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The 人物伝:アーサー・コナン・ドイル、心臓病のため死去 71歳

2022-05-28 15:17:44 | 連絡
ドイルは1920年代から心臓発作を起こすことが増え、医師から休養を勧められていたが、晩年のドイルは心霊主義布教を最優先にしたため医師の勧告を聞き入れず、積極的に心霊主義の講演に走り回り、執筆活動も続けた[167]。
1929年には心臓発作が頻発するようになり、1930年春に一時快方に向かったものの、夏になると再び悪化した[168]。
死の直前の1930年7月1日にはジェームズ1世時代に制定され、近年心霊主義弾圧のために再利用されるようになっていた「魔女法(英語版)」の撤廃を陳情すべく、内務大臣ジョン・ロバート・クラインスを訪問したが、これによって体力をかなり消耗させた[169]。
1930年7月7日朝7時半、衰弱しきってクロウバラの自宅で寝ていた彼は、家族にベッドから窓際の椅子に移してもらった。
そこからサセックスの田舎風景を眺めながら、また家族に看取られながら、8時半ごろに静かに息を引き取った[170][171]。
亡くなる数日前にドイルは「読者は私がたくさんの冒険をしたとお思いだろう。何より偉大で輝かしい冒険がこれから私を待っています」と記していた[170]。
彼の死が世界に伝わると、世界中のファンから多くの弔電を受けた。
大量の花束がドイル家に送られ、その輸送のための特別列車が手配されたほどだった[172]。
妻ジーンは夫同様、心霊主義に傾倒していたため、寂しくは思っても悲しくは思わなかったという。
ジーンは「心霊はそれが宿っている肉体が滅びると、それを抜け出して次の世界へ移動する。
だから夫は新しい心霊の世界で生き続けている」と述べた[172]。
そのため、7月11日に自宅で行われた葬儀も葬儀というより夏の園遊会のように行われたという[173]。
ドイルの墓標には「鋼鉄のごとく真実で、刃のごとくまっすぐな、アーサー・コナン・ドイル。騎士、愛国者、医者、そして文学者(Steel true/Blade straight/Arthur Conan Doyle/Knight/Patriot, Physician, and man of letters.)」と刻まれている[174]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%AB

The 人物伝:アーサー・コナン・ドイル、タイタニック沈没事件をめぐる論争

2022-05-28 15:06:57 | 連絡
〇タイタニック沈没事件をめぐる論争
1912年4月、タイタニック号沈没事件があった。
マスコミ各紙がこぞって乗客や船員たちの英雄的行動やメロドラマを書きたてる中、文学者ジョージ・バーナード・ショーはその空気に反発し、噂や作り話を実際の英雄譚かのように書きたてるマスコミの扇情的体質を批判した。
しかし、ドイルは友人をタイタニック事件で失っていたため、乗客・船員たちの英雄神話をぶち壊そうとするショーを許せなかった。
ショーの主張を「つむじ曲がり的発想がひどすぎる」と批判した[128]。
ショーは最初に出た40人乗り救命ボートに乗ったのが男10人、女2人だったことを指摘し、婦女子が優先的に助けられたという話は根拠がないと主張したが、ドイルはショーが「特殊な状況下で出た」1号ボートの例しか持ち出さないことを批判し、その次のボートには70人が乗り、うち65人が女性だったことを指摘し、婦女子優先は徹底されていたと反論した(現在ではタイタニックの乗客のうち、女子供は4人のうち3人までが生存し、男は5人のうち4人までが死んだことが判明している。
したがってこの論争についてはドイルが正しかったことになる)[129]。
またショーはエドワード・スミス船長の英雄譚(海を泳いで子供を救ったと報道されていた)はイギリス海運の問題点をうやむやにしたという点で「イギリス海運の勝利」と論じたが、ドイルは「スミス船長の英雄的行動は単なる事実であり、『イギリス海運の勝利』などとは何の関係もない。
ショー氏がそう思っているだけである」と反論した。
ちなみにショーはスミス船長の英雄譚を与太話と疑っていたが、ドイルは信じていた[130]。
乗客がパニックにならないよう船が傾くまで演奏を続けたというタイタニックの楽団の英雄譚も、ショーが「混乱回避のために命令されてやらされただけで、この曲のせいで乗客に危機感が生まれず、助かるはずだった人も多く命を落とした」と批判したのに対して、ドイルは「仮に命令されたことだとしても、その賢明な命令や楽団員たちの英雄的行動の価値を少しも減じるものではない。混乱を避けることは正しいし、そういうやり方を取ったのは素晴らしい」と反論した[131]。
ドイルには「桁外れに悲劇的な出来事には桁外れの英雄が必要」という信念があったため、英雄譚に誇張あるいは捏造があったとしても問題視しなかった。「この事件をイギリスの栄光を強調するのに利用したとの批判があるが、勇気と規律が最高の形で示されたと見てこれを名誉としなければ、我らは本当に敗戦国民になってしまう」
「天才であるはずの人間が、その才能を使って自国民について誤ったことを伝え、公然と批判するのを見るのは何ともやりきれない。それは悲しみに沈む人々をさらに悲しませるだけの行為である」とドイルは語っている[132]。


The 人物伝:アーサー・コナン・ドイル、ボーア戦争 戦地医療奉仕活動、英軍擁護運動、「サー」の称号を使用

2022-05-28 14:53:10 | 連絡
〇戦地医療奉仕活動
南アフリカに帝国主義的野心を抱いていたソールズベリー侯爵内閣植民地大臣ジョゼフ・チェンバレンは、南アフリカのボーア人国家トランスヴァール共和国を追い詰め、1899年10月に同国がイギリスに宣戦布告してくるよう持ち込んだ(第二次ボーア戦争)。
しかしボーア人は住民として地の利を生かして戦い、侵攻してきたイギリス軍に大きな損害を与えていた。
戦死者の増大を前にイギリス本国ではインド人など植民地人を代わりに戦わせ、イギリス人の人的損害を減らすべきことが盛んに主張されるようになった。
これに対してドイルは『タイムズ』紙で「植民地人の兵士を戦地に送るべきという意見が各方面で強まっているようだが、イギリス人が1人も戦地に行かないで植民地の人間に穴埋めさせるのは名誉に関わるのではないか」と主張するとともに、自身もイギリス軍に従軍する決意を固めた[71]。
従軍に反対する母への手紙の中でドイルは「私はあなたから愛国心を学びました。
ですから私を責めないでください。
兵士としてどの程度役にたてるかは分からないですが、自分は模範を示す人間として国に奉仕できると思います。
思うに私はイギリスで誰よりも若者たち、特にスポーツを愛する若者に強い影響を与えることができると思います。
だから若者の手本になることが重要なのです」と説得している[72]。
しかしドイルはすでに40歳過ぎだったため、陸軍の兵役検査に落ちた。
ドイルはやむなく従軍を諦めたが、代わりに50人の医療奉仕団を戦地に派遣するという友人ジョン・ラングマンの計画に医師の1人として参加することにした[73][74]。
ドイルらラングマン医療奉仕団は1900年3月に英領ケープ植民地首都ケープランドに到着し、ロバーツ卿(英語版)率いるイギリス軍の進軍路をたどって負傷者・発病者の治療にあたった。
ドイルも休む暇もなく献身的に働いた[75][76]。
1900年6月、イギリス軍はトランスヴァール首都プレトリアを陥落させたドイルは占領下プレトリアでイギリス軍司令官ロバーツ卿と会見し、医療奉仕団の活躍を報告している。
プレトリア陥落で戦争の大勢は決したかのように思われたので(実際にはゲリラ戦争と化してさらに2年続くが)、ドイルは今戦争についての総括の執筆を行うため、また近々行われると見られていた総選挙に出馬すべく、7月に帰国の途に就いた[77]。
帰国後ただちに『大ボーア戦争(英語版)』を執筆したが、この著作はプレトリア陥落でボーア戦争は終結したという前提で書かれたものだったため、この後ボーア戦争が泥沼のゲリラ戦争と化していく中で時流にあっていないものになってしまった[78]。
〇英軍擁護運動
一方、ボーア戦争はゲリラ戦争と化していた、民家がゲリラの活動拠点になっていると見たイギリス軍は焦土作戦を実施した(1900年9月には、ゲリラが攻撃してきた地点から16キロ四方の村は焼き払ってよいとの方針が定められている)[83]。
イギリス軍の焦土作戦で焼け出されたボーア人の多くは強制収容所に送られたが、そこの環境は劣悪であり、2万人以上の人々が命を落としていった[84]。
国内外でイギリス軍の残虐行為への批判が高まった。
しかし大英帝国の拡大が世界に道徳と秩序をもたらすと信じるドイルは、こうした批判には徹底的に反論した。
ドイルは1902年3月にもイギリス軍擁護の小冊子『南アフリカ戦争 原因と行い』を著した。
この中で彼はイギリス軍の焦土作戦について「イギリス軍が民間人の家を焼くのは、そこがゲリラの拠点となった場合のみ」「責任は最初にゲリラ戦法を行った側(ボーア人)にある」と擁護した。
強制収容所については「焼け出された婦女子を保護するのは文明国イギリスの義務である。
収容所内では食糧もしっかり出されている。
それにもかかわらず収容者の死亡率が高いのは病気のせいだが、イギリス軍内でも病死者が続出しており、差別的な取り扱いではない」と擁護した。
またイギリス軍人によるボーア人婦女子強姦については「いかなる戦争でも女性は既婚・未婚問わず憎悪に晒される。避けられないことだ」と批判を一蹴する[85]。
この小冊子は政府や戦争支持派から熱烈に支持され、発売から6週間で30万部を突破した[86]。
ドイルは自分のポケットマネーや募金で集めた資金を元手にして、この小冊子をできる限り多くの言語に翻訳して各国に配布し、イギリスの国際的な汚名を雪ぐことにも努めた。
この活動を政府から評価され、1902年10月24日に国王エドワード7世からKnight Bachelorに叙され[87]、以降「サー」の称号を使用できるようになった[88][89][注釈 3]。また同時に名誉職のサリー州副統監にも任命された[91]。

The 人物伝:アーサー・コナン・ドイル、眼科への転身失敗と執筆業一本化、シャーロック・ホームズの大ヒット

2022-05-28 14:38:51 | 連絡
〇眼科への転身失敗と執筆業一本化
1890年8月、ドイツ・ベルリンで開催された国際医学会においてロベルト・コッホが新しい結核治療法を発見したと発表した。
気になったドイルはただちにベルリンへ向かったが、コッホの講演会チケットを手に入れることができなかった。
諦めきれず、コッホの家に押しかけるも会ってもらえなかった。
しかしコッホの講演会のメモを手に入れることはでき、これを読んだドイルは『デイリー・テレグラフ』紙に投稿して、コッホの研究は不完全で結果が出ていないと批判した。
のちにコッホの研究の不十分さが判明したため、真っ先にそれを指摘した彼は誇らしい気分だったという[51]。
このベルリン滞在時にドイルは突然眼科医になることを思い立った
1890年11月にサウスシーに戻って診察所を閉めると、1891年1月には妻を連れてオーストリア首都ウィーンへ移住し、眼科医の実習を受けた。
しかしドイルのドイツ語能力は専門的授業を受けられるレベルではなかったため、すぐにも授業についていけなくなり、ウィーンでの眼科医資格取得を断念した。
6か月の予定だった実習を2か月で切り上げ、1891年3月末にロンドンへ帰国した[52][53]。
帰国後にはロンドンのモンタギュー・プレイス23番地の邸宅で暮らすとともに、アッパー・ウィンポール街において無資格の眼科医を始めた。
しかしロンドンには資格を持った眼科医が大勢いたため、無資格の眼科医に診てもらおうなどという患者は現れなかった。
ドイルはこの暇な時間を使って小説の執筆に励んだ。
患者がまったく来ない眼科診察所は結局閉鎖することになり、執筆業一本に絞っていくことになった[54][55]。
診察所を閉鎖するとサウス・ノーウッド(英語版)郊外テニスン・ロード12番地に移住した[56]
〇シャーロック・ホームズの大ヒット
このころ、ドイルは同じ人物を主人公とした短編小説を読み切り連載で書くことを考えていた。
その主人公として選ばれたのがシャーロック・ホームズだった[57]。
ホームズをシリーズ化することにしたのは、すでにホームズ作品を2つ出していたため(『緋色の研究』と『4つの署名』)、シリーズ化が一番容易だろうと判断したためだった[58]。
こうして書かれたホームズ短編小説6編は1891年1月に発刊されたばかりの『ストランド・マガジン』誌に1作35ポンドで買ってもらえ、同誌1891年7月号から順次掲載された[59][60]。
この連載は初回から話題となり、ホームズシリーズは人気となり、『ストランド・マガジン』の販売数を押し上げた[61]。
好評にこたえてさらに6編のホームズ短編小説を書き、1892年1月号から連載された[62]。
この連載が終わった1892年6月、これまで発表された12編のホームズ短編小説が『シャーロック・ホームズの冒険』として単行本化された[63]。
ドイルのもとにはホームズ読者の手紙が大量に届くようになったが、その大半はドイル宛てではなく、ホームズ宛てだったという(ドイルはホームズ宛ての手紙には「ドクター・ジョン・ワトスン」名義で「残念ながらホームズさんは留守でして」という返事を書いていたという)[64]。
またサインを求められることも多くなったが、それもやはり「コナン・ドイル」のサインではなく、「シャーロック・ホームズ」のサインを求められることが多かったという[64]。
このころ、ドイルは『ブックマン(英語版)』誌において「シャーロック・ホームズについて全国からたくさんのお便りをもらうようになりました。
あるときは学生から、あるときは熱心な読者の巡回セールスマンの方から。
時には弁護士の方から法律の誤りを指摘されることもあります。
シャーロックの若いころのことを知りたいといった手紙も多いです」と語っている[64]。


The 人物伝:アーサー・コナン・ドイル、学生時代、医師として

2022-05-28 14:28:56 | 連絡
裕福な伯父の支援で1868年にイングランド・ランカシャーにあるイエズス会系の寄宿学校ホダー学院に入学。
1870年にはその上級学校であるストーニーハースト・カレッジ(英語版)に進学し、同校で5年間学んだ[19]。
スポーツ万能だったドイルは同校のクリケット部主将を務めているが、後年にドイルは同校の体罰の激しさやイエズス会教師の「救いようのない頑迷さ」を批判している[20]。
1875年にはドイツ語の勉強も兼ねてオーストリア・フェルトキルヒにあるイエズス会系の学校に1年間留学した[21]。
オーストリアから帰国したころ、母メアリーは少しでも生活費を楽にするため、ある医師を間借り人として置いていた。
この間借り人の影響を受けて医師を志すようになったドイルは、1876年にエジンバラ大学医学部に進学した[22]。
5年にわたって同大学に在学したが、ドイルの回顧によれば「長く退屈な勉強の毎日。植物学、化学、解剖学、生理学、その他、大半は医療という技術には大してつながりのない必修科目の履修」という状況だったという[23][24]。
しかしここで知遇を得たジョセフ・ベル教授からは大きな影響を受けた。
ベル教授はちょっとした特徴から患者の状況や経歴を言い当てる人物であり[25]、ドイルは彼をモデルにして「シャーロック・ホームズ」の人物像を作り上げたという[26]。
また解剖学のウィリアム・ラザフォード(英語版)教授の豪快さはチャレンジャー教授の人物像のモデルになったという[27]。
大学在学中、ダーウィンの進化論に共感を寄せたため、徐々にカトリックの信仰心から離れたという[28]。
大学への通学路に古本屋街があったため、古本もよく読むようになった[24]。タキトゥスやホメーロスなどの古典、クラレンドン伯爵の『イングランド反乱史』、スウィフトの『桶物語』、アラン=ルネ・ルサージュの『ジル・ブラース物語(フランス語版)』、サー・ウィリアム・テンプル准男爵のエッセイ、オリバー・ウェンデル・ホームズのエッセイ、トマス・マコーリーのエッセイ、エドガー・アラン・ポーの小説などに強い影響を受けたという[29]。
スポーツにも積極的に参加した。
相手を見つければすぐにボクシングの試合をし、またラグビー部ではフォワードを務めた[30]。
当時ドイルの姉2人はポルトガルで働いて実家に仕送りしていたため、ドイルも仕送りしないのは長男として肩身が狭かったらしく、しばしば医師のもとでパートタイムの助手をし、また1880年には7か月にわたって捕鯨船に船医として乗船している[31]。
1881年8月に医学士と外科修士の学位を取得したが、成績は並みだった[32]。
〇医師として[編集]
大学卒業後の1881年10月にアフリカ汽船会社(英語版)に船医として就職した。
10月末にリヴァプールから出航したアフリカ行きの汽船マユンバ号(SS Mayumba)に乗船したが、客が次々とマラリアに罹患してその治療に悪戦苦闘し、彼自身もマラリアを罹患して一時生死の境をさまよった。
気候も暑くてたまらなかったという。
1882年1月にリヴァプールへ戻ったころにはこれ以上アフリカ行きの汽船の船医を続ける気にはなれなくなっており、退職した[33]。
このあと、ロンドンの伯父たちに会って支援を受けようとしたが、敬虔なカトリックである彼らは信仰心を失ったドイルを助けてはくれなかった[34]。
1882年5月にはエジンバラ大学の同級生ジョージ・バッドに誘われて、プリマスのバッドの診察所の共同経営者となった。
バッドの診察は型破りとして評判で客が多かったが、ドイルが診察を分担するようになってから客が減ってきたため、2か月もたたないうちに2人の関係は破局した。
バッドが「ドイルの看板が外にあるから客が減るのだ」と非難してきたのを機にドイルはバッドと袂を分かつ決意を固めた[35][36]。
1882年6月末からポーツマス郊外サウスシー(英語版)で診察所を個人開業するようになった[37]。
8年にわたって診察所を続けたが、その年収が300ポンドを超えた年はなかった[38]。
すでに医師が多くいる地域だったためこれ以上の成功は望めない状況だったという[39]。
スポーツが得意だったため地域社会にはすぐに溶け込み、ボウリング大会で優勝したり、クリケット・クラブの主将を務めたり、サッカー・クラブの立ち上げにも参加した[40]。
1885年には病死した患者の姉であるルイーズ・ホーキンズと最初の結婚をした[41]。