
1.まず、夢について私が日頃疑問に感じていることを幾つか上げてみると:
①どんなに生々しい夢でも、夢から醒めた途端すっかり完璧に忘れてしまうことが多々ある。なんとかその夢の欠片でも復元しようと未練がましく努めたりするが、その試みはまず成功することはない。
②その逆に「いつまでも覚えている夢」や「反復して何度でも見る夢」というものもある。いわば夢の只中での「デジャヴ現象」(既視感覚)というものがあって、その場合「この夢は見たことがある」「この場所には来たことがある」と自分でも納得していることが多い。目覚めてから反芻して、その状況設定が現実にはあり得ないシチュエーションであったとしても、夢の中ではあくまで一種独特のリアリティがある。
③目覚めた直後に、直前まで見ていた夢を自分で合理的に説明出来る場合がある。明らかに実社会での体験にアレンジを加えたと推測される夢で、その場合は誰の力も借りず自分独自で「夢判断」をすることも可能である。登場人物も知人が出演していたりして実にわかり易い。但し現実に起きた出来事を夢の中でそっくりそのまま反復することは、私の場合はない。
④この逆に、生涯一度も出会ったことのない(筈の)人とやけに親しげに話したり深刻なテーマで議論したりすることもある。夢の中ではそういう出会いを別段不思議に思うこともないので覚醒してから「何なんだ、これは?!」「何故俺がこんな夢を見なくちゃいけないんだ?!」と不思議に思う。
2.夢の舞台設定は複合的で時空を超越してあれこれ自由に混合されている場合が多い。夢というものは原則自由かつシュールで「何でもあり」なのだろうと思う。タブーや約束ごとはないというか、仮にあったとしてもそれを個々の事例に沿って逐一詳しく解析することなどは困難である。
晩年の黒沢映画にタイトルもそのままの『夢』という映画があった。映画自体芸術自体が『夢』を扱う媒体だから、これを敢て映画のタイトルに据えるということが私には「結局みんな興味はそっちへ方面へ行くのか」と、意外と言えば意外だった。
歴史家羽仁五郎が晩年、何かの会合で同席した埴谷雄高を捉まえて「君がいつまでも夢のようなことを書いているからいかん」と叱責したという逸話がある。
なにせ埴谷さんと言えば『死霊』であり『闇の中の黒い馬』だから。w
3.夢というとすぐに引き合いに出されるのが「Rem睡眠」と「Nonrem睡眠」で、私が中学~高校の頃は、夢は寝ている間に眼球がコロコロ急激に動き回る「Rem睡眠」時に見ているものだというのが定説だったが、現在では「Nonrem睡眠」時にも夢は見る、むしろ強度の心理的圧迫を伴い寝汗をかくようないわゆる『悪夢にうなされる』場合は眼球が動かないNonremの場合に多いというのだ。
4.夢と大脳の記憶との関係はしばしば指摘されている。記憶のために我々の脳はいくつもの引き出しを持っていて、その記憶を整理し「無意味な情報を捨てて、有用な情報を残す知覚作用が夢である」などというものであるが「覚醒後の実生活への準備のために夢を見ているのだ」などと言うに至っては議論が「実用主義」に偏り過ぎていて私には興ざめである。大脳生理学がどうの、脳波の働きがどうの、深層心理がどうの・・といった本格的な議論は当然必須だろうが、私にはそこまで詳述する能力はない。あちゃ。
5.概要文で少し触れたが「夢は死者からのメッセージである」という仮説が私の目下のトレンドでお勧めである。ちょっとオカルトっぽいけど、これがなかなか想像力を刺激する仮説なのである。
およそ生命というものを個々の個体中心に考えてしまうと、その歴史は一言『死屍累々』と言う以外になく、夥しい屍の連鎖を前提としなければ我々の今日はないと言える。
で、問題は死んでしまった者たちが生前脳裏に保持・格納していた筈の種々雑多な想い・想念・雑念・怨念・確執etc,は個体の死後いったいどこへ行ってしまうのだろうか、という点である。すべてはきれいさっぱり宇宙の彼方に雲散霧消してしまうというのが目下のところ『科学的』な説明ということになっているのだろうが、それでは寂し過ぎると私は思ったりするのである。
「我々は死んだらどこへ行くのか」「我々はどこから来てどこへ行くのか」という人類始まって以来の疑問にこの仮説は多少なりとも答えているのである。
つまり『夢』が『夢』を連綿と引き継いで我々の想念を継承し続けているというのである。
夢バトンである。ぁそ。
============
6.三日前見た夢はパチンコの夢である。私ではなく知り合いらしい人物が打っていて私は彼の背後から彼をサポートする役目のようである。知り合いは程ほど出している様子だが、隣にはヤクザ風の男が打っていてそちらは負けが混んでいて不機嫌である。まあそういう状況設定だが、そこからが意味不明で、打ち手がザラザラ皿に溢れて来る出玉の中にアルミ缶のプルトップが混じり込んでいることに気づいてそれを気にし始めた。今考えると、現在のアルミ缶飲料はプルトップ一体型だから、プルトップだけが外れてパチンコ球の中に混ざって来るなどというのは変な話だが、夢だからしょうがない。で、私が台の裏側を調べに入るとそこには平たく潰した数多くのアルミ缶を収集する巨大なベルトコンベアがあって、全体は工場のようになっている・・という、そういう夢だった。あっそ。意味不明である。
他にも私がライブコンサートで岡林の『山谷ブルース』をアドリブで熱唱して結構受けるが、私の退出と入れ違いに会場へ入って来た若者の人気の方が遥かに上回っていたとか、今朝はまた別の興味深い夢を見たが、そっちはこれを書いているうちに内容をすっかり忘れてしまった。残念。ぁそ。
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cf.ウィキペディア夢によれば『夢とは睡眠中に起こる、知覚現象を通して現実ではない仮想的な体験を体感する現象をさす』となっている。
というわけで、グーグルに検索をかけてみたが、ウィキペディア以外ではこれと言って気を惹かれる記述は見当たらなかった。もっと面白いことがたくさんあると思って期待していたのに・・。
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cf.同じくウィキペデイア地球によれば:
地球は2008年現在のところ、知られている中で唯一生命体の確認されている天体である。生命は地表だけではなく、地下10km程度から上空100kmに至る広い範囲に存在する。大気の組成(酸素の濃度)は植物によって維持されている。
* 生物圏(ガイア)
o 生命、生物、動物、植物
o 人類の活動が与える惑星地球、特に生命圏への影響は大きく悲観的な意見も少なくない。
o 地球を地殻、海洋や大気などのシステムの集合体として捉え、これらシステム相互の物質循環、エネルギー循環によって地球という惑星を捉える考え方もある。このような捉え方では、人類が狩猟採集の生活様式を取り、自然界の一要素として存在している場合には、人類を生命圏というシステム内部の要素として考えておけばよいとする。しかし、人類が農耕など自らのために環境を改変するようになった場合には、人間圏という新しいシステムが地球に誕生したとみなし、新システムと既存のシステムとの相互作用によって地球表層環境が定まるという見方をする[1]。このような見方に立つと、現在の地球は新しいシステムが誕生し、システム相互の新たな均衡に向かって変化しつつある時代に入ったということもできる。
・・ということである。
太陽の寿命は100億年で今50億歳、地球を含む太陽系惑星もほぼ同時に生成されたらしく、隕石や月から持ち帰ったサンプルの岩石からは46億年という年代が測定されている。
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cf.ガイア理論。
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①どんなに生々しい夢でも、夢から醒めた途端すっかり完璧に忘れてしまうことが多々ある。なんとかその夢の欠片でも復元しようと未練がましく努めたりするが、その試みはまず成功することはない。
②その逆に「いつまでも覚えている夢」や「反復して何度でも見る夢」というものもある。いわば夢の只中での「デジャヴ現象」(既視感覚)というものがあって、その場合「この夢は見たことがある」「この場所には来たことがある」と自分でも納得していることが多い。目覚めてから反芻して、その状況設定が現実にはあり得ないシチュエーションであったとしても、夢の中ではあくまで一種独特のリアリティがある。
③目覚めた直後に、直前まで見ていた夢を自分で合理的に説明出来る場合がある。明らかに実社会での体験にアレンジを加えたと推測される夢で、その場合は誰の力も借りず自分独自で「夢判断」をすることも可能である。登場人物も知人が出演していたりして実にわかり易い。但し現実に起きた出来事を夢の中でそっくりそのまま反復することは、私の場合はない。
④この逆に、生涯一度も出会ったことのない(筈の)人とやけに親しげに話したり深刻なテーマで議論したりすることもある。夢の中ではそういう出会いを別段不思議に思うこともないので覚醒してから「何なんだ、これは?!」「何故俺がこんな夢を見なくちゃいけないんだ?!」と不思議に思う。
2.夢の舞台設定は複合的で時空を超越してあれこれ自由に混合されている場合が多い。夢というものは原則自由かつシュールで「何でもあり」なのだろうと思う。タブーや約束ごとはないというか、仮にあったとしてもそれを個々の事例に沿って逐一詳しく解析することなどは困難である。
晩年の黒沢映画にタイトルもそのままの『夢』という映画があった。映画自体芸術自体が『夢』を扱う媒体だから、これを敢て映画のタイトルに据えるということが私には「結局みんな興味はそっちへ方面へ行くのか」と、意外と言えば意外だった。
歴史家羽仁五郎が晩年、何かの会合で同席した埴谷雄高を捉まえて「君がいつまでも夢のようなことを書いているからいかん」と叱責したという逸話がある。
なにせ埴谷さんと言えば『死霊』であり『闇の中の黒い馬』だから。w
3.夢というとすぐに引き合いに出されるのが「Rem睡眠」と「Nonrem睡眠」で、私が中学~高校の頃は、夢は寝ている間に眼球がコロコロ急激に動き回る「Rem睡眠」時に見ているものだというのが定説だったが、現在では「Nonrem睡眠」時にも夢は見る、むしろ強度の心理的圧迫を伴い寝汗をかくようないわゆる『悪夢にうなされる』場合は眼球が動かないNonremの場合に多いというのだ。
4.夢と大脳の記憶との関係はしばしば指摘されている。記憶のために我々の脳はいくつもの引き出しを持っていて、その記憶を整理し「無意味な情報を捨てて、有用な情報を残す知覚作用が夢である」などというものであるが「覚醒後の実生活への準備のために夢を見ているのだ」などと言うに至っては議論が「実用主義」に偏り過ぎていて私には興ざめである。大脳生理学がどうの、脳波の働きがどうの、深層心理がどうの・・といった本格的な議論は当然必須だろうが、私にはそこまで詳述する能力はない。あちゃ。
5.概要文で少し触れたが「夢は死者からのメッセージである」という仮説が私の目下のトレンドでお勧めである。ちょっとオカルトっぽいけど、これがなかなか想像力を刺激する仮説なのである。
およそ生命というものを個々の個体中心に考えてしまうと、その歴史は一言『死屍累々』と言う以外になく、夥しい屍の連鎖を前提としなければ我々の今日はないと言える。
で、問題は死んでしまった者たちが生前脳裏に保持・格納していた筈の種々雑多な想い・想念・雑念・怨念・確執etc,は個体の死後いったいどこへ行ってしまうのだろうか、という点である。すべてはきれいさっぱり宇宙の彼方に雲散霧消してしまうというのが目下のところ『科学的』な説明ということになっているのだろうが、それでは寂し過ぎると私は思ったりするのである。
「我々は死んだらどこへ行くのか」「我々はどこから来てどこへ行くのか」という人類始まって以来の疑問にこの仮説は多少なりとも答えているのである。
つまり『夢』が『夢』を連綿と引き継いで我々の想念を継承し続けているというのである。
夢バトンである。ぁそ。
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6.三日前見た夢はパチンコの夢である。私ではなく知り合いらしい人物が打っていて私は彼の背後から彼をサポートする役目のようである。知り合いは程ほど出している様子だが、隣にはヤクザ風の男が打っていてそちらは負けが混んでいて不機嫌である。まあそういう状況設定だが、そこからが意味不明で、打ち手がザラザラ皿に溢れて来る出玉の中にアルミ缶のプルトップが混じり込んでいることに気づいてそれを気にし始めた。今考えると、現在のアルミ缶飲料はプルトップ一体型だから、プルトップだけが外れてパチンコ球の中に混ざって来るなどというのは変な話だが、夢だからしょうがない。で、私が台の裏側を調べに入るとそこには平たく潰した数多くのアルミ缶を収集する巨大なベルトコンベアがあって、全体は工場のようになっている・・という、そういう夢だった。あっそ。意味不明である。
他にも私がライブコンサートで岡林の『山谷ブルース』をアドリブで熱唱して結構受けるが、私の退出と入れ違いに会場へ入って来た若者の人気の方が遥かに上回っていたとか、今朝はまた別の興味深い夢を見たが、そっちはこれを書いているうちに内容をすっかり忘れてしまった。残念。ぁそ。
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cf.ウィキペディア夢によれば『夢とは睡眠中に起こる、知覚現象を通して現実ではない仮想的な体験を体感する現象をさす』となっている。
というわけで、グーグルに検索をかけてみたが、ウィキペディア以外ではこれと言って気を惹かれる記述は見当たらなかった。もっと面白いことがたくさんあると思って期待していたのに・・。
============
cf.同じくウィキペデイア地球によれば:
地球は2008年現在のところ、知られている中で唯一生命体の確認されている天体である。生命は地表だけではなく、地下10km程度から上空100kmに至る広い範囲に存在する。大気の組成(酸素の濃度)は植物によって維持されている。
* 生物圏(ガイア)
o 生命、生物、動物、植物
o 人類の活動が与える惑星地球、特に生命圏への影響は大きく悲観的な意見も少なくない。
o 地球を地殻、海洋や大気などのシステムの集合体として捉え、これらシステム相互の物質循環、エネルギー循環によって地球という惑星を捉える考え方もある。このような捉え方では、人類が狩猟採集の生活様式を取り、自然界の一要素として存在している場合には、人類を生命圏というシステム内部の要素として考えておけばよいとする。しかし、人類が農耕など自らのために環境を改変するようになった場合には、人間圏という新しいシステムが地球に誕生したとみなし、新システムと既存のシステムとの相互作用によって地球表層環境が定まるという見方をする[1]。このような見方に立つと、現在の地球は新しいシステムが誕生し、システム相互の新たな均衡に向かって変化しつつある時代に入ったということもできる。
・・ということである。
太陽の寿命は100億年で今50億歳、地球を含む太陽系惑星もほぼ同時に生成されたらしく、隕石や月から持ち帰ったサンプルの岩石からは46億年という年代が測定されている。
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cf.ガイア理論。
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