先週に続いて、今日も、東京は、秋晴れでした。
東京日和。
腰痛が快復に向かい、一安心しています。
やはり、
首から腰への歪みが原因なようでした。
やはり、日常の姿勢の悪さが指摘されました。(^^;;
いやはや、人生そのものですね。
…

歴史と事実とは、どう、後世に伝え、残されていくものなのだろうか。
過去を描くドキュメンタリー映画やドラマを見る度に、そして、どう伝わるのだろうと、思います。
そして、歴史のホントやウソは、どう判断されるものなのだろう。
近年観たドキュメンタリー映画の中では、この映画は、画期的な手法と手段の、バランスの優れた、とても、真実の伝わる映画でした。
このような出来事とその事実は、いつの時代にも、世界中に、山ほど転がっています。

今も、これからも、山ほど起きる、終わらない事実です。
そして、恥部とは、隠蔽されるのも、また、事実。
2世代三世代後くらいに、とりあえず、憚る人もいなくなった時に、その極一部が表面化を許されるようです。
まるで、バルサンやゴキブリホイホイみたいに、人間が人間を粛清したり、されたりする、その事情が語られます。
粛清される側の、一個人の尊厳など、どこにもありません。
神も仏も、そこには、存在しなかったことは、どう、説明されるのでしょう。
命は、誰のために祈るものなのでしょう。
いったい誰が、命を祈るのでしょう。
矛盾だらけで、わけがわからなくなります。
そして、やりきれないのが、必ず、その背景には、大国の思わくがあり、大国の食い散らかしに群がる、小国達がいることが、静かに見えてくることです。
動物の生態系と、似ているようで全く違うのは、人間だけが、無駄な殺生をすることです。
でも、この映画を製作した監督やスタッフの勇気には、怒れ入りました。
だってまだ、その出来事から日が浅いから、下手人達もまだ現役として、国中に、ウヨウヨしているわけですからね。
以前書いたことがありましたが、ある早大OBのお客さんで、某テレビ局に就職して最初の仕事が、イラン革命取材だったそうです。
大暴動の最中を機材を抱えて、先輩達の
後ろに必死でついて、カメラを向けた瞬間に、兵隊から威嚇射撃され、それだけで恐ろしくて腰が抜けた…そんな話です。^ ^
この映画は、どれくらいの許容範囲で、撮られたドキュメンタリーなのでしょうね。
それだげも、尊敬に値します(^^;;
空を見上げ、雲を眺めながら、よく、思うことがあります。
誰の仕業かわかりませんが、人生とは、ギャンブルです。
人生こそが、ギャンブルなんだと…。
まず、人は、この世に生まれ落ちる時、きっと、最初の賭けをするのだと思います。
その賭けで、いつの時代の、どの世界のどの場所に、どう生まれ落ちるのかが決まり、その賭けで、幸せと、不幸の、色も形も種類も、景色も臭いも決まるのだろうかと…。
その中で、小さな賭けを死ぬまで続けるものなのだと…。
他人様の、人情とすれ違うことが仕事の、飲み屋風情には、そんな例えしか、できません(^^;;
なぜなら、飲み屋風情をやっていると、すれ違う人の数の分だけの人生が、この世にあることを、否応なしに、認めてしまうからなのだと思うのです。
人は誰もが、幻想と空想の中で生きています。
これは例えではなくて、長年、飲み屋風情をやっていると、ある日、それがハッキリとそれが見えてきます。
見え始めてからが、ホントの飲み屋風情として、一人前なのではないのかと、ある時から、思うようになりました。
僕の人生も、最初の賭けで生まれ落ちた、タマタマの人生に過ぎないわけです。
御嶽山の噴火など、まさに、人生の姿、人生の縮図、そのものだと、思いました。
可能性はありと、常識では知りつつも、今日は、絶対大丈夫と、毎年、毎年、多くの登山客で賑わう山での、予期せぬ突然の大噴火に、タマタマ遭遇してしまった登山客がいたのです。
天高く舞い上がった噴煙と、大小砕けた岩や小石が、やがて、弾丸のように空から降り注ぎ、それをまともに受けた人、たまたま逃れられた人、たまたま当たらなかった人…
人生の賭けです。
少しロングで見るならば、
たまたま僕は、戦後70年の中の平和な日本で、生まれ育ったこと。
映画での、1965年あたりは、日本では、70年安保闘争にThe Beatlesに、東京オリンピック等々、日本は、高度成長期の最中です。
そんな時に、インドネシアで、起きていた事実です。

ドキュメンタリー映画に、賛否両論は付き物です。
同時に、賛美と酷評が大きく二分する映画ほど、ドキュメンタリー映画に名作は多いようです。
この映画は、"ゆきゆきて神軍"以来、僕には、久々に腰を感じる、名作ドキュメンタリー映画でした。
東京日和。
腰痛が快復に向かい、一安心しています。
やはり、
首から腰への歪みが原因なようでした。
やはり、日常の姿勢の悪さが指摘されました。(^^;;
いやはや、人生そのものですね。
…

歴史と事実とは、どう、後世に伝え、残されていくものなのだろうか。
過去を描くドキュメンタリー映画やドラマを見る度に、そして、どう伝わるのだろうと、思います。
そして、歴史のホントやウソは、どう判断されるものなのだろう。
近年観たドキュメンタリー映画の中では、この映画は、画期的な手法と手段の、バランスの優れた、とても、真実の伝わる映画でした。
このような出来事とその事実は、いつの時代にも、世界中に、山ほど転がっています。

今も、これからも、山ほど起きる、終わらない事実です。
そして、恥部とは、隠蔽されるのも、また、事実。
2世代三世代後くらいに、とりあえず、憚る人もいなくなった時に、その極一部が表面化を許されるようです。
まるで、バルサンやゴキブリホイホイみたいに、人間が人間を粛清したり、されたりする、その事情が語られます。
粛清される側の、一個人の尊厳など、どこにもありません。
神も仏も、そこには、存在しなかったことは、どう、説明されるのでしょう。
命は、誰のために祈るものなのでしょう。
いったい誰が、命を祈るのでしょう。
矛盾だらけで、わけがわからなくなります。
そして、やりきれないのが、必ず、その背景には、大国の思わくがあり、大国の食い散らかしに群がる、小国達がいることが、静かに見えてくることです。
動物の生態系と、似ているようで全く違うのは、人間だけが、無駄な殺生をすることです。
でも、この映画を製作した監督やスタッフの勇気には、怒れ入りました。
だってまだ、その出来事から日が浅いから、下手人達もまだ現役として、国中に、ウヨウヨしているわけですからね。
以前書いたことがありましたが、ある早大OBのお客さんで、某テレビ局に就職して最初の仕事が、イラン革命取材だったそうです。
大暴動の最中を機材を抱えて、先輩達の
後ろに必死でついて、カメラを向けた瞬間に、兵隊から威嚇射撃され、それだけで恐ろしくて腰が抜けた…そんな話です。^ ^
この映画は、どれくらいの許容範囲で、撮られたドキュメンタリーなのでしょうね。
それだげも、尊敬に値します(^^;;
空を見上げ、雲を眺めながら、よく、思うことがあります。
誰の仕業かわかりませんが、人生とは、ギャンブルです。
人生こそが、ギャンブルなんだと…。
まず、人は、この世に生まれ落ちる時、きっと、最初の賭けをするのだと思います。
その賭けで、いつの時代の、どの世界のどの場所に、どう生まれ落ちるのかが決まり、その賭けで、幸せと、不幸の、色も形も種類も、景色も臭いも決まるのだろうかと…。
その中で、小さな賭けを死ぬまで続けるものなのだと…。
他人様の、人情とすれ違うことが仕事の、飲み屋風情には、そんな例えしか、できません(^^;;
なぜなら、飲み屋風情をやっていると、すれ違う人の数の分だけの人生が、この世にあることを、否応なしに、認めてしまうからなのだと思うのです。
人は誰もが、幻想と空想の中で生きています。
これは例えではなくて、長年、飲み屋風情をやっていると、ある日、それがハッキリとそれが見えてきます。
見え始めてからが、ホントの飲み屋風情として、一人前なのではないのかと、ある時から、思うようになりました。
僕の人生も、最初の賭けで生まれ落ちた、タマタマの人生に過ぎないわけです。
御嶽山の噴火など、まさに、人生の姿、人生の縮図、そのものだと、思いました。
可能性はありと、常識では知りつつも、今日は、絶対大丈夫と、毎年、毎年、多くの登山客で賑わう山での、予期せぬ突然の大噴火に、タマタマ遭遇してしまった登山客がいたのです。
天高く舞い上がった噴煙と、大小砕けた岩や小石が、やがて、弾丸のように空から降り注ぎ、それをまともに受けた人、たまたま逃れられた人、たまたま当たらなかった人…
人生の賭けです。
少しロングで見るならば、
たまたま僕は、戦後70年の中の平和な日本で、生まれ育ったこと。
映画での、1965年あたりは、日本では、70年安保闘争にThe Beatlesに、東京オリンピック等々、日本は、高度成長期の最中です。
そんな時に、インドネシアで、起きていた事実です。

ドキュメンタリー映画に、賛否両論は付き物です。
同時に、賛美と酷評が大きく二分する映画ほど、ドキュメンタリー映画に名作は多いようです。
この映画は、"ゆきゆきて神軍"以来、僕には、久々に腰を感じる、名作ドキュメンタリー映画でした。