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2021年12月8日 水曜 午後0:05
益野 智行FNNロサンゼルス特派員。関西テレビ入社後、大阪府警記者クラブ、神戸支局、災害担当、京都支局などを経て現職。
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「訓練じゃない!本物の攻撃だ」14歳の少女が見た“爆弾降り注ぐ”真珠湾攻撃
太平洋戦争の発端となった1941年12月8日(日本時間)の真珠湾攻撃から80年。
旧日本軍の奇襲によって海底に沈んだ戦艦アリゾナのすぐ近く、爆弾が降り注ぐその場所には約20人の幼い子供たちがいた。惨劇の渦中で子供たちは何を見て何を思ったのか。
アメリカでもあまり知られていない「子供たちの真珠湾」。その貴重な証言が明かされた。
旧日本軍の奇襲によって海底に沈んだ戦艦アリゾナのすぐ近く、爆弾が降り注ぐその場所には約20人の幼い子供たちがいた。惨劇の渦中で子供たちは何を見て何を思ったのか。
アメリカでもあまり知られていない「子供たちの真珠湾」。その貴重な証言が明かされた。
ーーー略ーーー
〇80年経った今、伝えたいこととは
14歳で悲惨な戦争に巻き込まれてしまったカウフマンさん。しかし取材の中で、日本を非難するような言葉を聞くことはなかった。
実はカウフマンさんには開戦前から付き合っていた、同世代の日本人姉妹の友達がいた。姉妹は駐米日本大使の娘たちだった。開戦後は、外交官一家であることから囚人のような扱いではないものの、ホテルに収容され捕虜となっていた。
日本に対する国民感情が悪化していく中、カウフマンさんの母・ミリアムさんは子供たちのためにと、姉妹とのピクニックを計画してくれた。戦争前と変わらず日本人と一緒に遊び親交を深めていったことで、日本を憎むような気持ちにはならなかったという。
パトリシア・ベリンジャー・カウフマンさん:
「日本人の友人一家が収容されているのを聞いた母が、なんとかして連絡を取り『何でも助けになるわ』と言ったのです。私たちは山の上にピクニックに行き、小さいバスケットにいっぱい入ったフライドチキンやゆで卵などを一緒に食べました。子供同士ですから戦争の話はしていません。それは本当に楽しい時間でした。今思うと、母がしてくれたことがどれほど素晴らしいことか分かります。“敵”とのピクニックを計画してくれたのですから。あの時点では戦地に行っていた父が生きているかも分からず、自分たちの家もひどい状況だったのに、母は本当に勇敢な人だったと思います」
今では息子や孫、ひ孫たちに恵まれたカウフマンさん。彼らには何度も真珠湾の経験を語ってきたという。80年経った今、カウフマンさんが伝えたいこととは。
パトリシア・ベリンジャー・カウフマンさん:
「戦争など誰も望んでいません。ただただ心が痛むものです。憎しみ合うのをやめて話をするべきだと思います。日本の人たちはアメリカが長崎や広島にした恐ろしいことに対してアメリカを非難しますし、日本は真珠湾でアメリカに対して同じようなことをしました。全てはそうして起こっているのです。人々がその事実をもっと理解し、お互いを思う気持ちを持つことができればいいと思います」
「戦争など誰も望んでいません。ただただ心が痛むものです。憎しみ合うのをやめて話をするべきだと思います。日本の人たちはアメリカが長崎や広島にした恐ろしいことに対してアメリカを非難しますし、日本は真珠湾でアメリカに対して同じようなことをしました。全てはそうして起こっているのです。人々がその事実をもっと理解し、お互いを思う気持ちを持つことができればいいと思います」