「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

8、宿木 ⑫

2024年06月09日 08時04分51秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・匂宮と中の君の若君の、
五十日の祝いがきた。

生まれて五十日の祝いである。

薫はその日をたしかめ、
心こめて準備する。
  
祝いの席の餅、
果物、料理など。

用いる台や食器は、
高価な材料を用意し、
さまざま趣向を凝らして、
こしらえる。

薫も匂宮の留守の時に、
中の君のもとへ、
祝いに訪れた。

中の君が見る、
久しぶりの薫は、
やんごとない貫禄が、
加わったようであった。

今では薫は、
権大納言・兼右大将の顕官にあり、
帝の御婿という身分。

(皇女さまと、
結婚なすったのだもの、
昔の恋心は、
お忘れになっていらっしゃるはず)

と思うと中の君は、
安心して薫に会うことが出来た。

しかし薫は、
今までと少しも変らぬ雰囲気だった。

「心に染まぬ結婚をしてしまい、
思うようにならぬ世の中、
としみじみ思います。
悩みが深くなるばかりです」

率直に訴える。

「まあ、なんてことを、
おっしゃいます。
そんなことちらとでも、
人の耳に入ったら大変です」

中の君は言いながら、

(帝の皇女さまと結婚なさる、
というすばらしい幸運を、
引き当てながら、
この人は心慰まないとおっしゃる。
まだお姉さまのことが、
忘れられないでいらっしゃる。
なんて深いご愛情)

と思いつつ、
また考えてみれば、
大君が生きていたとしても、
自分と同じ不運な目にあって、
嘆きを重ねるのではあるまいか。

愛する男たちは、
身分高くそれぞれよき家柄の姫たち、
との結婚は避けられない。

姉君も、
いずれは自分と同じように、
物思いを強いられる運命で、
あったろう。

それを思えば、
愛し愛された薫にも、
ついに身を許さず終わった姉君を、

(ほんとに心深いお考えだった)

と中の君は思った。

薫が若君を拝見したいというので、
つれなく拒む気にはなれず、
乳母に抱かせて薫に見せた。

「おお、可愛い若君だ。
なんとお美しい稚児だろう」

薫は感嘆して見つめる。

色白で愛らしい赤児は、
声をあげて笑ったりする。

これが自分の子だったら、
と薫はうらやましかった。

(はかなくみまかった大君が、
自分と結婚してこんな子を、
残しておいてくれたら・・・)

そんなことばかり思われ、
新婚の女二の宮に、
自分の子供が生まれれば、
などということは、
ちらとでも考えない薫であった。

日が暮れてきたので、
坐を立たねばならなかった。

もう今までの薫ではない。

独身時代ならば、
気安く夜更けまで話し込むことが、
出来たのだが今は、
皇女の夫となった身、
夜になれば宮中へ赴かなければならぬ。

薫はため息を洩らしつつ、
邸を出た。

夏になると、
宮中から三條の宮へは、
方塞がりになり、
方角が悪いということで、
夏になる前の四月のはじめ、
薫は女二の宮を自邸の、
三條の宮に迎えた。

女二の宮は、
こうして薫の邸に、
お輿入れになった。

その儀式の美々しさは、
どういえばよかろう。

帝に仕える女房たちも、
みなこぞって姫宮を、
お送りする。

宮は廂の御車を召され、
お供の女房たちは、
廂のない糸毛の車三台、
黄金の飾り金具の車六台、
ただの車二十台、
網代車二台に、
童と下仕えが八人ずつお供して。

その上また、
お出迎えの車が何台か、
薫の邸の女房たちが乗っている。

かくてわが邸に迎えた、
女二の宮を薫はやっと、
うちとけてしみじみと眺める。

宮はまことに美しい方だった。

小柄で上品で、
しとやかなたたずまい、
これといった欠点はない、
貴婦人でいられる。

薫は自分の運命に満足しながらも、
内心、

(おれはこのひとを、
愛せるだろうか?
亡き大君を忘れることが出来るほど、
愛せるだろうか?)

という迷いを捨てきれない。

ほかの女人と暮らせば暮らすほど、
亡き大君への思慕は紛れる折もなく、
薫は苦しめられる。

それは生きている限り、
大君が忘れられない、
ということではないのか。

薫は宇治の寺を建てることに、
心を傾けた。






          


(次回へ)

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