手の少し広いところには,おつるという女性の茶屋があったことから「おつるが茶屋の坂」とも言われていたという.

<びあいと坂>


<曽根松坂の石碑>

■阿波屋の茶屋跡と十三峠地蔵尊
 10時33分,阿波屋の茶屋跡と刻字した立派な石碑に到着する.辺りは一寸した広場になっている.
 近くに「十三峠の三十三所観音石窟」の案内板が立っている.子細に見物する時間はないが,ここには三十三観音の石仏が並んでいるとのことである(資料1,p.46).
 観音堂の近くに立っている案内板によると,この観音仏は人馬の道中安全を祈って建てられたもので,寄進者の中に定飛脚才領中や中馬連中の名もあり,学問上も貴重なものだという.

<阿波屋の茶屋跡>


<三十三観音>

■尻冷しの地蔵尊
 10時18分,尻冷しの地蔵尊に到着する.
 傍らの案内板によると,この地蔵尊の背後に水が湧いていたようである.資料2(p.46 )  によると,別名「お助け清水」とも呼ばれていた.

<尻冷や地蔵尊>

■大湫標識
 10時21分,舗装道路を横切る.十字路の手前に大湫(おおくて)標識が立っている.
 道路を横断して再び土道に入る.ゆるやかな登り坂になる.資料1(p.46)によると,このあたりから「しゃれこうべ坂」が始まるらしい.

<大湫標識のある十字路>

■しゃれこ坂(八町坂)
 10時24分,しゃれこ坂(八町坂)案内石碑に到着する.この辺りは一寸した広場になっていて,奥の方にしゃれこ聖号碑と思われる大きな石塔が立っている.資料1(p.46)に出てくる「しゃれこうべ坂」と,このしゃれこ坂が同じ所を指すのかどうかは,良く分からない.

<しゃれこ坂の石塔>

■山之神坂と童子ヶ根
 10時33分,山之神坂の石塔に到着する.じゃれこ坂が,どこから山之神坂になったのか良く分からないが,相変わらず緩やかな登り坂が続く.
 10時33分,童子ヶ根の石塔を通過する.

<山之神坂>


<童子ヶ根>

<十三峠の終わり>

■寺坂を下る
 10時36分,登り坂の峠に到着する.
 峠に立つと眼下に大湫の集落が見え出す.集落の先に山が見えている.その山麓に見える大きな建物が大湫小学校である.
 ここからの下り坂が寺坂である.

<峠から大湫が見える>

■寺坂の石仏
 寺坂を下りはじめてすぐ右手の土手の上に沢山の石仏が並んでいる.これが寺坂の石仏である.
 資料3(p.47)によると,「倒れた旅人や馬の慰霊と安全祈願のために,大湫宿の伝馬人足や飛脚等が建立した」とあるが,故事来歴が今ひとつ良く分からない.

<寺坂の石仏>

■十三峠の終わり
 寺坂を中程まで下ると,「是より東十三峠」と刻字した石碑が立っている.
 私たちの足かけ2日にわたる十三峠越えも,ここで「終わりである.感無量! 万歳!

<十三峠西側の入口>

<大湫宿>

■大湫宿の概要
 資料2(p.257)によれば,大湫宿の人口は338人,内男170人,女168人.宿内惣家66軒,内本陣1,脇本陣1,旅籠30軒の規模であった(調査年第不詳).
 宗昌寺前の駐車場にある案内図によると,奥手宿の概要は下の図の通りである.


■大湫宿の碑
 10時37分,宗昌寺前に駐車場に到着する.ここが大湫宿の入口である.大湫宿と刻字した石の案内杭が立っている.


■宗昌寺
 駐車場に沿って大きなお寺が建っている.宗昌寺である.
 資料4によれば「宗昌寺の創建は慶長5年(1600),保々宗昌が開いたのが始まりと伝えられている.保々家は関が原の戦いや大坂の陣で徳川方として従軍し,尾張徳川家から300石を安堵された家柄で天正年間(1573~92)に大湫村を開き慶長9年(1604)に中山道の大湫宿が開かれると本陣や問屋,庄屋などを歴任し,分家は脇本陣を勤めた.そのため,宗昌寺も宿場内で重要な地位を占め,いざという時の控え本陣としても利用された.境内には文化11年(1814)に建立された女人講の石碑の他数多くの石造物が建立され当時の繁栄が窺われる.美濃瑞浪三十三霊場第五番札所
」とのことである.
 宗昌寺前の駐車場にある吾妻屋で,暫く休憩を取る.

<宗昌寺全景>


<宗昌寺駐車場の吾妻屋>

■大湫宿に入る
 吾妻屋での休憩を終えてから,寺坂を下る.坂の途中から静かな大湫の町を見下ろすことができる.
 いよいよ大湫宿到着である.

<大湫宿眺望>

■本陣跡
 10時47分,大湫公民館に到着する.大湫の本陣はこの辺りにあったようである.
 館内に入る.中には誰も居ない.仕方なく伝言用紙に,
 「資料を若干頂戴します・・・」
と書いてから,地図やパンフレットを数点頂戴する.
 裏手にある小学校校庭には皇女和宮歌碑があるようだが,見学は省略する.

<大湫公民館>

■白山神社
 10時55分,白山神社参道前を通過する.神社の由来は不明.

<白山神社参道>

■門田屋
 10時55分,立派な姿の門田屋の屋敷をデジカメに収める.手許の文献や資料では,この門田屋のことは全く分からないが,何となく気になる建物である.

<門田屋>

■脇本陣跡
 10時56分,脇本陣跡を通過する.表門と母屋が残っているというが.どれか良く分からないうちに通過してしまう.
 なお,入口の案内板には,脇本陣は部屋数19,畳数153枚,別棟6棟という広大な建物だったが,現在は取り壊されて半分程度の規模になっているが,宿当時を偲ぶ数少ない建物だと書いてある.



■神明神社
 10時56分,神明神社に到着する.
 境内に樹齢1300年余りと呼ばれる杉の大木があるそうである.先を急ぐ私たちは,境内の見学を省略して先を急ぐことにする.

<神明神社>

■観音堂
 やがて大湫の集落を通り抜ける.
 進行方向右手から分岐する坂道を登ったところに観音堂がある.坂道の下に「三十三霊場第4番札所」と書いた案内板がある.
 長い登り坂をわざわざ登るのもシンドイので,坂の下から観音堂の写真を撮る.

<観音堂>

■高札場跡
 10時59分,高札場跡を通過する.資料1(p.156)によると,この高札場は1998年頃復元されたものらしい.

<高札場跡>

■中山道大湫宿の案内板
 11時04分,石柱3本で構成される「中山道大湫宿」の石碑に到着する.
 私たちは,ここで大湫宿とお別れして,いよいよ細久手宿へ向かう.




[参考資料]

資料1;岸本豊,2007,『新版中山道69次を歩く』信濃毎日新聞社
資料2;今井金吾,1994,『今昔中山道独案内』日本交通公社
資料3;五街道ウォーク事務局,発行
年不明,『ちゃんと歩ける中山道六十七宿』
資料4;http://niikai.ganriki.net/gifu/nakasen/oosuki/mune.html


「中山道六十九宿」の前回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/be17a1fb14747bf6203fa4b70a0b206a
「中山道六十九宿」の次回の記事
http://blog.goo.ne.jp/flower-hill_2005/e/f01b0f006392d53da2ff8cf04bdb2fed

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