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ボーア人(Boer),ダイヤモンドの発見に大きく係わった人種ボーア人偉大なアフリカの星The Great Star of Africa

2022-05-28 17:30:29 | 連絡



ボーア人(Boer)ダイヤモンドの発見に大きく係わった人種ボーア人
ボーア人は1600年頃から南アフリカを支配したオランダ系移民が土着のアフリカ人となった場合の呼称。


オランダの支配していたケープタウン周辺にだけ住み着いていた白人層と白人層との間に生まれたアフリカ人とのハーフもボーア人と呼ぶ。
ダイヤモンドの加工でも大きな力を持ってい有るオランダがダイヤモンドの産出国の最初の支配者と言うのも興味深い事ですね。
実際3~4世代にわたってアフリカで住暮らしているオランダ人にとっては血はオランダでも祖国はアフリカであってオランダは異国と言っても過言ではない状況だたと推測されます。
1600年頃のオランダによる東インド会社は日本の徳川幕府ともつながりが深く、大坂夏の陣で大阪城の天守を破壊した大砲がオランダ製である事からも、この地を抑える事は以東エリア、インドやタイ、中国など東アジアへの海洋交易の覇権に結びついたことは容易に想像できます。
〇アメリカ独立の余波はアフリカまで波及して世界の覇権を塗り替えた
状況が一変したのは1795年頃から、アメリカの独立戦争の裏で繰り広げられたフランスとイギリスの対立に巻き込まれたオランダは本国では無く本国以外の支配地域(植民地)をイギリスの攻撃によってほとんど失ってしまいます。
事実上壊滅していたオランダ海軍ではイギリスによる海上封鎖と遠隔地攻撃を防ぐ手立てはありませんでした。
オランダはこのタイミングにケープタウンをイギリスに攻め落とされ占領されてしまいます。
8年後の1803年に一度奪還しますが直後の1806年にイギリス軍に再占領され、1815年のウィーン議定書によってケープタウンは正式にイギリス領となるとケープタウンにはイギリス軍艦が押し寄せ、200年以上続いたオランダの支配は終わりを告げます。
移住してきたイギリス人に住む場所を奪われた土着のボーア人は海沿いからアフリカ内陸へ移動を余儀なくされます。
こうしてホープ港の権益はイギリスに奪われてしまったのです。
しかし土着のボーア人達はオランダへ戻る事はしませんでした。
オランダは海軍兵力の回復が出来て居なかったためにアフリカに支配地域が無くボーア人達は行き場を無くします。
そこで沿岸部を諦め住み慣れたアフリカで新天地を求めて内陸へ移動していったのです。
それまでアフリカは文化の無い不毛な地で、内陸にはわずかな農作物と奴隷くらいしか交易品の無い土地だと考えられていました。
実際に文字文化の無いアフリカには広大で不毛な未開の地が広がっているだけと考えられていました。
現在のナミビア(西アフリカ)はドイツ領、東アフリカはポルトガル領と沿岸部は船の補給港として重要な地とされていたのです。
その為イギリスは土着のボーア人が内陸へ移動しオレンジ自由国とトランスバール共和国の2国の独立を指せたことも気にも留めていませんでした
〇金鉱山とダイヤモンド鉱山が発見される
 事態が一変したのは1860年代、オレンジ川のほとりでボーア人の農夫の子供がダイヤモンドの塊を拾います。
そしてそれは立て続けに大きななダイヤモンドの発見となって連鎖します。
最初のダイヤモンドを鑑定士た識者が「オレンジ川周辺には同じようにダイヤモンドが有る可能性が高い」と発言すると、オレンジ川のほとりにはいつしか世界中のトレジャーハンターが大挙して押し寄せるダイヤモンドラッシュが起こります。
ボーア人達がイギリス人に追いやられたアフリカ内陸部はダイヤモンドを含むキンバーライト等の漂砂地域が多く点在していたのです。
しかもトランスバール共和国では金鉱脈まで発見されイギリスをはじめとした欧米列強が見落としたアフリカ内部は地下資源が大量に眠る夢の地である事が判明するのです。
 
〇遂にアフリカでダイヤモンドの鉱脈が見つかる
そしてついに1880年にはダイヤモンドの一次鉱床がオレンジ自由国内で発見されます。
するとイギリスはこれを黙って見過ごすわけにはいかなくなり、ボーア人達に不平等な交易を強制し政治的な圧力をかけると共に支配地域を奪い取ろうと画策しボーア戦争が勃発します。
初代デビアスの総帥でアフリカのナポレオンと呼ばれたセシル・ローズ等の活躍で1902年にはオレンジ自由国とトランスバール共和国はイギリスによってあえなく滅ぼされてしまいます。
の時トランスバール共和国の自治権の存続とは以前の献上物としてイギリス王室に世界最大のダイヤモンド”カリナン”が献上されています。
しかしセシルローズの支配するダイヤモンドのエキスパート・デビアス系では無くボーア人にゆかりのオランダのダイヤモンド加工業社によってカットされ(この加工業者は以前にも歴史的なサイズのダイヤモンド原石エクセルシオールを10分の1以下にクリーピング加工したことが有る)
3,000カラット以上のダイヤモンドは1,000カラット程度のサイズに割られ最終的に530.2ctに加工されてしまいます。(このダイヤモンドは偉大なアフリカの星 【The Great Star of Africa】と呼ばれます。
オレンジ自由国とトランスバール共和国は共に南アフリカ共和国の行政区に取り込まれて地方自治権として存続する事となるのです。
現在も南アフリカの白人層の中にはオランダ人系は多く居てその方たちのルーツはボーア人なのです。


南アフリカ戦争/ブール戦争/ボーア戦争 コナン=ドイル軍医、ウィンストン=チャーチル新聞記者

2022-05-28 15:30:05 | 連絡
ウクライナ戦争の本質はイギリスの独占資本ロシア独裁政権と独裁政権側近特権階級=が、ダイヤモンドと金=小麦穀物・・・資源・黒海航路という資源を獲得するための、帝国主義戦争ロシア独裁主義戦争であった。」か。
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ーーー1899~1902年、イギリスが南アフリカのオランダ人(ブール人)の二国家を侵略し、併合した帝国主義戦争。ーーー
 
参照ー1:
ボーア人(Boer),ダイヤモンドの発見に大きく係わった人種ボーア人偉大なアフリカの星The Great Star of Africa
https://blog.goo.ne.jp/globalstandard_ieee/e/8953818e6b5cadeaf9d64046eef0be74

19世紀末、イギリスの帝国主義の対外政策の一つで、南アフリカのイギリス領ケープ植民地の北方に位置するオランダ系入植者の作ったオレンジ自由国・トランスヴァール共和国に対して1899年に軍事攻勢をかけ、1902年までにイギリス植民地に組み込んだ典型的な植民地獲得戦争であった。
また帝国主義によるアフリカ分割を一段と進めることとなった。
 〇ブール人
ブール人とはイギリス人より先に1652年に南アフリカに入植していたオランダ系の白人の子孫のこと。
ナポレオン戦争の時期の1806年にイギリスがケープ植民地を占領して以来、イギリスが支配するようになったため、その支配を避けて北方に移住(グレート=トレックという)し、現地のアフリカ人の土地を奪ってオレンジ自由国・トランスヴァール共和国を建設していた。
その地でダイヤモンドと金が発掘されたことを機に、イギリスは植民地支配をその地に拡大しようとした。
なお、ブール人はかつてはボーア人とも表記されていたが、現在はブール人という表記が正しいとされている(下記参照
〇イギリスとブール人の衝突
オレンジ自由国でダイアモンド鉱が発見されると、イギリスはケープ植民地への併合をねらい、1877年に、まずトランスヴァール共和国の併合を強行した。
それに対してトランスヴァール側の激しい抵抗が起こり、1880年に両軍が衝突した。
これを第一次ブール戦争とする場合もある。ここでブール人は果敢に戦い、1881年2月のマジュバの戦いではイギリス軍が大敗して講和に持ち込まれ、一定の自治を与えることで休戦した。
 〇セシル=ローズの強攻策
 さらに1886年、トランスヴァールに金鉱が発見されると、現地のイギリス人企業家を代表するセシル=ローズは、ケープ植民地首相に就任するとともにイギリス南アフリカ会社(BSAC、東インド会社後に久々に設けられた特許会社)を設立、1890~94年にかけてトランスヴァールの北方の広大な土地に武装した遠征隊を派遣し、ンデベレ人など現地アフリカ人を制圧して強引に領有し、ローデシアを建設した。さらにその地からトランスヴァール介入の機会をうかがい、1895年12月、トランスヴァール内のイギリス人を保護するという名目でジェームソンという人物に軍隊をつけて侵入させた。
しかし、侵入部隊はブール軍によって阻止され、ジェームソンも捕虜となり失敗した。このジェームソン侵入事件という強引な干渉策は内外の批判を浴び、イギリス政府もセシル=ローズを首相の地位から解任せざるを得なくなった
 〇ジョゼフ=チェンバレンの帝国主義政策 
イギリス本国の植民地相であるジョゼフ=チェンバレンは、セシル=ローズのアフリカ植民地拡大策を継承し、ブール人との戦争をもくろんで、盛んに挑発した。チェンバレンによって任命されたケープ植民地首相ミルナーは、トランスヴァールとオレンジ自由国在住のイギリス人に選挙権を与えることを要求、イギリス国内に向かっては両国内のイギリス人が無権利な「奴隷状態」に置かれていると宣伝して、開戦をあおった。
チェンバレンは議会で軍隊増員が認められない場合に備えて、議会の承認の必要のないインド兵を動員し、さらにオーストラリア、ニュージーランド、カナダなどから義勇兵を募集した。 
〇南アフリカ戦争の開始
 トランスヴァール共和国側も戦争は避けられないと判断し、同じブール人の国であるオレンジ自由国と同盟して開戦に備えた。
1899年10月、ついに開戦したこの戦争は、イギリスは当初クリスマスまでに終わらせると考えていたが、想定外に激しい抵抗によって1902年5月までの2年半つづいた。これを南アフリカ戦争と言うが、イギリスでは、南アフリカに定着していたオランダ系白人であるブール人をボーア人と呼んでいたので、この戦争もボーア戦争(またはアングロ=ボーア戦争 Angro-Boer War)と言っていた。
ただし、オランダ系白人は自らをブール人といっており、ボーアはあくまでイギリス側の蔑視が込められた言い方であるので、現在では避けられることが多い。
なお、1880年の衝突を第1次ブール戦争とする場合は、1899年から始まった戦争を第2次ブール戦争とする場合もある。
〇戦争の経緯
 1899年10月に始まった戦争は、1900年9月1日を境として二期に分けられる。
・第一期 華々しい正規軍同士の戦争であり、イギリス軍は「マジュバの復讐」(1881年の第1次戦争でイギリス軍が大敗した戦い)を叫び、ブール軍は侵略阻止、独立維持を掲げて結束した。
ブール軍は機関銃や無煙銃など最新のドイツ製の武器で装備されており、イギリスにとっても近代的な装備を有する軍との最初の戦争(同時期のマフディーの反乱や義和団事変ではまだ鉄砲や槍しかない相手だった)であったため、12月のケープ北方のシュトルムベルクの戦闘では約3千のイギリス軍がわずか800人のブール軍に大敗を喫するなど苦戦した。
予期せぬ大敗に肝をつぶしたイギリス軍部は、総司令官にインド大反乱を鎮圧したことで知られるロバーツ陸軍元帥、参謀長にマフディーの反乱を鎮圧したばかりのキッチナー将軍を任命し、一挙に18万の大軍を派遣した。
これによって態勢を立て直したイギリス軍が攻勢に転じ、翌年3月にはオレンジ自由国の首都ブルームフォンテンを陥落させ、さらに6月にトランスヴァール共和国の首都プレトリアに入城し、9月1日にトランスヴァール併合が宣言されて戦争は終わったかに見えた。 
・第二期 ブール軍は降伏に同意せず、ドゥ=ウェットが編み出したゲリラ戦法で抵抗を続けた。
ゲリラ戦法はナポレオンの侵入に対するスペインの反乱(スペイン独立戦争)の際に用いられたもので、小部隊に分かれイギリス軍の後方を攪乱し、鉄道を破壊して補給路を断つなどの戦術を展開した。
それに対してイギリス軍は、ゲリラの隠れ場所になっているとしてブール人の農家を片端から焼いていくという焦土作戦をとり、さらにゲリラを防止する目的で婦女子も含めてブール人を強制収容所に収容した。
このイギリスの作戦はさらにブール人の反発を強め、イギリスはゲリラを鎮圧するのに時間と費用がかさんでゆき、ようやく国内でも戦争中止の声が起こってきた。ブ
ール人側も抵抗を続けるのは困難であったことから、1902年、プレトリアで講和会議が開かれ、ようやく5月、ブール側は将来の自治の約束は取り付けたが、両国をイギリスが併合することを承認し、戦争が終わった
 戦争は、ブール側は6000人以上の戦死者、2万余の病死者(餓死者を含む)を出し、イギリス側も戦死者6000、戦傷死・戦病死1万6千、戦傷者2万3千を数え、軍事費は2億2300万ポンドにのぼった。これだけの大きな犠牲を払い、ブール人の二つの共和国が地図上から消滅した。
〇戦争の基本的な性格
戦争の本質は、イギリスの独占資本が、ダイヤモンドと金という資源を獲得するための、帝国主義戦争であった。
870年代から顕著となった、帝国主義政策を採る列強によるアフリカ分割の最終局面であり、同時期の米西戦争や、中国分割の進行とともに帝国主義的な世界分割の一部であるということができる。
(引用)一口で言えば、経済的利害の対立が戦争の主要な原因であった。
また、この資源豊かな土地へのイギリス人の略奪的侵入を積極的に推進したのが植民地相ジョセフ=チェンバレンであり、かれが南アフリカで帝国主義戦争を推進した張本人であったことは、いうまでもなかろう。そして、かれの背後には、イギリス独占資本、とりわけ、南アフリカの鉱山業を支配するセシル=ローズ、ヴェルナー、ラッドらの金融資本家の要求があった。この時期はちょうど、植民地が資本の投下地として独占資本の側から見直されはじめていた時期に相応している。
<岡倉登志『ボーア戦争―金とダイヤと帝国主義』1980 教育社歴史新書 p.12 ※同書は1980年の刊行。当時はブールではなく「ボーア」が広く用いられていたので書名、本文でもボーアとなっているが、現在はブールという用語が用いられている。
〇侵略者としてのブール人
 南アフリカ戦争はイギリスの侵略であり、ブール人はその被害者であった。そのため、ブール人に対しては同情的な記述が多い。
しかし、現地アフリカ人から見れば、イギリス人もブール人も侵略者であったことには変わりはない。
このことを押さえておかないと、彼らが白人の支配者として共同で統治することになる南アフリカ連邦とその後継である南アフリカ共和国において、黒人に対する差別と抑圧の典型であるアパルトヘイト政策がとられていくことを見逃すこととなる。
 イギリスとの戦争の最終局面の講和会議で、ブール人は「アフリカ人には選挙権を与えないこと」を条件の一つとして主張し、1902年の講和条約では、「アフリカ人の選挙権付与の問題は自治政体設置後に決定する」とされた。これらは、「ブール人がアフリカ人の政治的進出を恐れていたこと、すなわち、アパルトヘイト政策の源流」であったことをうかがわせる
<岡倉登志『同上』 p.152,175> 
〇南ア戦争の国際的影響
 南アフリカ戦争は、同じ時期のアメリカの米西戦争と同じ帝国主義戦争であった。
イギリス自身は、エジプト南部のスーダンでのマフディーの反乱の鎮圧、フランスとのファショダ事件につづく、アフリカ縦断政策の帰結であった。
しかし、イギリス帝国が、ブール人の小さな国家二つを併合するのに、2年半も要したことは、イギリスの帝国としての権威を大きく失墜させることとなった。
当時すでに工業力でアメリカ合衆国に抜かれており、イギリスの長い低迷の始まりと見ることもできる。
東アジアでは1900年に義和団事変が勃発し、イギリスも北京への共同出兵に踏み切ったが、南アフリカ戦争の継続中であったため、兵力を割くことができず、北京出兵の主力は日本軍とロシア軍にゆだねざるを得ず、事変後にロシアが満州占領から撤退しない状況となると、アジアでの利権を守るためにイギリスの外交の基本であった「光栄ある孤立」政策を改め、1902年に日英同盟を締結することとなる。
〇Episode 捕虜となったチャーチル
南ア戦争には、シャーロック=ホームズの生みの親コナン=ドイルが軍医として参加し、彼はイギリス軍の行動を正当な愛国心の発露であるとして盛んに弁護している。
さらに、後にイギリスの首相となるウィンストン=チャーチルは、このとき弱冠25歳で、新聞記者として従軍した。
1899年11月、前線に向かうチャーチルを乗せた装甲列車がブール軍に攻撃され、チャーチルは一命を取り留めたものの捕虜になってしまった。
ナタールの捕虜収容所に送られたチャーチルは、約1ヶ月後に巧みに脱出し、モザンビークに逃れて助かった。
彼はその体験を記事にして、一躍有名になった。そこで彼は1900年の総選挙で保守党から立候補し、見事初当選し、26歳で政界に身を置くこととなった。現代イギリス最大の政治家チャーチルの誕生は南ア戦争がきっかけだったわけだ。<岡倉登志『同上』 p.186-190>
〇南ア戦争後のイギリス
 南ア戦争は、開戦当初は国民の熱狂的支持をうけた。
しかし当初の予想に反しブール人の頑強な抵抗によって長期化した。
1902年の講和によってイギリスはトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を併合し、大英帝国の拡張に成功したが、最終的には45万の兵員と2億3千万ポンドの戦費を費やし、巨大な財政赤字と膨大な国債を残して、国家財政を破綻させた。
南ア戦争中の1901年1月にヴィクトリア女王が死去したことは大英帝国の転換を象徴していた。
 南ア戦争後の国家財政破綻から回復するためソールズベリ内閣は輸入穀物への課税を打ち出した。
この保護貿易主義への転換は与党(当時は保守党と自由統一党が合体して統一党と言っていた)を分裂させ、内閣は倒れ、ジョセフ=チェンバレンも辞任した。
チェンバレンはその後も保護貿易政策による財政再建を主張して各地で演説した。
統一党が瓦解したため、1905年に自由党内閣(キャンベル=バナマン首相)、1908年には同じくアスキス内閣が成立し、自由党政権が続く。
しかしこの自由党政権のもとでドイツの帝国主義的膨張に直面し、「自由帝国主義」といわれる自由主義を維持しながら帝国主義政策を展開することとなる。


The 人物伝:アーサー・コナン・ドイル、心臓病のため死去 71歳

2022-05-28 15:17:44 | 連絡
ドイルは1920年代から心臓発作を起こすことが増え、医師から休養を勧められていたが、晩年のドイルは心霊主義布教を最優先にしたため医師の勧告を聞き入れず、積極的に心霊主義の講演に走り回り、執筆活動も続けた[167]。
1929年には心臓発作が頻発するようになり、1930年春に一時快方に向かったものの、夏になると再び悪化した[168]。
死の直前の1930年7月1日にはジェームズ1世時代に制定され、近年心霊主義弾圧のために再利用されるようになっていた「魔女法(英語版)」の撤廃を陳情すべく、内務大臣ジョン・ロバート・クラインスを訪問したが、これによって体力をかなり消耗させた[169]。
1930年7月7日朝7時半、衰弱しきってクロウバラの自宅で寝ていた彼は、家族にベッドから窓際の椅子に移してもらった。
そこからサセックスの田舎風景を眺めながら、また家族に看取られながら、8時半ごろに静かに息を引き取った[170][171]。
亡くなる数日前にドイルは「読者は私がたくさんの冒険をしたとお思いだろう。何より偉大で輝かしい冒険がこれから私を待っています」と記していた[170]。
彼の死が世界に伝わると、世界中のファンから多くの弔電を受けた。
大量の花束がドイル家に送られ、その輸送のための特別列車が手配されたほどだった[172]。
妻ジーンは夫同様、心霊主義に傾倒していたため、寂しくは思っても悲しくは思わなかったという。
ジーンは「心霊はそれが宿っている肉体が滅びると、それを抜け出して次の世界へ移動する。
だから夫は新しい心霊の世界で生き続けている」と述べた[172]。
そのため、7月11日に自宅で行われた葬儀も葬儀というより夏の園遊会のように行われたという[173]。
ドイルの墓標には「鋼鉄のごとく真実で、刃のごとくまっすぐな、アーサー・コナン・ドイル。騎士、愛国者、医者、そして文学者(Steel true/Blade straight/Arthur Conan Doyle/Knight/Patriot, Physician, and man of letters.)」と刻まれている[174]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%AB

The 人物伝:アーサー・コナン・ドイル、タイタニック沈没事件をめぐる論争

2022-05-28 15:06:57 | 連絡
〇タイタニック沈没事件をめぐる論争
1912年4月、タイタニック号沈没事件があった。
マスコミ各紙がこぞって乗客や船員たちの英雄的行動やメロドラマを書きたてる中、文学者ジョージ・バーナード・ショーはその空気に反発し、噂や作り話を実際の英雄譚かのように書きたてるマスコミの扇情的体質を批判した。
しかし、ドイルは友人をタイタニック事件で失っていたため、乗客・船員たちの英雄神話をぶち壊そうとするショーを許せなかった。
ショーの主張を「つむじ曲がり的発想がひどすぎる」と批判した[128]。
ショーは最初に出た40人乗り救命ボートに乗ったのが男10人、女2人だったことを指摘し、婦女子が優先的に助けられたという話は根拠がないと主張したが、ドイルはショーが「特殊な状況下で出た」1号ボートの例しか持ち出さないことを批判し、その次のボートには70人が乗り、うち65人が女性だったことを指摘し、婦女子優先は徹底されていたと反論した(現在ではタイタニックの乗客のうち、女子供は4人のうち3人までが生存し、男は5人のうち4人までが死んだことが判明している。
したがってこの論争についてはドイルが正しかったことになる)[129]。
またショーはエドワード・スミス船長の英雄譚(海を泳いで子供を救ったと報道されていた)はイギリス海運の問題点をうやむやにしたという点で「イギリス海運の勝利」と論じたが、ドイルは「スミス船長の英雄的行動は単なる事実であり、『イギリス海運の勝利』などとは何の関係もない。
ショー氏がそう思っているだけである」と反論した。
ちなみにショーはスミス船長の英雄譚を与太話と疑っていたが、ドイルは信じていた[130]。
乗客がパニックにならないよう船が傾くまで演奏を続けたというタイタニックの楽団の英雄譚も、ショーが「混乱回避のために命令されてやらされただけで、この曲のせいで乗客に危機感が生まれず、助かるはずだった人も多く命を落とした」と批判したのに対して、ドイルは「仮に命令されたことだとしても、その賢明な命令や楽団員たちの英雄的行動の価値を少しも減じるものではない。混乱を避けることは正しいし、そういうやり方を取ったのは素晴らしい」と反論した[131]。
ドイルには「桁外れに悲劇的な出来事には桁外れの英雄が必要」という信念があったため、英雄譚に誇張あるいは捏造があったとしても問題視しなかった。「この事件をイギリスの栄光を強調するのに利用したとの批判があるが、勇気と規律が最高の形で示されたと見てこれを名誉としなければ、我らは本当に敗戦国民になってしまう」
「天才であるはずの人間が、その才能を使って自国民について誤ったことを伝え、公然と批判するのを見るのは何ともやりきれない。それは悲しみに沈む人々をさらに悲しませるだけの行為である」とドイルは語っている[132]。


The 人物伝:アーサー・コナン・ドイル、ボーア戦争 戦地医療奉仕活動、英軍擁護運動、「サー」の称号を使用

2022-05-28 14:53:10 | 連絡
〇戦地医療奉仕活動
南アフリカに帝国主義的野心を抱いていたソールズベリー侯爵内閣植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンは、南アフリカのボーア人国家トランスヴァール共和国を追い詰め、1899年10月に同国がイギリスに宣戦布告してくるよう持ち込んだ(第二次ボーア戦争)。
しかしボーア人は住民として地の利を生かして戦い、侵攻してきたイギリス軍に大きな損害を与えていた。
戦死者の増大を前にイギリス本国ではインド人など植民地人を代わりに戦わせ、イギリス人の人的損害を減らすべきことが盛んに主張されるようになった。
これに対してドイルは『タイムズ』紙で「植民地人の兵士を戦地に送るべきという意見が各方面で強まっているようだが、イギリス人が1人も戦地に行かないで植民地の人間に穴埋めさせるのは名誉に関わるのではないか」と主張するとともに、自身もイギリス軍に従軍する決意を固めた[71]。
従軍に反対する母への手紙の中でドイルは「私はあなたから愛国心を学びました。
ですから私を責めないでください。
兵士としてどの程度役にたてるかは分からないですが、自分は模範を示す人間として国に奉仕できると思います。
思うに私はイギリスで誰よりも若者たち、特にスポーツを愛する若者に強い影響を与えることができると思います。
だから若者の手本になることが重要なのです」と説得している[72]。
しかしドイルはすでに40歳過ぎだったため、陸軍の兵役検査に落ちた。
ドイルはやむなく従軍を諦めたが、代わりに50人の医療奉仕団を戦地に派遣するという友人ジョン・ラングマンの計画に医師の1人として参加することにした[73][74]。
ドイルらラングマン医療奉仕団は1900年3月に英領ケープ植民地首都ケープランドに到着し、ロバーツ卿(英語版)率いるイギリス軍の進軍路をたどって負傷者・発病者の治療にあたった。
ドイルも休む暇もなく献身的に働いた[75][76]。
1900年6月、イギリス軍はトランスヴァール首都プレトリアを陥落させたドイルは占領下プレトリアでイギリス軍司令官ロバーツ卿と会見し、医療奉仕団の活躍を報告している。
プレトリア陥落で戦争の大勢は決したかのように思われたので(実際にはゲリラ戦争と化してさらに2年続くが)、ドイルは今戦争についての総括の執筆を行うため、また近々行われると見られていた総選挙に出馬すべく、7月に帰国の途に就いた[77]。
帰国後ただちに『大ボーア戦争(英語版)』を執筆したが、この著作はプレトリア陥落でボーア戦争は終結したという前提で書かれたものだったため、この後ボーア戦争が泥沼のゲリラ戦争と化していく中で時流にあっていないものになってしまった[78]。
〇英軍擁護運動
一方、ボーア戦争はゲリラ戦争と化していた、民家がゲリラの活動拠点になっていると見たイギリス軍は焦土作戦を実施した(1900年9月には、ゲリラが攻撃してきた地点から16キロ四方の村は焼き払ってよいとの方針が定められている)[83]。
イギリス軍の焦土作戦で焼け出されたボーア人の多くは強制収容所に送られたが、そこの環境は劣悪であり、2万人以上の人々が命を落としていった[84]。
国内外でイギリス軍の残虐行為への批判が高まった。
しかし大英帝国の拡大が世界に道徳と秩序をもたらすと信じるドイルは、こうした批判には徹底的に反論した。
ドイルは1902年3月にもイギリス軍擁護の小冊子『南アフリカ戦争 原因と行い』を著した。
この中で彼はイギリス軍の焦土作戦について「イギリス軍が民間人の家を焼くのは、そこがゲリラの拠点となった場合のみ」「責任は最初にゲリラ戦法を行った側(ボーア人)にある」と擁護した。
強制収容所については「焼け出された婦女子を保護するのは文明国イギリスの義務である。
収容所内では食糧もしっかり出されている。
それにもかかわらず収容者の死亡率が高いのは病気のせいだが、イギリス軍内でも病死者が続出しており、差別的な取り扱いではない」と擁護した。
またイギリス軍人によるボーア人婦女子強姦については「いかなる戦争でも女性は既婚・未婚問わず憎悪に晒される。避けられないことだ」と批判を一蹴する[85]。
この小冊子は政府や戦争支持派から熱烈に支持され、発売から6週間で30万部を突破した[86]。
ドイルは自分のポケットマネーや募金で集めた資金を元手にして、この小冊子をできる限り多くの言語に翻訳して各国に配布し、イギリスの国際的な汚名を雪ぐことにも努めた。
この活動を政府から評価され、1902年10月24日に国王エドワード7世からKnight Bachelorに叙され[87]、以降「サー」の称号を使用できるようになった[88][89][注釈 3]。また同時に名誉職のサリー州副統監にも任命された[91]。