がんばれ福島原発!

福島第二原発の建設から福島第一原発のメンテナンスをしていた経験から、現在苦境にある福島第一原発の現況を分析し、応援します

収束作業 覚悟の苦闘、黙々と続く・・・終わらなかったら・・それでも排水

2011年07月31日 | 原発
原発の安定した冷却機能回復に向け電源復旧という大きな前進がある一方、汚染水問題などトラブルは間欠泉のように噴き出した。

 「一刻も早く事故収束への工程表を作成すべきだ」。放射性物質放出封印策の立案を委ねられた馬淵澄夫首相補佐官が3月26日の就任直後に細野補佐官に直言し、作業が始まった。だが、4月17日に発表された最初の工程表では、作業員への配慮はなかった。

 「これは東電が決めた工程表だ」。この日午前の政府・東電統合本部の関連会合で細野補佐官は強調した。工程表は、馬淵補佐官が強く求めた地下水の汚染拡大防止にも触れておらず、馬淵補佐官は隣の細野補佐官に「俺は何も聞いていない。どうなってんだ」と怒りをぶつけた。

 政府部内でも調整されないまま発表された工程表だったが、収束時期は「原発の冷温停止まで最短で6~9カ月」と記されていた。

 翌18日、Jヴィレッジで、建設業の男性(28)は取材に「明日は朝4時起きだ。いつもより全然早い」と話した。

 従業員数人の小さな建設会社をいわき市で営み、ずっと福島第1原発で働いてきた。家族を避難させ、4月はじめに現場へ戻った。建屋の補修や溶接を担当する。「東電が決めたらその工程で行く。寝ずに作業する人もいるんだ」

 2号機のトンネルにたまった高濃度の汚染水処理もそうだった。東電社員から「菅首相に、3日で終えろと言われた」と聞かされた。排水路の穴をふさぐ作業に従事した。工程表公表に合わせて17日午後1時に排水開始の予定だったが、「かなり無理な作業」だった。元請けに「(予定通り)終わらなかったらどうしますか」と聞くと、「それでも流す」と告げられた。

 原発が立地する大熊町でプラント保守の協力会社を営む50代の社長は工程表の発表をテレビニュースで聞き、こう思った。「1年で収束できれば早いほうだ。それより社員の補償を何とかしてくれ」

 当初から現場に入った社員2人の線量は100ミリシーベルト前後。緊急時の上限として引き上げられた250ミリシーベルトには達していないが、「5年間で100ミリシーベルト」という平常時の数値に達する。「会社がつぶれるまで面倒を見る」と覚悟しているが、100ミリシーベルトを超えれば他の原発では今後5年間働けない。

 事故収束への道筋は、はっきりとは見えず、今後、作業員が足りなくなる恐れもある。「本当は『原発職人』は全国にたくさんいるはずなんですよ。でも会社が出さない。福島で働くと他で仕事ができなくなるからだ。だから、福島で働いた後の救済策を早く決めてもらわないと」

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収束作業 覚悟の苦闘、黙々と続く・・・乾パン、食べてみろ!

2011年07月30日 | 原発
労働環境が一向に改善されない中、海江田万里経産相が4月9日、第1原発視察に訪れた。免震重要棟で作業員を激励し、雨の中、バスから1~4号機を見て回った。滞在時間約40分。下請け会社の工事課長で福島県富岡町出身の男性(41)は怒りを押し殺した。

 「何で現場をきちんと見ないのか。視察に来たら、同じ装備で動いてみろ。味のしない乾パンをぼりぼり食べてみろ」

 自宅は津波に流され、避難先には妻と4歳、1歳の息子がいる。自身が宿泊するいわき市の宿は、同じように家族を残した作業員ら約150人で満杯だ。怖さもあるが、生まれ育った町だ。「地元だし、19歳からこの仕事だし。行かなきゃどうにもなんねえだろう」。そんな気持ちで作業に臨んでいる。

 仕事はタービン建屋の汚染水を移送するホースの設置。全面マスクに軍手を2枚重ね、さらにゴム手袋を2枚。防護服は熱がこもり、まるでサウナスーツだ。マスクの曇りで視界は悪く、恐怖心からか動悸(どうき)もする。一緒に作業する東電社員は「この装備じゃ夏は無理だね」と嘆く。

 「安全神話」には裏切られた思いだが、地元の発展は原発のおかげだとも思う。復旧に汗をかく東電社員の姿も見ている。「東電を責めることはできない」。怒りの矛先は政府に向く。

 「国民のために覚悟を、と菅首相は言ったようだが、作業員だって国民。みんな被災者なんですよ。だけど、国はうちらを国民と思っていないですよ、絶対に」

 4月末までに、自分の周囲にいた100人のうち4割が辞めた。

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収束作業 覚悟の苦闘、黙々と続く・・・家族の写真さえ持ち込めない

2011年07月29日 | 原発
 20日午後3時46分、大震災後初めて、ようやく2号機に外部電源が接続された。だが、肝心の中央制御室に電気が届くには、まだ時間が必要だった。

 原発から北に約20キロの福島県南相馬市に住む東電の男性社員(35)は中央制御室の計器読み取りを担当した。

 電源復旧にあたり、原子炉に変化がないことを確認する。小型発電機で小さな明かりをともし、4、5人ずつのクルーでシフトを組んで4、5時間に1度、薄暗い中で懐中電灯を手に、圧力や水位など約15の計器類の数値を30分ほどで書き取る。計器の電源は自分たちの車のバッテリーだ。

 中央制御室は厚さ約50センチのコンクリートで覆われているため線量は高くないが、事故後、放射線管理区域の中では最高レベルの防備が必要な場所になっていた。「恐怖はあるが、通常やっている操作。そこは落ち着いてできる」

 ただし、作業拠点となる構内の免震重要棟はすし詰め状態で、ベッドはない。床に雑魚寝か、段ボールを敷いて寝た。通電作業に当たる作業員の中には2時間程度しか睡眠をとれない者もいた。食事は乾パンと、水で戻すアルファ米。避難先にいる家族との連絡手段もない。「家族の写真さえ持ち込めない。汚染されてしまうから」

 同県浪江町出身で下請け会社の男性作業員(47)は事故後、ある変化を感じていた。下請けはそれまで東電を「お客さん」と呼び、距離を置いていた。所長が巡回する時はお供の社員が付いてきて「大名行列」のように見えた。20代の東電社員は年配の作業員にも敬語を使わないし、作業も下請け任せ。ところが、ケーブルを引く作業をしていると、東電社員が「手伝います」と言う。

 「こっちがびっくりしたよ」。東電社内には「直営班」と呼ばれる作業班が作られ、社員も現場に出た。協力会社の作業員と一緒に汗を流し、同じように休息をとった。免震重要棟の喫煙所には「ご自由に」と書かれた段ボールに吉田所長が差し入れたたばこが10箱以上置かれた。現場に一体感が生まれ始めた。

 22日午後10時43分、3号機にいた作業員から免震重要棟に電話連絡があった。「中央制御室に通電」。その瞬間、拍手がわき起こり、「明かりがついたぞ」と歓声を上げる作業員もいた。復旧作業は大きな山を一つ越えた。


しかし、それは現場の過酷な労働の上に成り立っていた。

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収束作業 覚悟の苦闘、黙々と続く・・・ターミネータのようだ

2011年07月28日 | 原発
15日朝、2号機と4号機でも爆発が起きた。それでも消火用ポンプ車を使って原子炉内へ海水を注入する必死の冷却作業で最悪の事態は免れていた。

 カギとなる電気の復旧を最優先するため、東電は東京の本店や新潟の柏崎刈羽原発から応援を投入し、16日は約180人、17日には300人余と人員を増やした。東電の中堅社員もそんな一人だ。

 「何とかがんばってくれ」。清水正孝社長(当時)から訓示を受け、着の身着のまま同僚数人とともにワンボックスカーに乗った。家族には心配をかけるだけと報告しなかったが、友人には頼んだ。「2週間たって帰ってこなかったら家族に連絡してくれ」

 次の日の朝、前線基地となっている福島県楢葉町のナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」に到着。現場の線量が高いため1日待機し、翌朝、全面マスクにゴム手袋、長靴、白い布製の防護服姿で現場に車で向かった。最も線量の高い3、4号機付近は猛スピードで走り抜けた。

 構内に着くと、津波で運ばれた車が原子炉建屋の外壁に突き刺さり、サメも打ち上げられている。「空爆でもされた」光景に映った。白装束の自分たちがマスクの「シューッ、シューッ」という音を響かせながら作業していることに現実味がない。まるで未来の終末を描いたSF映画「ターミネーター」のようだと感じた。

 その日は電源復旧のケーブルを夕方までにつなぐ予定だった。ところが途中で「2時間前倒しで終わらせろ」と指令が出た。その時刻から自衛隊が放水を行う、と政府が発表するためと聞かされた。

 「いいかげんにしろ」。現場には不満が渦巻いた。だが、放水時には周囲に人がいないか確かめてはくれない。水は放射性物質で汚染されているかもしれない。無我夢中で予定の作業を終わらせ、すぐに現場を離れると、自衛隊の車両とすれ違った。ぎりぎりのタイミングだった。

 線量計は作業チームに1台しかなく、マスクは何度もずれた。同僚は「多分(放射性物質を)かなり吸っているんじゃないか」と心配した。

 本来は電設担当でもない。それでも思った。「他にやる人間がいない。とにかくやらないといけない」

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収束作業 覚悟の苦闘、黙々と続く・・・俺たちに、ここで死ねっていうことか

2011年07月27日 | 原発
爆発直後に作業員の過酷な状況が掲載されており、現場の逼迫感が伝わって来ます。

今までの報道の中で、本当に良く取材されていると感じました。

是非一読下さい。(毎日新聞より引用)

大地震発生翌日の3月12日午前3時過ぎ。「圧力上昇を続ける1号機の原子炉格納容器から、放射性物質を含んだ水蒸気を放出する」と政府は発表した。50代の東電男性社員はそのことを伝える非常用ラジオのニュースに聴き入った。構内には屋内退避の指示が出されていた。

 「屋内にいるだけで大丈夫なのか。放射線を浴びるとこのまま隔離されるんじゃないか」。一刻も早く逃げたかった。

 菅直人首相が視察のため作業拠点の「免震重要棟」に現れたのは、その日の朝。原発の「頭脳」に当たる中央制御室にいた若手社員(21)は、同僚たちが首相に「何やってんだ。何とかしろ」と怒鳴り散らされたと聞いた。「俺たちに、ここで死ねっていうことか」

 午後3時36分、1号機で最初の水素爆発。協力会社の放射線管理員、松木清隆さん(56)は福島県双葉町の自宅近くにいた。遠くのモニタリングポストから順に警報音が鳴り出し、近づいてくる。すぐそばにあった幅3メートル、高さ2・5メートルほどのモニタリングポストは計測能力を超えたのか、線量ではなく「測定器確認中」と表示された。

 「ああ、フォールアウトした(放射性物質が飛散した)な……」。ふと思った。「双葉は二度と住めない町になるかもしれない」

 2日後の14日午前。3号機と2号機の間にある路上で、作業員数人はケーブル類の点検を終え、車に乗り込もうとしていた。午前11時1分、3号機の爆発。コンクリートの塊が降り、目の前の車2、3台が大破した。「もう少し早く車に乗っていたら俺たちは死んでいた」

 その時、陸上自衛隊の中央特殊武器防護隊隊長、岩熊真司1等陸佐(49)も3号機の冷却水を補給するため部下5人と建屋近くに車を止めていた。とっさに身を伏せたが、がれきが窓や天井を突き破り、防護服が破れた1人は足に傷を負った。

 「歩けるか。急いで離れるぞ」。正門に向かう途中、10人ほどの作業員が集まってきた。歩くのがやっとの人もいる。近くにあったトラックの荷台にけが人を乗せ脱出した。

 悪化するばかりの状況の中、中央制御室の当直員らを除き、協力会社の作業員らを退避させる準備が始まった。官邸にいた細野豪志首相補佐官(現原発事故担当相)からの電話に、現場責任者の吉田昌郎所長(56)は「まだ頑張れる」と答えた。

こんな思いをしても、原発作業員含め現場の人間は、必死で原発を守っていたのに、菅は「俺が行けば大丈夫!」などどたわけた事を言っていたのが、偽らざる事実なのだ!

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