ファイブ・イージー・ピーセス
FIVE EASY PIECES
(1970年 アメリカ 98分)
2009年7月18日から7月24日まで上映
開映時間 10:50 / 14:30 / 18:10
■監督・製作・原作 ボブ・ラフェルソン
■原作・脚本 エイドリアン・ジョイス
■撮影 ラズロ・コヴァックス
■製作総指揮 バート・シュナイダー
■出演 ジャック・ニコルソン/カレン・ブラック/ビリー・グリーン・ブッシュ/ロイス・スミス/ウィリアム・チャーリー/スーザン・アンスパッチ/サリー・ストラザース/リチャード・スタール
■1970年度全米批評家協会賞助演女優賞(ロイス・スミス)/1970年度NY批評家協会賞監督賞、作品賞、助演女優賞(カレン・ブラック)/1970年度ゴールデン・グローブ助演女優賞(カレン・ブラック)
■パンフレット販売なし
★本編はカラーです
970年代アメリカの、苦悩と怒りを見事に描いたアメリカン・ニューシネマの傑作
カリフォルニア南部の石油採掘現場。そこでその日暮しのボビー(ジャック・ニコルソン)が働く。音楽一家で育ったボビーが、なぜ肉体労働に励んでいるのか。クラシックの才能があり、いい生活が約束されていたようなものを、なぜ家を出たのだろうか。
何に対しても積極的な姿勢がなく、女といいかげんに遊び、仕事も適当という怠慢な毎日を送っている。レイ(カレン・ブラック)というウェイトレスと同棲しているが、結婚の約束をしているわけでもなく、妊娠が発覚してもそのスタンスは変わらないのであった。好き勝手に振る舞うボビー、そのボビーに首ったけなレイ。不幸な男ボビーに、不幸な女レイ。いったいこの先どうなってしまうのだろうか。
レイはよく泣く。ボビーの表情には始終苦悩のようなものが付きまとう。自由を求めて旅に出るというのとはまた違い、自分の居場所を見つけられないから転々とし、それが結果的に旅となっているのであった。人生という旅の旅人。
「俺は本物を求めて何物かを探しているのではない。俺がいるとそこが悪くなっていく。悪くなるものから逃げ出すだけだ。俺がいなくなると万事うまくいく。」
このセリフに苦悩がにじみ出ている。
「いい生活なんて吐き気がするだけだ。」
ボビーは言う。
「俺には分からない。」
病める国“アメリカ”の等身大の青年たち。隣の芝生が青く見えるのはどの時代でも、どこにいてもあることだ。そうして次から次へ居場所を変えて、転々とする。それではいけないと薄々感づいていながらも、不器用さからか本質は変わらず、流浪の旅を送ることになるのだ。
“ファイブ・イージー・ピーセス”(五つの易しい曲)が空しく鳴り響く。音楽の本質は心である。悩み苦しんだ分だけ、素敵な音楽を奏でることができるのではないだろうか。だが、ボビーはいつも苦虫をかみつぶしたような顔をしている。幸せを呼び込むにはまず、笑顔、苦しい時にこそ笑顔、そう思うところだ。
はたから見れば何不自由ないという暮らしがボビーにとっては不自由極まりない生活であったに違いない。自由への疾走(失踪?)は続く。
『イージー・ライダー』を製作したBBSプロダクションが、再び『イージー・ライダー』のスタッフ・キャストの数人を起用。『イージー・ライダー』で見つめたアメリカ国内の問題点から、アメリカ人個々の“意識”、“体質”に焦点を合わせる。
かつての純朴なフロンティア・スピリット・マン時代の善き日、善き隣人は、ここには登場しない。そして、もはやマリファナすらも取り上げられないのだ。仕事も、家庭も、愛するということからも離反し、全く無目的なヒーローの登場はアメリカ映画の変遷を知る意味で重要な作品である。
FIVE EASY PIECES
(1970年 アメリカ 98分)
2009年7月18日から7月24日まで上映
開映時間 10:50 / 14:30 / 18:10
■監督・製作・原作 ボブ・ラフェルソン
■原作・脚本 エイドリアン・ジョイス
■撮影 ラズロ・コヴァックス
■製作総指揮 バート・シュナイダー
■出演 ジャック・ニコルソン/カレン・ブラック/ビリー・グリーン・ブッシュ/ロイス・スミス/ウィリアム・チャーリー/スーザン・アンスパッチ/サリー・ストラザース/リチャード・スタール
■1970年度全米批評家協会賞助演女優賞(ロイス・スミス)/1970年度NY批評家協会賞監督賞、作品賞、助演女優賞(カレン・ブラック)/1970年度ゴールデン・グローブ助演女優賞(カレン・ブラック)
■パンフレット販売なし
★本編はカラーです
970年代アメリカの、苦悩と怒りを見事に描いたアメリカン・ニューシネマの傑作
カリフォルニア南部の石油採掘現場。そこでその日暮しのボビー(ジャック・ニコルソン)が働く。音楽一家で育ったボビーが、なぜ肉体労働に励んでいるのか。クラシックの才能があり、いい生活が約束されていたようなものを、なぜ家を出たのだろうか。
何に対しても積極的な姿勢がなく、女といいかげんに遊び、仕事も適当という怠慢な毎日を送っている。レイ(カレン・ブラック)というウェイトレスと同棲しているが、結婚の約束をしているわけでもなく、妊娠が発覚してもそのスタンスは変わらないのであった。好き勝手に振る舞うボビー、そのボビーに首ったけなレイ。不幸な男ボビーに、不幸な女レイ。いったいこの先どうなってしまうのだろうか。
レイはよく泣く。ボビーの表情には始終苦悩のようなものが付きまとう。自由を求めて旅に出るというのとはまた違い、自分の居場所を見つけられないから転々とし、それが結果的に旅となっているのであった。人生という旅の旅人。
「俺は本物を求めて何物かを探しているのではない。俺がいるとそこが悪くなっていく。悪くなるものから逃げ出すだけだ。俺がいなくなると万事うまくいく。」
このセリフに苦悩がにじみ出ている。
「いい生活なんて吐き気がするだけだ。」
ボビーは言う。
「俺には分からない。」
病める国“アメリカ”の等身大の青年たち。隣の芝生が青く見えるのはどの時代でも、どこにいてもあることだ。そうして次から次へ居場所を変えて、転々とする。それではいけないと薄々感づいていながらも、不器用さからか本質は変わらず、流浪の旅を送ることになるのだ。
“ファイブ・イージー・ピーセス”(五つの易しい曲)が空しく鳴り響く。音楽の本質は心である。悩み苦しんだ分だけ、素敵な音楽を奏でることができるのではないだろうか。だが、ボビーはいつも苦虫をかみつぶしたような顔をしている。幸せを呼び込むにはまず、笑顔、苦しい時にこそ笑顔、そう思うところだ。
はたから見れば何不自由ないという暮らしがボビーにとっては不自由極まりない生活であったに違いない。自由への疾走(失踪?)は続く。
『イージー・ライダー』を製作したBBSプロダクションが、再び『イージー・ライダー』のスタッフ・キャストの数人を起用。『イージー・ライダー』で見つめたアメリカ国内の問題点から、アメリカ人個々の“意識”、“体質”に焦点を合わせる。
かつての純朴なフロンティア・スピリット・マン時代の善き日、善き隣人は、ここには登場しない。そして、もはやマリファナすらも取り上げられないのだ。仕事も、家庭も、愛するということからも離反し、全く無目的なヒーローの登場はアメリカ映画の変遷を知る意味で重要な作品である。