「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

8、宿木 ①

2024年05月28日 07時16分24秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・「宇治へお連れせよ、
といわれますか」

驚く薫に中の君は訴える。

「わたくし、
京へ出るべきでは、
ございませんでした。
やはり宇治にいれば、
よかったのです。
弁の尼が羨ましい。
それにこの八月二十日は、
父の命日でございます。
法要をいたしたいと思います」

「それなら、
ご心配は要りません。
故宮の法事はすべて阿闍梨に、
頼んであります。
宇治へ行かれるといっても、
あの険しい山越えの道は、
男でも大変ですから、
そう簡単には。
それに山荘をご覧になると、
またお悲しみも増すでしょう。
私のかねての考えですが、
あの山荘をお寺になさいませんか」

「それならば、
どうぞわたくしを宇治へ、
お連れ下さい。
お父さまの法事をよい折に、
そのまま引きこもってしまいたい」

「とんでもないことです」

薫は中の君の心もわかるが、
後見人らしくいましめねば、
ならない。

日が高くなって、
人々が集まってきた。

あまり長居をしても、
わけありげに見えるので、
薫は立った。

あの中の君の悲しみ。

(それもみな、
自分が招いた運命)

と薫はくり返し思う。

亡き大君の願い通り、
中の君と結婚していれば、
こんな物思いもなかった。

薫は大君の死以後、
勤行にいそしんでいた。

それを母君の女三の宮が、
心配されて、

「あなたは出家などなさる、
おつもりではありますまいね。
長くもないわたくしの寿命のある間は、
そのままの立派なお姿でいて下さい。
あなた一人が頼りの、
この母の身になって、
世を捨てたりなさらないで。
あなただけが生きがいなのです」

といわれる。

この母宮は、
お年を召されても、
おっとりとはかなげな、
頼りないお気だてだった。

そういわれると、
薫は母宮がいとおしく、
あわれに思われ、

「大丈夫です」

と何気ないさまでいい、

(何もかも忘れて生きよう)

とわが心を叱咤する。

いよいよ、
匂宮と六の君の婚儀の夜になった。

夕霧右大臣は、
六條院の東の御殿を、
飾り立てて婿君を待った。

十六夜の月がのぼる。

まだ婿君の姿は見えぬ。

(お気のすすまぬ風、
もしやすっぽかされるのでは)

夕霧は気が気でなく、
ひそかに人をやって、
様子を探らせると、
宮は宮中をご退出になって、
二條院に帰られたという。

(うーむ、
お気に入りの愛人が、
いられるのだから仕方ないが、
しかし婚儀をすっぽかされた、
とあっては物笑いのたねだ。
どうしても今夜の予定を、
うやむやにするわけにはいかぬ)

夕霧は息子の頭の中将を、
お迎えにやった。

夕霧の歌が添えられた。

<大空の月にやどるわが宿に
待つ宵すぎて見えぬ君かな>

宮は最初、
宮中から直接、
夕霧の六條院へ、
おいでになるおつもりだった。

今夜がその日とは、
あまりにむごくて、
中の君にお告げになれない。

それで、
今夜は宮中で宿直だと、
中の君にお文をやられたが、
折り返してきた中の君の返事に、
お胸をつかれられた。

中の君はすでに、
周囲の人々の噂で、
今日がその日と知っていた。

しかし返事には、
恨み言はなくて短く、

「宿直あけの日を、
お待ちしております」

宮は六條院へ行かれる、
お気持ちが失せた。

こっそりと二條院へ、
お戻りになった。

中の君は小さくつぶやく。

「今夜はあちらへ、
お渡りの日では、
ありませんでした?」

「もうどこへも行かない。
いつまでも二人で、
ここで暮らす。
誰の婿にもならない」

しかし恋人たちは、
たちまち引き裂かれた。

頭の中将の来訪が告げられた。






          


(次回へ)

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