かつて、志津川湾に注ぐ八幡川沿いには、赤、青、黒、茶色と、日に照る屋根の家々が連なっていた。
花や緑も美しかった。
震災後、その町は消えていた。
(2011年10月26日撮影: 八幡川沿いから志津川漁協付近)
あの日(2011年3月11日)、家々を押し流しながら水が上がってきて、海辺の4階以上ある建物も頭を残してみるみる水に浸かってしまう。
過去の津波経験から、町民は地震後に上階へと避難していたが、予想を上回る津波で多くの命が失われた。
志津川病院も、職員の懸命な対応にもかかわらず、津波で失った命に涙を呑む。
(2011年10月26日撮影)
直ぐそばには高野会館がある。
そこでは、客を引き留めて上へ避難。
水に追われて屋上まで行き、みな命拾いした。
(2011年10月26日撮影:志津川病院と高野会館付近)
海から、病院や高野会館よりわずかに奥にある防災庁舎。
屋上に人々が集まる。
だが、容赦なく濁流が3階建ての庁舎の屋上を覆った。
(2011年10月26日撮影:防災庁舎)
水が引いた時、仲間が消えていた。
必死に耐えて助かった人もいた。
(参考:河北新報「私が見た大津波」 /写真集「南三陸から」)
壊れながら残った建物は、そこにあった暮らしと、あの日のすさまじさを物語る。
日々の悲喜こもごも。
濁流が押し寄せ、必死に耐えたあの日あの時。
その後の踏ん張り。
津波後、すでに多くが消えた中、残された建物には、得難い過去の証しと情報が刻まれている。
2018年現在、被災建物の解体や盛土がなされ、道路工事や再建工事などが進められている。
新しく町が作られていく中、何をどのように残せるかが課題。
防災庁舎と高野会館は、対のものと考えて残してくれたらいいのにと思う。
(2017年12月撮影:高野会館)