・あの細殿は、
私にもなつかしかった
登華殿の西廂、
あれは清涼殿への道なので、
男たちが絶えず通っていた
昼も夜も男の沓音が絶えず、
細殿の遣戸をひそかに叩く、
音が深夜も聞こえた
また、
大勢の貴公子たちを迎えて、
夜もすがら話に興じたこともあった
いや、またそのうちに、
そういう日が来るであろう
二の宮をお抱きになった中宮が、
再び入内される日が
何たって、
女御は多くいられても、
中宮はお一人、
格がちがう
「それはそうですが、
しかし、左大臣どのは、
彰子姫を女御でおいておく、
おつもりはなさそうですよ」
経房の君は、
ひとり言のようにいわれる
「だって、
もうすでに中宮のお位は、
占めていられるでは、
ありませんか」
私は開いた口がふさがらぬ
「さ、そこが、
左大臣どのの頭が痛いところだが、
制度には抜け道というものが、
必ずあるもの
そうなると、
いまの中宮さまは、
皇后という呼称に、
変るかもしれませんよ」
「そんな強引な
そんな無茶な・・・」
さすがに私は言葉もなかった
「お一人の帝に、
后がお二人、なんて」
女御や更衣はあまた、
お仕えしていても、
お后は一人に決まったもの、
立后されるとお乗り物も、
お手回りのものも、
みななみのものと違ってくる
大床子をしつらえ、
御張台の前に、
狛犬と獅子がたてられ、
庭には衛士の火焼屋が設けられる
ただびとから皇族におなりになる、
ということは大変なものなのだ
中宮のそうしたお身分に、
私たちは安心していたが、
彰子姫が中宮に負けず、
立后されるとしたら、
中宮はどうなさるのであろう
「大丈夫ですよ
人々の気持ちが支えです
世間は内心、
深い同情を定子中宮に捧げています
人間はそんなに情け知らずの、
いきものじゃありません」
経房の君は、
そんなことをいって下さって、
私は気が晴れてくる
御安産祈祷の坊さんの集りが、
悪いことも、
(むろん、左大臣家に遠慮している)
産養い(誕生の祝賀式)の準備が、
はかどらないのも、
経房の君にはいえない
十一月七日卯の刻(午前六時ごろ)
中宮は無事にご出産
皇子でいらっしゃった
ひときわ高くなる、
ご祈祷の読経の中、
どっとわきおこる声々
「皇子であられた!」
「男御子一の宮の、
ご誕生でございます」
「内裏へお使者を」
兄君の伊周の君は、
泣き出していられる
弟君、隆家の君は、
詰めかけた祝賀客の応接に、
心もそらに走りまどうて、
おられる
姫宮とちがって、
皇子のご誕生は、
手のこんだ儀式に飾られる
東三条女院と主上に、
お使者がたち、
主上からはたちまち御剣が、
つかわされる
御産湯の儀式には、
内裏からつかわされた、
右近の内侍がお仕えし、
そのうち続々と、
絹、綾などがあちこちから、
贈られてくる
中宮も皇子もつつがなく、
誰も彼も上気して、
生昌は使者の君たちに、
心ここにあらずのさまで、
「ハイ、シーッ」
ばかりくり返す
中納言の君をたすけて、
私はお祝客の整理に、
けんめいだった
みなお使者ばかりだけれど、
相応の禄など出さねばならぬ
何といってもこういう場合、
きちんと采配を振る男あるじが、
いなければならぬのであるが、
帥の君(伊周の君)は、
祈祷がむくわれて、
皇子ご出産が実現したというので、
いよいよお祈りのほうに、
精出され、
隆家の君は中宮と皇子を、
お守りするのに手いっぱい、
というありさま
夜に入って内裏からは、
藤三位をはじめ、
重だった女房たちが、
主上の仰せをうけて、
若宮を拝みにくる
栄えある物騒がしさ、
私たちも交代で食事をとり、
休憩するというありさまだった
けれども、
あとで聞けば同じこの夜
十一月七日の夜は、
内裏でも大変な賑わい、
こちらのほうは私どもより、
もっと重々しいさわぎだったのだ
彰子姫は一日に入内されたが、
七日にははやくも、
女御の宣旨を受けられ、
その夕方、主上ははじめて、
彰子姫のお部屋に入られ、
お会いになっている
主上二十歳、
彰子姫十二歳
姫は大人びて態度も落ち着き、
とても十二にはお見えにならぬ
気高いお美しさというが、
主上は、
「あまりに若々しい姫だ、
これでは私は七十の、
お爺さんになった気分だ」
と冗談を仰せられたとか、
七日の夜はあまたの公卿が、
慶賀に参りつどい、
藤壺は一夜、
音楽と歓声に沸いたそうであった
左大臣どのの、
得意気なお顔が、
見えるようである
しかしこちらのお邸でも、
いかめしい作法が型通り、
次々行われる
新皇子がお湯殿を召すときの、
鳴絃(つるうち)や、
読書(ふみよみ)が行われる
夜っぴてかがり火が焚かれ、
五位六位の男たちや、
衛府の侍がつめかけて、
「今上(きんじょう)の第一皇子、
ご誕生」
と緊張感をたかめる
私はまるで、
自分が出産を果たしたように、
ほっとしてしまった
女房たちの中にも、
ここ数日の疲労がどっと出て、
安心のあまり、
やっと眠りこむ人やら、
くつろぐ人、
里下りする人、
いっぺんにいきいきとしてしまう
とうとう中宮に、
男御子がお生まれになった、
お仕えしていた甲斐があった、
と私は誇らしかった
小左京の君は、
ばかな女であるが、
ばかなりに本音をいう女で、
「まあ、
よくもほかへ行かなかったこと
若宮誕生に立ち会うことができて、
よかったこと」
などと満足そうにいう
それでは逆境の中宮を見捨てて、
よそのお邸へ鞍替えすることを、
考えていたのかしら?
(次回へ)