「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

「24」 ④

2024年12月22日 08時48分57秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・今度こそ男御子でいられたら、
と伊周の君などは狂喜して、
すぐさま千日の修行を、
思い立たれる

これも噂だが、
彰子姫のおつきの女房に、
なりたくて運動していた、
中宮方の誰かが、
中宮ご懐妊と聞いて、
またあわててたちもどり、
知らぬ顔で忠勤に励んでいるとか

彰子姫方では、
中宮ご懐妊の噂に、
動揺をかくせないという

これから忙しくなる

彰子姫も入内準備で、
お忙しいだろうが、
中宮方もご出産準備で忙しい

お里下がりすべきお邸、
その日程などを決めなければ、
いけない

夏は暑かった

その暑いさなか、
内裏に火が出た

六月十四日の夜中だった

「火事!」

という声で目覚めたときは、
局のすぐそばまで、
煙が迫っていて、
男たちが建物を打ちこわしに、
かかっている

私はまっ先に、

「宮は?中宮さまを!」

と叫んだ

「お車でおのがれになりました
主上もご一緒です」

誰かの返事に私はほっとして、
よろめく

不幸な中宮

火事に遭われるのは、
これで二度目でいられる

主上と中宮はまたもや、
離れ離れのお暮しに入られた

内裏が焼失してしまったので、
主上は太政官の朝所に、
やがて一条院へうつられる

中宮は職の御曹司へ戻られる

長く離れ離れでいられ、
やっと内裏に一つ屋根の下に、
お住まいになったと思ったら、
その楽しい月日は半年しかなかった

何ものか、
運命の悪意のごときものが、
お二方を引き裂こう、
引き離そうとしている

ただそういう中でも、
大きい希望であるのは、
主上の中宮に対する熱いご愛情だった

引き裂かれれば引き裂かれるほど、
お二人の恋はめざましく、
生まれかわり、
燃えあがるように思われた

物狂おしいほどしばしば、
主上のお文は届けられた

十一月に予定される、
ご出産にそなえて、
主上のお心づくしは、
お手紙にあふれているらしかった

だが、天下のあるじでいられる、
主上にも、
自分の思うように生きられない宿命、
がおありで、
どんなにお心を砕いていられるようでも、
お力の及ばないことがあった

中宮大夫となっていた惟仲が、
病を理由に辞退してしまった

そのあと、
中宮職の長官は欠員のままである

中宮をお世話するはずの、
役所の長官がいないのだから、
お産のために宿下りなさる、
手はずをととのえてくれる者が、
あるはずもなかった

惟仲が長官を辞退したのは、
私の思うに彰子姫の、
入内にそなえてのことであろう

あの野心家のおっさんは、
彰子姫の時代になったとき、
反対側の中宮方についているのは、
不利とにらんだにちがいない

機を見るに敏い惟仲は、
先をよんで、

(ここは、早いうちに、
こういう厄介な地位から、
抜けださなくては・・・)

と思ったのであろう

「ずいぶん短いご在任で、
お名残惜しゅうございますわ」

と私が皮肉をいってやると、
(半年しかたっていないのだ)

「私めもまこと心残りに、
存ぜられます
不行き届きでございますが、
私のあとは弟の生昌が、
心をこめてお仕えいたしましょう」

としゃあしゃあとした顔で、
いうのである

生昌というのは、
中宮大進、
長官からかぞえると、
三等官である

しかも伊周の君が、
ひそかに帰京なすったとき、
それを道長の君に、
密告したといわれた男である

職の御曹司で見かける生昌は、
五十がらみの、
無骨な田舎侍といった風躰

惟仲のほうがまだまし、
というところだが、
生昌は蟹をおしつぶしたような、
顔をしている

中宮大夫に「いい男」を、
よこさないという不満もあるが、
社会的にも人望のある、
女房たちにもうけのいい男が、
中宮づきの役所にいないのである

そういうイキのいい男はみな、
道長左大臣の陣営に奪われてしまう

右衛門の君なぞ、
皮肉めいて、

「どうせ、そうなのよ
男たち自身、
左大臣側につきたがっている
出世したいという、
まともな感覚のある男なら、
誰だってそう思うわ」

なんていう

そのくせ、
自分は左大臣側にいかず、
いつまでも中宮方に、
お仕えしているのだから、
わからない

生昌みたいな、
万年ヒラ役人なら、
せめて真面目で、
誠実であればいいのに、
密告なんかするいやらしさが、
許せない

棟世に話すと、
棟世は脇息に寄って、
扇を使いながら、

「生昌のお邸へ、
多分お里下がりなさる、
ことだろうよ」

という

邸も人も都には多いのに、
中宮のお里下りなさるところは、
どこにもないのだ

生昌邸へ行啓なんて、
考えられもしないことだった

かりにも中宮という、
ご身分でありながら、
生昌ごとき者の、
小さい邸へ

「あなたは、
そう怒ってばかりいるが、
あの生昌は但馬守だから、
隆家の君(中宮の弟君)が、
流されなすったときは、
とてもよくお世話した、
ということだよ
まじめ誠実を、
うまく使いこなすことだな
そうすれば、
彼もよくやってくれるはずだ」

棟世は私を見て、

「あなたが中宮さまいちずだから、
ほかのことに心を分けられない、
と思うが・・・
私は摂津へ下らねばならない
摂津守になりそうなんでね
とてもついて来るまいね?」

それを棟世は気楽に軽くいう

「ついて来い」でもなく、
「来てくれ」でもない

それは私にとって、
好もしかった

私は私の意志を、
尊重してもらえるのが、
いちばん嬉しいので、
そういう言い方に、
棟世の愛情を感じる

だから自然に、

「ほんとに残念だわ
一緒に行きたいわ・・・
磯や海、
摂津の歌まくらを、
毎日みたいわ
でも中宮さまはいま、
大変なときでいらっしゃるし、
見捨てて行けやしないわ」

といった






          


(次回へ)

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