むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

12、むはは・・五十五 ③

2022年08月01日 08時22分29秒 | 田辺聖子・エッセー集










・それから、
いままで言い慣わされ、信じられてきたことが、
あまりアテにならぬ、いや、そうは思わぬ、
と訂正したくなることが多い。

以前、「血と水」で書いたように、
「血は水より濃い」も、五十五まで生きてくると、
(そうかなあ)と自分なりに訂正したくなる。

「血は水より濃くない」のだ。

肉親が相寄るいやらしさも、
かなりのものだ。

他人の結びつきの方が、
好ましい人間関係だと思えてくる。

若いときは、人の花が赤く見え、
うらやましがったり、とてもかなわぬと思う。

しかし「むはははは」の五十五になると、
(内実はどの人間も似たりよったり、ではないか)
とふと気づく。

この「ふと」というのが興がある。
一生懸命考えたあげく、というのではなく、
ある日、何かをしながら、ポッカリ浮かぶ考えなのである。

私がうらやましがっているその人も、
きっと別の人をうらやましがってるのだろう、と思う。

その人はその人なりの辛苦や悔恨、困惑をかかえ、
迷い多い人生を渡っているのではないか、
みんなチョボチョボではないだろうか、と思う。

それからまた、
仕事にしろ、人生設計にしろ、健康にしろ、
「完全無欠」ということは、ありえないのではないか、
と思い出す。

体のどこかが悪いというと、
若いときは、徹底的に直そうと思う。

しかし今は、抑えて、抑えられればそれでいい、
という気でいる。

だましだまし持ってゆく、というのでいい、
それだって気の持ち方で長寿が保てる。

さてまた、この長寿だが、
健康だから長生きすると限らぬ、と気づく。

長寿と健康は別もので、
足腰と内臓は別のようである。

長寿とあたまのボケも別ものだし、
丈夫なスポーツマンでも早世する人、
かしこい文化人、学者で老いボケる人、
もう、いろいろ、さらに老いこむ、老ける、
というのも千差万別、
早くから老いる男や女もいれば、
七十になって元気で魅力的な男女もいて、
「年の枠をすべての人にはめられない」と思う。

肉体と精神のバランス。

肉体だけ健康でも、
心が充たされていなかったら、
トータルすれば、病める個体としかいいようがない。

双方、バランスがよくとれていれば、
肉体は弱くても、個体の運は強くなり、
輝きを持つ、のではなかろうか。

精神のバランスを保つとは、
幸福であること、なのだが。

この年になってみると、
「ほんとに子供って要るもんですか」
という気になってしまう。

子はカスガイにもならず、
子は親の後姿を見て育たぬ時代になってしまった。

子供なんて、いなければいないで、、
どうということも別にない。

それでは老人になったとき淋しいではないか、
という人もあるが、そのためには、
友人文化というのを作りあげていくほうがいい。

この友人だが、
追々に交際状態は変化してゆくもの、
いまつきあっている人が、
老いてもつきあえるかどうかは、わからない。

友人も変ってゆく。

変らぬ友情、というのも現実には稀有なこと、
と気づいたのも五十五になって、である。

しかし、老いてのち続いている友情が、
もしあれば、子供や身内よりいい。

もう一つ、
五十五になってつくづく思うのは、この地球で、
なんで人間だけが威張らにゃならぬかということ。

地球は人類だけのものではなく、
獣、魚、鳥、虫、植物のものであるのに、
人類が勝手に汚染、乱開発するものだから、
さぞ彼らは人類を怒っていることであろう。

いつかそのしっぺ返しがくるに決まっている。

原発や核兵器で地球を汚したりすると、
彼らに申し訳たたない、という気になってしまう。

それから、若い時は平気で食べた、
その姿をとどめている食べ物、
雀の丸焼きとか、エビのおどり食い、白魚のおどり食い、
などが次第に無惨な気がし、
すべての動物が、あわれにいじらしく、
いたいたしい思いになってきて、
人間よりも動物が好ましくなってくる。

そういうのもひっくるめ、
私は今までとちがう新しい一区切りへ、
足を踏み込んだ気がして、
この五十五がとても気に入っている。






          


(了)

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