むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

6、花宴 ③

2023年08月19日 08時44分09秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・源氏が来た、というのに、
正妻・葵の上はなかなか顔を見せない。

化粧に手間どるのだろうか、
もったいぶっているのだろうか、
夫婦らしく、
普段の素顔を見せてくれればいいのに、
と源氏はいつものことながら、
手持ち無沙汰に物淋しい。

(男にこうも所在ない気持ちを味合わせて、
いいと思っているのかなあ)

などと、それからそれへ考えつづける。

男が女のもとへ来て、
さまざま感慨にふけっているようでは、
その男女の仲はおしまいである。

そこへ義父の左大臣が来た。

左大臣は婿のおとずれを、
娘より喜んでいるのだった。

「花の宴は面白うございましたな。
私はこの年になるまで、
四代の帝にお仕えしましたが、
この度のように詩文の出来栄えがみごとで、
舞や楽がすぐれていたのは初めてで、
命も延びる気がいたしました。
あなたがその道の、
物の上手をよくご存じで、
おえらびになったためでしょうな」

「いや、
特に私の心くばりのせいではありませんが・・・
それよりも、頭の中将の舞が見事でした」

源氏はやさしいところがあるので、
左大臣の愛息をほめるのだった。

そこへ中将や弁といった子息たちもやってきて、
管弦の遊びがはじまった。

源氏はやっと心が明るんだ。

この邸へ来る楽しみは、
妻よりもむしろ、
男同士のつき合いの面白さに、
あるように思われる。

男性の身内に恵まれなかった源氏にとって、
義父や義兄弟とむつみあうのは、
楽しいことなのであった。

右大臣家の六の君は、
四月、東宮妃として入内することになった。

源氏はそのことを聞くにつけても、
おぼろ月夜にあった女が、
その人かどうか、
わからないのが気がかりである。

三月二十日過ぎ、
右大臣邸では賭弓(のりゆみ)の、
勝負の催しが行われ、
親王方や高官を招待した。

そのまま引き続いて、
藤の花の宴がある。

万事派手好みの右大臣家であるから、
弘徽殿の女御がお生みになった、
姫宮たちの御裳着の日のために、
邸も新築されて磨き立てられている。

右大臣は源氏を、
ぜひに、と招待してきた。

「まあ、なみの宴会なら、
こうも強いてお招きいたしませんよ」

源氏が父帝にこのことを告げると、

「得意そうだな、右大臣は」

とお笑いになって、

「せっかくの招待なのだから、
早く行っておやり。
そなたにとっては異母姉妹の内親王たちも、
育った邸なのだから、
右大臣もそなたを他人とは思っていないだろう」

源氏は身だしなみに心をつかって、
かなり暮れたころ、右大臣邸に着いた。

桜がさねの直衣。

表は唐織りの白い薄物、
裏は紅だった。

白の薄物には金糸がキラキラし、
裏の紅が透けて優美に見える。

他の招待客たちは、
みな黒の正装なので、
その中でひときわ目立って、
なまめかしく見える。

源氏は帝の御子ということで、
うちとけて洒落た平服を、
どんな席でも許されているのだった。

管弦の遊びに面白く夜はふけ、
源氏は酔って苦しくなるふりをして、
そっと宴席を出た。

寝殿には姫宮たちがいらした。

源氏は東の戸口に寄りかかっていた。

藤の花はこちらに咲いているので、
それを見ようとて、
格子はみなあげてある。

女房たちもいっぱいいた。

色とりどりの袖口が派手やかにこぼれ出て、
浮ついた雰囲気である。

それにつけても、
源氏は藤壺御殿の、
たしなみある落ち着いたたたずまいが、
おくゆかしく思い比べられた。

「酒を強いられて、
苦しくなりました。
おそれいりますが、
ここへかくまってください」

源氏が御簾の内へ上半身を入れると、

「まあ、いけませんわ、女の部屋に」

という女性の声は、
品よく美しかった。

内親王が見物なさるのについて、
右大臣家の姫君たちも、
ここにいるのに違いない。

高貴な女人たちが幾人かいるらしい。

内親王がいられたら、
遠慮しないといけないところだが、
源氏は心がおどるのを抑えかね、
立ち去れない。

源氏はそっと言ってみた。

「扇に思い出はおありですか?」

「え?なんのことをおっしゃっていますの?」

という一人の女人は、
これは目当ての人と違うらしい。

が、その奥で、
もう一人つぶやく女人がいた。

「おぼろ月夜に、
道をお迷いになりませんでした?」

源氏は嬉しさで飛び立ちそうだった。
まさしくあの女人の声ではないか。






          


(了)

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