![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/65/6d/ac3eb780fb96a4036d2214e111114253.jpg)
カズオ・イシグロ 『わたしを離さないで』 ←アマゾンへリンク
これはいつか読まなければ、と思っていたものの、なかなか取りかかれず、タイミングを計っていた。
いざ読み始めてみたら、これが優れた文学作品だった。
実は、イシグロ氏の作品を読むのは初めてだったのだ。
普通なら月並みなSFになりかねないところが、こうも心に沁みる話になってしまう。
それは、主人公の心の動きの描写がとても丁寧だからだ。
設定の掘り下げもとても丁寧だ。
イシグロ氏は男性なのに主人公の若い女の気持ちが本当によく分かるのだなぁ!!
と最初はびっくりした。 もしかして性同一性障害とか?と、一瞬疑ったくらい。
読み始めてすぐに、意味の分からない単語が鍵なのだ、と分かる。
一体どういうことなのか?
その謎を求めて読み進めてしまう。
謎が一つ分かったときの衝撃は大きかった。
(だから、なるべく調べずにこの本を読み始めることをお勧めする。)
その謎に主人公がどのように相対するのか?
いろいろ考えさせてくれる。
ちょっとネットで調べたら、どうやらこの話は恋愛のカテゴリーに入れる人が多いようだ。
わたしはちっともそのように思っていなかったので、びっくりした。
親のいない子の話、と考えることもできる。
そういえば、そういう人たちがどのように感じたり考えたりして成長するのか、
ぜんぜん知らないことに、初めて思い至った。
後述するが、インタビューでイシグロ氏は、この小説を世界的な貧富の差のメタファーと見ることもできる、と述べていた。
わたしはパピーミルについても連想した。 ちょっと 『スカイ・クロラ』 も思い出した。
というように、非常にいろいろな見方、考え方、感じ方の出来る作品なのだ。
そこも、この作品のすぐれた部分だと思う。
この本をわたしは中古で手に入れた。
新聞の切り抜きがはさんであった。
どうやら朝日新聞の切り抜きのようで、この話が映画化され、その記念に来日したときのインタビュー記事のようだ。
「海洋学者の父の都合で5歳の時にイギリスに渡り、1、2年のはずが、気がつけば16、17歳になっていた。
そうなると、言葉の問題などで日本人ではなく、イギリス人として生きるしかなくなった。…」
この言葉に衝撃を受けた。
わたしは小学1年の夏から1年半、父の仕事の都合でアメリカに住み、日本人学校ではなく現地の小学校に通ったのだ。
たった1年半でもずいぶん日本語を忘れ、わたしの中のアイデンティティはすっかりアメリカ人になってしまっていた。
そして帰国して、必死で覚えたはずの英語をどんどん忘れ、日本語を習得したものの、
周囲とすっかりなじむというわけにもいかず (多分に性格の問題だ、と気付いたのはずいぶん後だ)、
心の中では、自分はアメリカ人だ、いつかアメリカに戻る、とずっと思っていた。
しかし中学に入ったころ、いつの間にか自分が日本人になっていたことに、突然 気付いた。
アメリカ人のようなものの考え方はできない、と。
自分は何者なのか? コウモリのような自分がすでにアイデンティティになってしまった。
今も、街の人の考え方のつもりで山村に住みつつ、街に行くと自然と切り離された考え方に戸惑ってしまう。
自分は一体どちら側なのか?
思いもかけず、わたしの根幹を揺さぶられてしまった。
こうなると、イシグロ氏の作品をもっともっと読まないわけにはいかない。
話をもどそう。
人生にはどうにもならないことが沢山ある。
与えられた時間と場所で、自分はどう生きるのか?
あなた方には見苦しい人生を送ってほしくありません。 127p.
説教じみたことが大嫌いなのに、この言葉には素直に心打たれた。
ちーさんの小学生の時の留学(というかなんというか)が及ぼす影響ってやはり大きいのですね。でも自宅では日本語ですよね?それでも外の社会と繋がる為にアイデンティティーを変える必要性が有ると言うことですよね?
どこかに属したい欲求って言うのはやはり誰でも有るのでしょうかね。
この本のこと忘れていたので、読んでみよう。
元から生まれついた性格でこうなのかそうでないのか、自分で区別できない。
向こうにいて、最後の数ヶ月くらいは自宅でもすっかり英語になってましたね。
母が置いてきぼりを食らってましたが。
属したい、とかそういうことを考える能があの年頃にはないと思います。
でもとにかく、学校で置いてきぼりを食らいたくない、というのはすごくあったと思います。
読み終わったら、感想を聞かせてくださいね。