世界標準技術開発フォローアップ市場展開

ガラパゴス化から飛躍:小電力無線IEEE802規格開発会議・・・への寄与活動拡充

“歌う看護師”こと入山アキ子「640日連続」動画公開を行う理由とは?21年12月16日19時00分

2022-05-29 16:18:24 | 連絡
9月に発売した新曲「人生七曲り」
 
が好評の“歌う看護師”こと入山アキ子に、今回の新曲についてと、コロナ禍となった2年前から毎日継続しているYouTubeでの動画配信を行う理由を聞いた。
――『歌う看護師』というキャッチフレーズでもお馴染みの入山アキ子さんですが、そのキャッチフレーズとは対照的な「悪女シリーズ」三部作を経て、歌い手としても新たな一面が開花されました。
また、コロナ禍となった昨年からYouTubeチャンネル「歌う看護師入山アキ子チャンネル」を立ち上げ、毎晩公開される「つれづれ日記」と題した動画をこれまで640日連続(12/15現在)で公開されています。
コンサートやイベントでファンの皆様と会えない中、このような形で2年近くファンの方とコミュニケーションをとっていることに感服いたします。
そういった中でリリースされた新曲「人生七曲り」はどういった曲なのでしょうか?
「めぐり逢いの素晴らしさを歌った優しさがあふれる曲です。
皆様にもきっとある、『あの人に会えたから今がある』といったような、聞いて頂く方それぞれの人生を振り返り寄り添うような曲です」
――カラオケで歌う際には、どのようなことを心がけたらよろしいでしょうか?
「私もこの曲を歌う時に心がけておりますが、思いっきり歌うのではなく、さりげなく皆さんとおしゃべりをするような感じで、言葉を届ける、語るといった感じで歌って頂ければと思います」
 ――カップリングの「義理と人情(なさけ)と愛をのせて」
 

は入山さん自らが作詞をされていて、ミュージックビデオでも自らが車を運転する姿が収められています。こちらはどういった思いで作られたのでしょうか?
「この曲は、今頑張っている方への応援歌という思いで詞を書かせて頂きました。
物流業界に携わっている全国の約3000名のドライバーさんにこれまで応援頂いているので、私も皆さんに何かお返しをさせて頂きたいという思いで制作いたしました」
「私自身もSNSやYouTubeで発信する機会も増え、様々なお声やお手伝いを頂くといったご縁を頂けたので、こういった全国で頑張る皆さんと一緒にこの曲が広がっていくことを期待しています」
――コロナ禍となった昨年の3月頃から、ご自身のYouTubeチャンネル「歌う看護師入山アキ子チャンネル」にて毎日毎晩動画を公開されています。
足掛け2年にわたり毎日動画をアップされていることに改めて驚きましたが、なぜこのような活動をされているのですか?
「コロナ禍の自粛下において、不自由な生活をされている方や、お一人で生活されている方などに、元気や笑顔を取り戻す一歩をお手伝いできればと『つれづれ日記」と題した動画企画始めました。
現在まで640日連続(12/15現在)で動画を配信していますが、毎晩最後に『おやすみなさい』と言うことで、見て頂く方との繋がりを意識しています。
また、インターネットが出来ない方にも、看護師免許を持っていることが活かせる歌い手ですので、こういった動画だけでなく『入山アキ子直接電話相談ホットライン』という、直接会話ができる電話でのコミュニケーションも行っています」
――歌手としての活動もある中、こういった活動は今後も行っていかれるのでしょうか?
「生きるのが辛いときや苦しいときに、誰かに話すことで心がほっとすることもあると思います。
ささやかな皆様とのコミュニケーションツールではありますが、動画の公開や電話相談を必要とされる方がお一人でもいらっしゃる限り継続していきます。すべての人が、元気に笑顔で過ごせますように願っています」
――さて、先日「人生七曲り」のミュージックビデオが撮影された『入間市文化創造アトリエAMIGO!』にて、「オトコウタ」(男性曲)を歌うというアコースティックライブも開催されました。
徐々にではありますが、コンサートやイベントも再開されてきています。来年2022年への抱負をお願いいたします。
 「これまで頂いたすべての曲が私にとって宝物です。
今回の新曲「人生七曲り」は、皆さんの心に寄り添い『看護』が出来る入山アキ子だからこそ歌える曲だと思っていますので、年代関係なく皆さんに愛していただける流行歌になるよう、是非応援の程宜しくお願いいたします」
「また、新たに取り組み始めました『オトコウタ』を歌うという、ピアノでのアコースティックライブを来年は50回行いたいと考えています。
ライブ会場などでリクエスト曲を募っていきますので、是非こちらのライブにも足を運んでいただければと思います」
 彼女の「おやすみなさい」という一言で終わるYouTube動画を2年近く毎晩公開しているという行動力に驚かされたが、『看護師』という経験がある彼女だからこそ、もはやライフワークともなっているこういった活動が続けられるのだろう。
コロナ禍で不安や閉塞感のある時代に、聞く人にやさしく寄り添う「歌も看護も心から」がモットーという彼女の歌に、これからも期待したい。


<看護の日>“歌う看護師”入山アキ子「人を思いやる心や寄り添う気持ちは同じ」歌手活動への想い:インタビュー5/12(木) 7:11配信

2022-05-29 16:08:25 | 連絡
5月12日は、近代看護を築いたフローレンス・ナイチンゲールの誕生日ということで、1990年に「看護の日」として制定された。
また国際的にも、1965年から国際看護師協会はこの日を「国際看護師の日」に定めている。
その「看護の日」にちなみ、『歌う看護師』というキャッチフレーズで活動する歌手の入山アキ子に、これまでの経歴や看護の経験が歌手活動にどのように活かされているか話を聞いた。
 ――入山アキ子さんは現在歌手として活動されていますが、デビューされる前は看護師として勤務されていました。看護師を目指したきっかけは何ですか?  小学生の頃、身体が弱く骨折もしたりしていました。
通院や入院した際に、てきぱきと笑顔で働かれている看護師(当時は看護婦さん)の方がとても心強く憧れました。
自分もあのように働いてお役に立ちたいと思ったことが最初のきっかけです。
 ――看護師として働かれていた頃は、どのようなお仕事をされていましたか? また、どのようなことを心がけていましたか?  
耳鼻咽喉科から始まり、胸部外科(心臓・呼吸器・消化器)で手術を受けられる患者様の入院から退院までの看護を行っていました。
呼吸療法認定士の免許を取得し、術前の呼吸訓練指導や術後の肺合併症予防などに重きを置き、患者様がスムーズに退院されるよう看護計画を立案し実施をしていました。
命をお守りすること、治療処置の安心安全、そして身体のケアのみでなく心のケア、寄り添う看護を心がけていました。
 ――患者さんとのコミュニケーションの中で、何か印象に残る経験や言葉はありましたか?  
患者様からいただく『ありがとう』の一言は魔法の言葉でした。
とても励まされ力をいただきました。
最初は『看護師さん』だったのが『入山さん』と呼ばれるようになることは喜びでした。
夜勤の時、耳元でお好きな歌を歌っていたことで、その頃から『歌う看護師』と呼ばれるようになりました。
 ――現在は歌手として活動されていますが、デビューをするときに葛藤はありましたか?  
命の大切さを歌った曲との出会いがスタートでしたので、看護師を経験した自分の運命、使命だと感じ迷いなく歌の世界に入りました。
人を思いやる心や寄り添う気持ちは同じだと感じています。
 ――デビュー以来、まさに看護師としての経験を活かし施設や病院への訪問を行っています。
これはどのような活動になりますか?   
幸いにも歌いに来て欲しいという声を多く頂きましたので、順番でお待ち頂きながらスケジュールを調整していました。
同僚看護師や上司、医師からの依頼が多く、口コミで広がる中、私が住んでいる関東圏、ふるさとの山口県だけでなく、北海道や沖縄県をはじめ各地で歌いました。
コロナの自粛下では、ライブ配信での生演奏コンサートも行いました。
 ――コロナ禍となった2年前から「入山アキ子のつれづれ日記」と題した生配信を毎日毎晩YouTubeにて行っています。
これはどういった思いで始められたのですか?毎日続けるということは非常に大変なことだと思いますが、「継続するモチベーション」は何ですか? 
 私の後援会にいらっしゃるお一人暮らしの方から『外出ができず一人なので淋しい』という電話がきっかけでした。
同じような思いをされている方に『一人じゃないよ』という気持ちで、『おやすみなさいを言おう』との単純な思いから始めました。
未だ落ち着かない世の中ですが、ご覧下さる方が一人でもいらっしゃる限り続けます。
看護の心はまさに『お一人お一人に』が基本信条ですので、やめるという選択肢はまだございません。 
――今日5月12日は「看護の日」ですが、コロナ禍で大変な医療従事者の方や看護に携わる方にメッセージはありますか?  
コロナ禍の医療現場で奮闘され、命に向き合いご尽力下さっている医療従事者の皆様には感謝しかございません。
想像を超える多くの困難に立ち向かって下さりありがとうございます。
病院外に存在する看護師としてできることとして、感染対策の周知徹底、『健康な方を健康なままに!』を実行致します。
ちなみに月に一度行っている健康講座YouTube ライブは、脳トレ、健康寿命を伸ばすことを目標にしています。
これからも『歌う看護師』として、私のできることを精一杯頑張っていきたいと思います。 (おわり)


(>_<) 5/29(日)小満後8日*、天気痛原因の予想気圧=1気圧との気圧差(kg/㎡):6時/-70、12時/-79、18時/-85、気圧は緩やかに下降し、16時から上昇に転じるか

2022-05-29 08:48:42 | 連絡
*今は24節気の小満、春バテ、菜種梅雨バテ、朝がだるい朝バテ、寒暖差による季節の変わり目バテ、新種のバテが増えていいます。
(^。^)・・・でバテに負けない体へ
〇アプリ「頭痛るzutool」1~7時台のアンケートは、天気痛:
【少し痛い~痛い~かなり痛い】の回答の方が78%、
【普通】の回答」の方が22%。
〇5/29(日)の東京:高気圧に覆われるため、晴れて日差しが照り付けるでしょう。
気温はぐんぐん上がり、都心でも30℃以上の真夏日となり、内陸では35℃以上の猛暑日になる所もありそうです。
まだ5月ですが真夏並みの暑さとなり、体が暑さに慣れていない時期ですので熱中症には十分に注意してください。
気圧はだいたい安定していて、気圧変化による注意はそれほどなさそうですが、暑さには十分に注意してください。
東京の5月の最高気温の観測史上1位は32.6℃、10位は31.2℃。29日の最高気温は31℃の予想で記録に迫る気温になりそうです。
〇気象病、寒暖差疲労=天気痛=の週間予想のサイト
https://setagayanaika.com/blog/category/weather
(出典)
令和 4年(2022) 暦要項、二十四節気および雑節のサイト
https://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/yoko/2022/rekiyou222.html

満月カレンダーのサイト

今日、明日、明後日の天気、気温、気圧及び頭痛の予想サイト
https://zutool.jp/
●今日6時台大田区予想気圧(1気圧との差分、重さ換算)-133.2kg/㎡ 
〇今日6時台大田区実測気圧(1気圧との差分、重さ換算)-196.4kg/㎡
◆1気圧との差分の重さ換算誤差
=100%×(予想気圧ー実測気圧)/実測気圧=-32.2%
(注1)、(注2)、(注3)
(注1)平時・非常災害時の生活安全保障に必需の商品・製品・素材の輸出入に必須の太平洋・インド洋の海洋航路や排他的経済水域・弧状列島域における自由民主主義・普通選挙・議員内閣制・行政府統治下の有権者家族が安全な周囲環境下で1日24時間1年365日間、安心して暮らすために必要な気象要素予想精度向上に不可欠な「モノのインターネットとセンサーネットワーク」開発・商用化に不可欠なヒト・モノ・カネ体制整備支援=公助=政府支出+民間投資=施策(注1.1)を加速か。



(注1.1)「無駄な法律」を一気に変えるデジタル化改革3月29日山田太郎デジタル大臣政務官


(注2)日系(愛媛県)一世米国人「真鍋淑郎さん」が 大気・海洋大循環結合モデル&シミュレーションで2021年ノーベル物理学賞授与、欧州による世界標準規約制定先導と二酸化炭素排出権ビジネス収入拡大=欧州のGDP増大に寄与に対して日本の二酸化炭素排出権輸入費用拡大と国内総生産GDP[=消費+投資+政府支出+(輸出ー輸入)]減少に影響か


(注3)「地球温暖化防止」運動の暴走 ー温暖化は殆ど止まっているにもかかわらずー「気候」学者の研究2020/06/20 赤祖父 俊一 / 田中 博

(>_<) 気象病=天気痛=症状 季節変わり目 群発性頭痛 著名人、週間予想のサイトVer22-01-08


(>_<) 「耳鳴なりがする」・・・は竜巻が近づくサインか
https://www.jma-net.go.jp/sendai/knowledge/kyouiku/yoho/trnd.pdf

(>_<) 天気痛治療、「ひだまりハウス」町亞聖、うつ病・認知症専門医、 天気痛、リラクゼーション体操のサイト
https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/aa9df40c8dc604b45450b897d1876508

(>_<)花粉症 天気痛 漢方、3月24日木曜日、今日の早起きドクター、韋晴明先生④
https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/79ae357141e06548960a0dd603f032b0

(>_<)原因不明の不調は天気のせいだった!? 治療を受けた僕が野球できるようになるまで2022年4月5日クローズアップ現代取材班
https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/14bfb6eb0069526dc92ac12ad66fa6b1

(^。^) 天気痛や介護の予防、元気=免疫力=アップ 「 おおた健康講座」「ダンス」「ぽかぽか竹ツボ体操」「大田区六地蔵尊巡り」のサイトVer22-01-08
https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/02d5e81b061c4e41ed4f16accb9f2e22

(^。^)「あさナビ 」、足裏マッサージ、散歩、歌唱=声帯筋肉・腹筋トレ、縄跳び 2022年4月14日黒木瞳61歳、中村雅俊71歳
https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/ae8d4ce09b5e18cff4a0817aca8b24c9







ボーア人(Boer),ダイヤモンドの発見に大きく係わった人種ボーア人偉大なアフリカの星The Great Star of Africa

2022-05-28 17:30:29 | 連絡



ボーア人(Boer)ダイヤモンドの発見に大きく係わった人種ボーア人
ボーア人は1600年頃から南アフリカを支配したオランダ系移民が土着のアフリカ人となった場合の呼称。


オランダの支配していたケープタウン周辺にだけ住み着いていた白人層と白人層との間に生まれたアフリカ人とのハーフもボーア人と呼ぶ。
ダイヤモンドの加工でも大きな力を持ってい有るオランダがダイヤモンドの産出国の最初の支配者と言うのも興味深い事ですね。
実際3~4世代にわたってアフリカで住暮らしているオランダ人にとっては血はオランダでも祖国はアフリカであってオランダは異国と言っても過言ではない状況だたと推測されます。
1600年頃のオランダによる東インド会社は日本の徳川幕府ともつながりが深く、大坂夏の陣で大阪城の天守を破壊した大砲がオランダ製である事からも、この地を抑える事は以東エリア、インドやタイ、中国など東アジアへの海洋交易の覇権に結びついたことは容易に想像できます。
〇アメリカ独立の余波はアフリカまで波及して世界の覇権を塗り替えた
状況が一変したのは1795年頃から、アメリカの独立戦争の裏で繰り広げられたフランスとイギリスの対立に巻き込まれたオランダは本国では無く本国以外の支配地域(植民地)をイギリスの攻撃によってほとんど失ってしまいます。
事実上壊滅していたオランダ海軍ではイギリスによる海上封鎖と遠隔地攻撃を防ぐ手立てはありませんでした。
オランダはこのタイミングにケープタウンをイギリスに攻め落とされ占領されてしまいます。
8年後の1803年に一度奪還しますが直後の1806年にイギリス軍に再占領され、1815年のウィーン議定書によってケープタウンは正式にイギリス領となるとケープタウンにはイギリス軍艦が押し寄せ、200年以上続いたオランダの支配は終わりを告げます。
移住してきたイギリス人に住む場所を奪われた土着のボーア人は海沿いからアフリカ内陸へ移動を余儀なくされます。
こうしてホープ港の権益はイギリスに奪われてしまったのです。
しかし土着のボーア人達はオランダへ戻る事はしませんでした。
オランダは海軍兵力の回復が出来て居なかったためにアフリカに支配地域が無くボーア人達は行き場を無くします。
そこで沿岸部を諦め住み慣れたアフリカで新天地を求めて内陸へ移動していったのです。
それまでアフリカは文化の無い不毛な地で、内陸にはわずかな農作物と奴隷くらいしか交易品の無い土地だと考えられていました。
実際に文字文化の無いアフリカには広大で不毛な未開の地が広がっているだけと考えられていました。
現在のナミビア(西アフリカ)はドイツ領、東アフリカはポルトガル領と沿岸部は船の補給港として重要な地とされていたのです。
その為イギリスは土着のボーア人が内陸へ移動しオレンジ自由国とトランスバール共和国の2国の独立を指せたことも気にも留めていませんでした
〇金鉱山とダイヤモンド鉱山が発見される
 事態が一変したのは1860年代、オレンジ川のほとりでボーア人の農夫の子供がダイヤモンドの塊を拾います。
そしてそれは立て続けに大きななダイヤモンドの発見となって連鎖します。
最初のダイヤモンドを鑑定士た識者が「オレンジ川周辺には同じようにダイヤモンドが有る可能性が高い」と発言すると、オレンジ川のほとりにはいつしか世界中のトレジャーハンターが大挙して押し寄せるダイヤモンドラッシュが起こります。
ボーア人達がイギリス人に追いやられたアフリカ内陸部はダイヤモンドを含むキンバーライト等の漂砂地域が多く点在していたのです。
しかもトランスバール共和国では金鉱脈まで発見されイギリスをはじめとした欧米列強が見落としたアフリカ内部は地下資源が大量に眠る夢の地である事が判明するのです。
 
〇遂にアフリカでダイヤモンドの鉱脈が見つかる
そしてついに1880年にはダイヤモンドの一次鉱床がオレンジ自由国内で発見されます。
するとイギリスはこれを黙って見過ごすわけにはいかなくなり、ボーア人達に不平等な交易を強制し政治的な圧力をかけると共に支配地域を奪い取ろうと画策しボーア戦争が勃発します。
初代デビアスの総帥でアフリカのナポレオンと呼ばれたセシル・ローズ等の活躍で1902年にはオレンジ自由国とトランスバール共和国はイギリスによってあえなく滅ぼされてしまいます。
の時トランスバール共和国の自治権の存続とは以前の献上物としてイギリス王室に世界最大のダイヤモンド”カリナン”が献上されています。
しかしセシルローズの支配するダイヤモンドのエキスパート・デビアス系では無くボーア人にゆかりのオランダのダイヤモンド加工業社によってカットされ(この加工業者は以前にも歴史的なサイズのダイヤモンド原石エクセルシオールを10分の1以下にクリーピング加工したことが有る)
3,000カラット以上のダイヤモンドは1,000カラット程度のサイズに割られ最終的に530.2ctに加工されてしまいます。(このダイヤモンドは偉大なアフリカの星 【The Great Star of Africa】と呼ばれます。
オレンジ自由国とトランスバール共和国は共に南アフリカ共和国の行政区に取り込まれて地方自治権として存続する事となるのです。
現在も南アフリカの白人層の中にはオランダ人系は多く居てその方たちのルーツはボーア人なのです。


南アフリカ戦争/ブール戦争/ボーア戦争 コナン=ドイル軍医、ウィンストン=チャーチル新聞記者

2022-05-28 15:30:05 | 連絡
ウクライナ戦争の本質はイギリスの独占資本ロシア独裁政権と独裁政権側近特権階級=が、ダイヤモンドと金=小麦穀物・・・資源・黒海航路という資源を獲得するための、帝国主義戦争ロシア独裁主義戦争であった。」か。
::::::::::::::::::::::::::::::::
ーーー1899~1902年、イギリスが南アフリカのオランダ人(ブール人)の二国家を侵略し、併合した帝国主義戦争。ーーー
 
参照ー1:
ボーア人(Boer),ダイヤモンドの発見に大きく係わった人種ボーア人偉大なアフリカの星The Great Star of Africa
https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/8953818e6b5cadeaf9d64046eef0be74

19世紀末、イギリスの帝国主義の対外政策の一つで、南アフリカのイギリス領ケープ植民地の北方に位置するオランダ系入植者の作ったオレンジ自由国・トランスヴァール共和国に対して1899年に軍事攻勢をかけ、1902年までにイギリス植民地に組み込んだ典型的な植民地獲得戦争であった。
また帝国主義によるアフリカ分割を一段と進めることとなった。
 〇ブール人
ブール人とはイギリス人より先に1652年に南アフリカに入植していたオランダ系の白人の子孫のこと。
ナポレオン戦争の時期の1806年にイギリスがケープ植民地を占領して以来、イギリスが支配するようになったため、その支配を避けて北方に移住(グレート=トレックという)し、現地のアフリカ人の土地を奪ってオレンジ自由国・トランスヴァール共和国を建設していた。
その地でダイヤモンドと金が発掘されたことを機に、イギリスは植民地支配をその地に拡大しようとした。
なお、ブール人はかつてはボーア人とも表記されていたが、現在はブール人という表記が正しいとされている(下記参照
〇イギリスとブール人の衝突
オレンジ自由国でダイアモンド鉱が発見されると、イギリスはケープ植民地への併合をねらい、1877年に、まずトランスヴァール共和国の併合を強行した。
それに対してトランスヴァール側の激しい抵抗が起こり、1880年に両軍が衝突した。
これを第一次ブール戦争とする場合もある。ここでブール人は果敢に戦い、1881年2月のマジュバの戦いではイギリス軍が大敗して講和に持ち込まれ、一定の自治を与えることで休戦した。
 〇セシル=ローズの強攻策
 さらに1886年、トランスヴァールに金鉱が発見されると、現地のイギリス人企業家を代表するセシル=ローズは、ケープ植民地首相に就任するとともにイギリス南アフリカ会社(BSAC、東インド会社後に久々に設けられた特許会社)を設立、1890~94年にかけてトランスヴァールの北方の広大な土地に武装した遠征隊を派遣し、ンデベレ人など現地アフリカ人を制圧して強引に領有し、ローデシアを建設した。さらにその地からトランスヴァール介入の機会をうかがい、1895年12月、トランスヴァール内のイギリス人を保護するという名目でジェームソンという人物に軍隊をつけて侵入させた。
しかし、侵入部隊はブール軍によって阻止され、ジェームソンも捕虜となり失敗した。このジェームソン侵入事件という強引な干渉策は内外の批判を浴び、イギリス政府もセシル=ローズを首相の地位から解任せざるを得なくなった
 〇ジョゼフ=チェンバレンの帝国主義政策 
イギリス本国の植民地相であるジョゼフ=チェンバレンは、セシル=ローズのアフリカ植民地拡大策を継承し、ブール人との戦争をもくろんで、盛んに挑発した。チェンバレンによって任命されたケープ植民地首相ミルナーは、トランスヴァールとオレンジ自由国在住のイギリス人に選挙権を与えることを要求、イギリス国内に向かっては両国内のイギリス人が無権利な「奴隷状態」に置かれていると宣伝して、開戦をあおった。
チェンバレンは議会で軍隊増員が認められない場合に備えて、議会の承認の必要のないインド兵を動員し、さらにオーストラリア、ニュージーランド、カナダなどから義勇兵を募集した。 
〇南アフリカ戦争の開始
 トランスヴァール共和国側も戦争は避けられないと判断し、同じブール人の国であるオレンジ自由国と同盟して開戦に備えた。
1899年10月、ついに開戦したこの戦争は、イギリスは当初クリスマスまでに終わらせると考えていたが、想定外に激しい抵抗によって1902年5月までの2年半つづいた。これを南アフリカ戦争と言うが、イギリスでは、南アフリカに定着していたオランダ系白人であるブール人をボーア人と呼んでいたので、この戦争もボーア戦争(またはアングロ=ボーア戦争 Angro-Boer War)と言っていた。
ただし、オランダ系白人は自らをブール人といっており、ボーアはあくまでイギリス側の蔑視が込められた言い方であるので、現在では避けられることが多い。
なお、1880年の衝突を第1次ブール戦争とする場合は、1899年から始まった戦争を第2次ブール戦争とする場合もある。
〇戦争の経緯
 1899年10月に始まった戦争は、1900年9月1日を境として二期に分けられる。
・第一期 華々しい正規軍同士の戦争であり、イギリス軍は「マジュバの復讐」(1881年の第1次戦争でイギリス軍が大敗した戦い)を叫び、ブール軍は侵略阻止、独立維持を掲げて結束した。
ブール軍は機関銃や無煙銃など最新のドイツ製の武器で装備されており、イギリスにとっても近代的な装備を有する軍との最初の戦争(同時期のマフディーの反乱や義和団事変ではまだ鉄砲や槍しかない相手だった)であったため、12月のケープ北方のシュトルムベルクの戦闘では約3千のイギリス軍がわずか800人のブール軍に大敗を喫するなど苦戦した。
予期せぬ大敗に肝をつぶしたイギリス軍部は、総司令官にインド大反乱を鎮圧したことで知られるロバーツ陸軍元帥、参謀長にマフディーの反乱を鎮圧したばかりのキッチナー将軍を任命し、一挙に18万の大軍を派遣した。
これによって態勢を立て直したイギリス軍が攻勢に転じ、翌年3月にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテンを陥落させ、さらに6月にトランスヴァール共和国の首都プレトリアに入城し、9月1日にトランスヴァール併合が宣言されて戦争は終わったかに見えた。 
・第二期 ブール軍は降伏に同意せず、ドゥ=ウェットが編み出したゲリラ戦法で抵抗を続けた。
ゲリラ戦法はナポレオンの侵入に対するスペインの反乱(スペイン独立戦争)の際に用いられたもので、小部隊に分かれイギリス軍の後方を攪乱し、鉄道を破壊して補給路を断つなどの戦術を展開した。
それに対してイギリス軍は、ゲリラの隠れ場所になっているとしてブール人の農家を片端から焼いていくという焦土作戦をとり、さらにゲリラを防止する目的で婦女子も含めてブール人を強制収容所に収容した。
このイギリスの作戦はさらにブール人の反発を強め、イギリスはゲリラを鎮圧するのに時間と費用がかさんでゆき、ようやく国内でも戦争中止の声が起こってきた。ブ
ール人側も抵抗を続けるのは困難であったことから、1902年、プレトリアで講和会議が開かれ、ようやく5月、ブール側は将来の自治の約束は取り付けたが、両国をイギリスが併合することを承認し、戦争が終わった
 戦争は、ブール側は6000人以上の戦死者、2万余の病死者(餓死者を含む)を出し、イギリス側も戦死者6000、戦傷死・戦病死1万6千、戦傷者2万3千を数え、軍事費は2億2300万ポンドにのぼった。これだけの大きな犠牲を払い、ブール人の二つの共和国が地図上から消滅した。
〇戦争の基本的な性格
戦争の本質は、イギリスの独占資本が、ダイヤモンドと金という資源を獲得するための、帝国主義戦争であった。
870年代から顕著となった、帝国主義政策を採る列強によるアフリカ分割の最終局面であり、同時期の米西戦争や、中国分割の進行とともに帝国主義的な世界分割の一部であるということができる。
(引用)一口で言えば、経済的利害の対立が戦争の主要な原因であった。
また、この資源豊かな土地へのイギリス人の略奪的侵入を積極的に推進したのが植民地相ジョセフ=チェンバレンであり、かれが南アフリカで帝国主義戦争を推進した張本人であったことは、いうまでもなかろう。そして、かれの背後には、イギリス独占資本、とりわけ、南アフリカの鉱山業を支配するセシル=ローズ、ヴェルナー、ラッドらの金融資本家の要求があった。この時期はちょうど、植民地が資本の投下地として独占資本の側から見直されはじめていた時期に相応している。
<岡倉登志『ボーア戦争―金とダイヤと帝国主義』1980 教育社歴史新書 p.12 ※同書は1980年の刊行。当時はブールではなく「ボーア」が広く用いられていたので書名、本文でもボーアとなっているが、現在はブールという用語が用いられている。
〇侵略者としてのブール人
 南アフリカ戦争はイギリスの侵略であり、ブール人はその被害者であった。そのため、ブール人に対しては同情的な記述が多い。
しかし、現地アフリカ人から見れば、イギリス人もブール人も侵略者であったことには変わりはない。
このことを押さえておかないと、彼らが白人の支配者として共同で統治することになる南アフリカ連邦とその後継である南アフリカ共和国において、黒人に対する差別と抑圧の典型であるアパルトヘイト政策がとられていくことを見逃すこととなる。
 イギリスとの戦争の最終局面の講和会議で、ブール人は「アフリカ人には選挙権を与えないこと」を条件の一つとして主張し、1902年の講和条約では、「アフリカ人の選挙権付与の問題は自治政体設置後に決定する」とされた。これらは、「ブール人がアフリカ人の政治的進出を恐れていたこと、すなわち、アパルトヘイト政策の源流」であったことをうかがわせる
<岡倉登志『同上』 p.152,175> 
〇南ア戦争の国際的影響
 南アフリカ戦争は、同じ時期のアメリカの米西戦争と同じ帝国主義戦争であった。
イギリス自身は、エジプト南部のスーダンでのマフディーの反乱の鎮圧、フランスとのファショダ事件につづく、アフリカ縦断政策の帰結であった。
しかし、イギリス帝国が、ブール人の小さな国家二つを併合するのに、2年半も要したことは、イギリスの帝国としての権威を大きく失墜させることとなった。
当時すでに工業力でアメリカ合衆国に抜かれており、イギリスの長い低迷の始まりと見ることもできる。
東アジアでは1900年に義和団事変が勃発し、イギリスも北京への共同出兵に踏み切ったが、南アフリカ戦争の継続中であったため、兵力を割くことができず、北京出兵の主力は日本軍とロシア軍にゆだねざるを得ず、事変後にロシアが満州占領から撤退しない状況となると、アジアでの利権を守るためにイギリスの外交の基本であった「光栄ある孤立」政策を改め、1902年に日英同盟を締結することとなる。
〇Episode 捕虜となったチャーチル
南ア戦争には、シャーロック=ホームズの生みの親コナン=ドイルが軍医として参加し、彼はイギリス軍の行動を正当な愛国心の発露であるとして盛んに弁護している。
さらに、後にイギリスの首相となるウィンストン=チャーチルは、このとき弱冠25歳で、新聞記者として従軍した。
1899年11月、前線に向かうチャーチルを乗せた装甲列車がブール軍に攻撃され、チャーチルは一命を取り留めたものの捕虜になってしまった。
ナタールの捕虜収容所に送られたチャーチルは、約1ヶ月後に巧みに脱出し、モザンビークに逃れて助かった。
彼はその体験を記事にして、一躍有名になった。そこで彼は1900年の総選挙で保守党から立候補し、見事初当選し、26歳で政界に身を置くこととなった。現代イギリス最大の政治家チャーチルの誕生は南ア戦争がきっかけだったわけだ。<岡倉登志『同上』 p.186-190>
〇南ア戦争後のイギリス
 南ア戦争は、開戦当初は国民の熱狂的支持をうけた。
しかし当初の予想に反しブール人の頑強な抵抗によって長期化した。
1902年の講和によってイギリスはトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合し、大英帝国の拡張に成功したが、最終的には45万の兵員と2億3千万ポンドの戦費を費やし、巨大な財政赤字と膨大な国債を残して、国家財政を破綻させた。
南ア戦争中の1901年1月にヴィクトリア女王が死去したことは大英帝国の転換を象徴していた。
 南ア戦争後の国家財政破綻から回復するためソールズベリ内閣は輸入穀物への課税を打ち出した。
この保護貿易主義への転換は与党(当時は保守党と自由統一党が合体して統一党と言っていた)を分裂させ、内閣は倒れ、ジョセフ=チェンバレンも辞任した。
チェンバレンはその後も保護貿易政策による財政再建を主張して各地で演説した。
統一党が瓦解したため、1905年に自由党内閣(キャンベル=バナマン首相)、1908年には同じくアスキス内閣が成立し、自由党政権が続く。
しかしこの自由党政権のもとでドイツの帝国主義的膨張に直面し、「自由帝国主義」といわれる自由主義を維持しながら帝国主義政策を展開することとなる。