追分の記事のコメントから、合併における市域の複雑さを知る。
もし、天王追分や昭和を合併していたらどうなっていたんだろうかと。
赤色は大まかに現在の市域を見たもんである。
んで、この地図。
赤色は大まかに現在の市域を見たもんである。
☆潟上吸収(水色)
水色は潟上の大まかな市域であるが、全て合併しているわけとは限らない。
・天王追分、旧金足村合併
・天王追分のみ合併
・昭和のみ合併
多分飯田川や二田まで賄うのはかなり厳しかったかもしれない。
そうなると飯田川は井川あたりに吸収か単独かになるだろう。
また、市域がひろすぎて土崎が飯島金足を丸々吸収して「土崎港市」などにされていたかも。
コレはまた今度だとして、もし最小市域での合併だった場合でもだいぶ地域がかわったはず。
追分や大清水、大久保が秋田市内になり市域が連続していくため開発が変わり、追分線の中央交通が出戸浜までの市営バスに変わり、二田線という路線になったかも。
また、大清水大久保あたりまでの交通も変わり、黒川〜豊川〜井川までが大規模整備された可能性もある。
学校も北中だけでなく等距離な位置に設置され、天王南や羽城はなかったかも。
☆岩城吸収(紫色)
岩城じゃないとこまでくくってます。
いまから20年前に岩城町は秋田市か本荘市かで住民投票までして由利本荘市に合併したが、もしそのときや昔に秋田市についていたら?
今度は新屋の西部地区になるんだけど、新屋〜道川や新屋〜亀田あたりまでの市営バスが走り南営業所や新屋案内所が無くならなかったかもしれない。
また、7号も道川までバイパス化されていたり、内陸道が整備。
学校も下浜道川合同とかあったのではなかろうか。
もともと下浜は秋田市でなく岩城に近い亀田文化。
下浜の成功を見ていたらもあった?
なので、岩城小学校開校時に松ヶ崎小学校も統合させ、かつ、松ヶ崎地区の中学校区も本荘北中から岩城中に変更した経緯があると思います。
羽後亀田駅も、旧本荘市域に立地しますし。
それこそ分町でもしない限りは難しかったのでは?と思います。
下浜は勝手道川と町が鮎川で切られてしまってるのもでかいのでしょうか。
昔の歴史なら追分八丁目よりとは違いますか。
なんか山口県の宇部市と下関市みたいなもんでしょうか。
本荘方面は、秋田中央交通の路線ではないので、AkiCAは不可。せめて、本荘営業所管内でもPayPayを使えるようにするか、回数券の車内販売もしてほしいところですが。
これも、この一帯の廃置分合が秋田市となされなかった故か。
とはいえ、下浜と大正寺は元は由利郡のはずですが…
そうでなくとも使えたかもしれません。
羽後は互換性が…。
下浜大正寺の例がありましたからたぶん岩城もとおもいました。