・それから、
いままで言い慣わされ、信じられてきたことが、
あまりアテにならぬ、いや、そうは思わぬ、
と訂正したくなることが多い。
以前、「血と水」で書いたように、
「血は水より濃い」も、五十五まで生きてくると、
(そうかなあ)と自分なりに訂正したくなる。
「血は水より濃くない」のだ。
肉親が相寄るいやらしさも、
かなりのものだ。
他人の結びつきの方が、
好ましい人間関係だと思えてくる。
若いときは、人の花が赤く見え、
うらやましがったり、とてもかなわぬと思う。
しかし「むはははは」の五十五になると、
(内実はどの人間も似たりよったり、ではないか)
とふと気づく。
この「ふと」というのが興がある。
一生懸命考えたあげく、というのではなく、
ある日、何かをしながら、ポッカリ浮かぶ考えなのである。
私がうらやましがっているその人も、
きっと別の人をうらやましがってるのだろう、と思う。
その人はその人なりの辛苦や悔恨、困惑をかかえ、
迷い多い人生を渡っているのではないか、
みんなチョボチョボではないだろうか、と思う。
それからまた、
仕事にしろ、人生設計にしろ、健康にしろ、
「完全無欠」ということは、ありえないのではないか、
と思い出す。
体のどこかが悪いというと、
若いときは、徹底的に直そうと思う。
しかし今は、抑えて、抑えられればそれでいい、
という気でいる。
だましだまし持ってゆく、というのでいい、
それだって気の持ち方で長寿が保てる。
さてまた、この長寿だが、
健康だから長生きすると限らぬ、と気づく。
長寿と健康は別もので、
足腰と内臓は別のようである。
長寿とあたまのボケも別ものだし、
丈夫なスポーツマンでも早世する人、
かしこい文化人、学者で老いボケる人、
もう、いろいろ、さらに老いこむ、老ける、
というのも千差万別、
早くから老いる男や女もいれば、
七十になって元気で魅力的な男女もいて、
「年の枠をすべての人にはめられない」と思う。
肉体と精神のバランス。
肉体だけ健康でも、
心が充たされていなかったら、
トータルすれば、病める個体としかいいようがない。
双方、バランスがよくとれていれば、
肉体は弱くても、個体の運は強くなり、
輝きを持つ、のではなかろうか。
精神のバランスを保つとは、
幸福であること、なのだが。
この年になってみると、
「ほんとに子供って要るもんですか」
という気になってしまう。
子はカスガイにもならず、
子は親の後姿を見て育たぬ時代になってしまった。
子供なんて、いなければいないで、、
どうということも別にない。
それでは老人になったとき淋しいではないか、
という人もあるが、そのためには、
友人文化というのを作りあげていくほうがいい。
この友人だが、
追々に交際状態は変化してゆくもの、
いまつきあっている人が、
老いてもつきあえるかどうかは、わからない。
友人も変ってゆく。
変らぬ友情、というのも現実には稀有なこと、
と気づいたのも五十五になって、である。
しかし、老いてのち続いている友情が、
もしあれば、子供や身内よりいい。
もう一つ、
五十五になってつくづく思うのは、この地球で、
なんで人間だけが威張らにゃならぬかということ。
地球は人類だけのものではなく、
獣、魚、鳥、虫、植物のものであるのに、
人類が勝手に汚染、乱開発するものだから、
さぞ彼らは人類を怒っていることであろう。
いつかそのしっぺ返しがくるに決まっている。
原発や核兵器で地球を汚したりすると、
彼らに申し訳たたない、という気になってしまう。
それから、若い時は平気で食べた、
その姿をとどめている食べ物、
雀の丸焼きとか、エビのおどり食い、白魚のおどり食い、
などが次第に無惨な気がし、
すべての動物が、あわれにいじらしく、
いたいたしい思いになってきて、
人間よりも動物が好ましくなってくる。
そういうのもひっくるめ、
私は今までとちがう新しい一区切りへ、
足を踏み込んだ気がして、
この五十五がとても気に入っている。
(了)