・食べものは、
戦時中より戦後の方が窮乏した。
アメリカ映画を見て、
その中のプールつきの邸宅や車より、
豪華な食卓が印象強く、
(天国とはあんなのをいうのであろうか)
と呆然として帰って、冷えたすいとんをすすったけ。
そういう時代を経て見る町の春すがたは、
また格別の風趣というべきである。
春の帽子の花飾りや、
夏の白レースの日傘を開いてみる喜びは、
底しれぬ快楽である。
私のように、
黒いモンペや継ぎはぎのブラウス、
おばあちゃんの羽織、
おじいちゃんの古浴衣で作ったワンピースで、
少女の頃を過ごした女には、
今、流行っている黒い服、カーキ色のセーター、
くしゃくしゃのジーンズ、
剥げた古皮ジャンパーの、
わざと汚れたおしゃれには、
とうていついていけない。
きれいな夢のような、
花やいだ色でなければ、
身にまといたくない。
そういう花やかな色彩が権力によって奪われた時代の、
怨嗟をいまだ忘れぬ人種なのである。
力によって、人間の喜びを圧殺される時代が、
いつかまた来るかもしれない。
その怖れがあるから、
いま平和で自由な時代を幸いに、
私は好きな色を着たり試みたり、している。
そうしてしみじみ、
(ツイてたなあ)と思うわけである。
誰か予言者が私に向かって、
(三十年たったら日本は、
今のアメリカ映画の中の市民生活みたいに、
豊かになってますよ)とか、
(五十五になったあなたは、赤い靴をはいて、
ミッキーマウスの赤い腕時計をして、
心かるがる春の町を散歩してますよ)などと、
いわれても、容易に信じなかったであろう。
しかし生きのびて私はこんなに自由にいろんなものを楽しみ、
昔だったら(天国とはあんなものをいうのであろうか)
という生活をしている。
ツイていたのだ。
私の力のせいではなく、
たまたま生きのびられたのだ。
私と同世代の死者たちのてっぺんにのっかって、
私は生きている。
死者も生者もほんとのところ、
そう変りあるとも思えないのだが、
とりあえず私は、五十のぞろ目まで生かせてもらって、
「むはははは」なのである。
この半世紀の時代転換の激しさは、
日本史の中でも珍しいのではないかという気がする。
「平家物語」の平知盛みたいに、
(この知盛は男にも女にも好かれるタイプらしいが)
「見るべきほどのことは見つ」
という感慨に打たれている人も多いのではあるまいか。
終戦を境に価値観が逆転しただけでも、
見ごたえがあったのに、
いちばん大きい変換は女たちが変貌したことである。
男性の中には、
「男女共学がいけなかった。
女子の大学進学も許すべきではなかった」
という人もいる。
大きな声でいえないから、
小さい声でグチをいったりしていておかしい。
男性の身になってみると、
まことにそうだろうと同情しないではいられない。
この半世紀の女の意識変化というのは、
どんな男性知識人も予見できなかったほどである。
男の人にしてみると、
女たちの変化は畏怖と狼狽をかくせない、
というのが実情だろう。
女たちが自分の意見を持って、
それを口にし出したので、
男たちははじめ(このアホが)という感じで、
いうなら、灰皿のボヤだと思い、
コップの水をぶっかけて消そうとした、
と、その火はあちこちに飛び火して、
アッという間にメラメラと燃え上がり、
叩き消そうとするうち、いよいよ大きくなって、
消防だ、ホースだとうろたえている。
どうも私にはそういう風にみえて仕方がない。
女の変貌のとっかかりを見ただけでも、
私は五十五年生きた値打ちがあって面白い。
(次回へ)