むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

21、略歴

2022年06月01日 08時22分53秒 | 田辺聖子・エッセー集










・昨年の暮れに、
私は「女の日時計」という長編小説を出版した。

本の見本が出来上がった日、
私は繰ってみて、最後の略歴に目を通したとき、驚いた。

おもな著書として、「廓景色」「色模様」をあげてある。
これは私の作品ではない。

六、七年前に物故した女流作家の川野彰子さんの作品で、
「色模様」のほか、「廓育ち」という作品が、
直木賞候補になったりテレビや映画になったりしたから、
おぼえていられる方もあるかもしれない。

どうしてこんな奇異なことが起きたのだろうと思ったら、
その前の一行に、
「昭和四十一年、医師・川野純夫氏と結婚」
というくだりがあって、ハハアと思い当たった。

ここで間違えたのだろう。

というのは彰子さんの夫だったのも川野純夫氏で、
はやくいうと川野純夫氏にとって、
彰子さんと私は先妻、後妻の間柄だからである。

四十一年に結婚したのは私だけれど、
どこですりかえられたか、
彰子さんの作品と私のとまでがごっちゃになったらしい。

私は早速、係りの人に苦情を申し立てたが、
出版元の資料がそうなっていましたという弁明で、
大新聞社の資料にしてはずさんであるといわざるをえない。

さて私が憤慨していると、他人はニヤニヤして、
「やっぱり気になりますか」というのである。

「そりゃ、いやよ。
ホカの人だったらともかく、
彰子さんのなんてイヤです。
もっとも主人にしてみたら、
どっちも一緒かもわからへんけど」

というと、誰もが腹を抱えて笑いだすのは、
これは一体どういう事なのだ。

カンカンになっているのは私一人である。

しかし私にしてみれば向かっ腹が立つ、
大阪弁でいえば「けったくそ悪い」というところ。

いったい後妻というものは、
どうかして先妻とのちがいを誇示しよう、
ケジメをつけようという気があるのが普通で、
私もご多分にもれない。

それを作品までつっこみにされては、
たまらないという気がする。

しかし主人に言わせると、

「何いうとんねん、
いちばんいやなんはこっちやで。
気ぃつこうとんのやから」

などといっている。

「何や知らん間に、こないなっとんねんから仕方がない」

といい、それは私も同じで本人同士、
いまもキツネにつままれた気でいる位だから、
混乱するのは無理はないかもしれない。

もっとも私自身は、
彰子さんとは二、三度しか会ったことがなく、
もちろん、主人と知り合ったのも彼女の死後である。

しかし世間はそこのところも十把一からげで、
いいかげんなことをいう。

私が川野氏に同情して・・・
と見てきたようなことをいう報道もあれば、
彰子さんの在世中から仲がよかったという、
うがった見方もあって、私はその度、
あたまから湯気を立てて説明するのに忙しかった。

いまではくたびれてしまって、
何を言われても平気だと思えてきたが、
今度は作品まで間違っているとは、
怪しからんではないか。

私が怒ると人は笑うのが、なお、怪しからぬ。

もっとも私も悪いところはあり、
いまだに主人の姓ではなく自分の姓を押し通しているのが、
混乱のもとになる場合もある。

以前、私たちの別居結婚の折の別宅、
山手の家に泥棒が入った。

私は早速被害届をを出しに行った。
所有者は川野純夫で、盗難の届け出は田辺聖子である。

交番にいた警官は五十年輩の温厚な人であった。

「あんたは、川野さんの借家人でっか」と聞く。

「いいえ、川野は私の主人です。
でも、ここは別宅ですので、
いつもは診療所のほうの自宅におります」

と私は答え、自宅の電話番号を教えておいた。

数か月後、盗品が出たむね、警察から自宅へ通知があった。
電話してきたのは、かの温厚な警官である。

「もしもし、川野さんでっか」

私はそうだといった。
警官はまず咳払いし、

「あの・・・こんなこと、いうてええかいな」

と言い淀み、やがて意を決したごとく、

「ご主人は、あの何でんな、
山手のほうにもう一軒、家を持ってはりまんなあ・・・
こんなん、奥さんに言うてええかいなあ。
つまりそこがこの間泥棒に入られはって・・・」

私はこの警官の年輩者らしい配慮にいたく感心した。

彼は私を別宅夫人と勘違いしたのである。
山手の家は川野某の妾宅であると思い込んでいるのである。

世の中は誤謬と偏見とおっちょこちょいに満ちている。






          



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