中日ドラゴンズ、落合博満監督が契約満了で、辞任する。
中日監督になってから8年間。就任から8年で優勝→2位→優勝→2位(日本一)→3位→2位→優勝→優勝(連覇)と、歴代の中日監督の中でも最高の成績を残している。連覇の2011年も二度目の日本一が有力視されている。
興行面での、親会社、中日新聞首脳の反感を買って契約満了となった。
この「落合博満」という人物、野球人生の出発点ではいろいろと苦労されたようだ。
しかしポロ野球に飛び込んでからは華々しい活躍を残している。
現役時代、1978年、東芝府中からロッテオリオンズにドラフト3位で指名され入団。我流でバッティングを磨き上げたことが、のちに「オレ流」と呼ばれるようになった由来。
80年、シーズン後半にレギュラーを掴むと、81年には打率.326で首位打者を獲得。翌82年には打率.325、32本塁打99打点で史上最年少の三冠王に輝く。85年打率.367、52本塁打146打点という驚異的な成績で再び三冠王に輝いた。翌86年も三冠王を獲得、3度三冠王に輝いたのはプロ野球史上落合のみである。
しかし86年のシーズンオフに4対1という大型トレードで中日ドラゴンズに移籍する(交換相手は牛島和彦、上川誠二、平沼定晴、桑田茂)。この際、日本人選手として初めての年俸1億円プレイヤーとなった。中日移籍後も毎年のようにタイトル争いに絡み、2度の本塁打王・打点王に輝く。
93年には導入されたばかりのFA制度を利用し、読売ジャイアンツに移籍。
生涯通算打率.311は日本人右打者の歴代最高打率。鈍足の右打者でありながら圧倒的な打撃成績を残し続けたことで、「プロ野球史上最高の右打者」に挙げられることも多い。主なポジションは一塁手・三塁手。二塁を守っていたこともある。歴代全プロ野球選手のベストナインを選出する際には、一塁は王貞治、三塁は長嶋茂雄がいるため、本職ではない二塁手として選出される場合が多い。
また、監督になってからも、就任から8年で優勝→2位→優勝→2位(日本一)→3位→2位→優勝→優勝(連覇)と、歴代の中日監督の中でも最高の成績を残している。
また2011年で就任8年目であり、歴代中日監督で連続在任期間の最長を更新中だったが、フロントが解任を決定。2011年で監督を辞することになった。
監督時代は
就任1年目にしてセ・リーグを制覇し、同じく1年目の伊東勤率いる西武ライオンズとの日本シリーズに挑むが3勝4敗で敗れた。
2005年は2位。2006年は阪神の猛追を振り切ってリーグ制覇を果たすも、日本シリーズで日本ハムの勢いの前に屈した。
2007年はシーズンは2位に終わるも、クライマックスシリーズを全勝で勝ち上がり日本シリーズへ。前年敗れた日本ハムにリベンジを果たし、53年振りの日本一へ導く。第5戦での山井大介の降板については物議を醸した(後述)。
2008年は波に乗りきれず3位。2009年は巨人に大きく引き離され、3位とも離れた2位独走に終わる。
2010年はほとんど補強を行わず迎え、前半戦は苦戦したが、夏場からスパートをかけ、貧打を投手力でカバーし優勝。CS前の「全選手登録抹消」が話題を呼んだ。CSでも巨人を破り2007年に果たせなかった完全優勝を狙ったが、日本シリーズではロッテと死闘の末2勝4敗1分で敗れた。
2011年は統一球の影響からか、前半戦から大苦戦。首位ヤクルトと8ゲーム差が付いたまま前半戦は終了。
後半戦も差を埋められないまま・・・かと思いきや、中日球団社長の愚行により逆に選手達が発憤することに。
その後ヤクルトと最大10ゲーム差が付いたが、見事にこの差を逆転してリーグ連覇を果たす。
セリーグ優勝を果たしたとはいえまだ、クライマックスシリーズ。そして、日本シリーズ優勝という目標が残っている。
まだ、今年の監督業は終わったわけではない。
落合監督、お疲れ様とは言いません。また、すぐ別のチームの監督になってそのチームを常勝軍団に育て上げてください。