ふくらく通信

東北人が記す、東北の良さや震災の事、日々のなんだりかんだり。
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あの日の傷跡が教えてくれること:南三陸町

2018-07-03 18:52:54 | 災害について考える

かつて、志津川湾に注ぐ八幡川沿いには、赤、青、黒、茶色と、日に照る屋根の家々が連なっていた。

花や緑も美しかった。

震災後、その町は消えていた。

 

(2011年10月26日撮影: 八幡川沿いから志津川漁協付近)


あの日(2011年3月11日)、家々を押し流しながら水が上がってきて、海辺の4階以上ある建物も頭を残してみるみる水に浸かってしまう。

過去の津波経験から、町民は地震後に上階へと避難していたが、予想を上回る津波で多くの命が失われた。


志津川病院も、職員の懸命な対応にもかかわらず、津波で失った命に涙を呑む。

 

(2011年10月26日撮影)

 

直ぐそばには高野会館がある。

そこでは、客を引き留めて上へ避難。

水に追われて屋上まで行き、みな命拾いした。


 

(2011年10月26日撮影:志津川病院と高野会館付近)

 

海から、病院や高野会館よりわずかに奥にある防災庁舎。

屋上に人々が集まる。

だが、容赦なく濁流が3階建ての庁舎の屋上を覆った。

 

(2011年10月26日撮影:防災庁舎)

水が引いた時、仲間が消えていた。

必死に耐えて助かった人もいた。

 

参考:河北新報「私が見た大津波」 /写真集「南三陸から」)

 


壊れながら残った建物は、そこにあった暮らしと、あの日のすさまじさを物語る。

 

日々の悲喜こもごも。

濁流が押し寄せ、必死に耐えたあの日あの時。

その後の踏ん張り。


津波後、すでに多くが消えた中、残された建物には、得難い過去の証しと情報が刻まれている。


2018年現在、被災建物の解体や盛土がなされ、道路工事や再建工事などが進められている。

新しく町が作られていく中、何をどのように残せるかが課題。

防災庁舎と高野会館は、対のものと考えて残してくれたらいいのにと思う。

(2017年12月撮影:高野会館)